岸島は早速、屯所に詰めていた土方に取り次いだ。
「山本さん、何事ですか」
「これから長州を成敗する話は聞いておるか」
「いかにも」
岸島は席を外そうとした。
「岸島くん、そこにいたまえ。君は…証人だ」
武家の世界では、大事な話が持たれる際に必ず一人、証人を差し立てる。
「では」
岸島は詰めた。
「こたびの戦、長州にご公儀が敗れるやも知れぬ」
山本の台詞は衝撃が強い。
土方は思わず、
「いや、そんなはずはない。多勢と無勢ではないか」
「その無勢が新式の銃や砲を持ち、セイミを学んだ軍師がおるとの話がある」
山本が口を開いたのは、ただならぬ内容であった。
「そもそも…セイミとは何だ?」
「セイミ学、すなわち緒方塾で教える最新の学問の一つでござるよ」
山本がこの手の話題に耳ざといのには、妹の八重と結婚した川崎尚之助という、緒方塾の出の洋学者からの情報が主である。
「緒方塾、か…確か手塚さんも緒方塾であったな」
土方の頭に浮かんだのは、近藤の父の周斎の代からの付き合いになる手塚良仙のことであったが、ここでは本題ではない。
「どうやら長州の新しい軍師は、その緒方塾で秀才と呼ばれた者であると聞いておる」
川崎からの知らせによると、その軍師により長州の軍制は大きく変わり、洋式の最新型の訓練を経た軍隊に変わったというのである。
「仮に山本さん、その新式の軍でご公儀が敗れるような話になったらば、どうなるというのだ?」
山本はしばし沈思した。
が、口を開いた。
「仮に長州が勝つようなことがあれば…滅びましょうな」
「では手はないのか?」
土方は食い下がった。
山本は黙考したあと、
「新撰組も洋式の新式の軍隊に変えれば良い。これだけの手練れを揃えた兵があって、砲術やさまざまな取り柄を持つ者がある。これらを新式に編隊を変えれば、長州とは五分以上に戦える」
と答えた。
ただ。
「しかしながら、それがしはかような目である。しかとその眼で見届けられるとよいかと思われる」
会津に山本あり、とのちに岩倉具視から言われただけの説得力は、持ち合わせていたらしかった。
山本が辞去したのち、
「…岸島くん」
「はっ」
「さきの話、くれぐれも他言は無用のこと」
「はっ」
「これが仮に公儀に筒抜けとなれば、我らが疑われたと一緒」
それゆえ、ぬかりなくやるように──と土方は立った。
この長州征伐のさなか。
大坂城内で指揮を執っていた将軍、徳川家茂が脚気の発作で世を去ったのである。
このため。
岸島は屯所で浮いた金を積み立て金とし、いざという際の有事の予算として、帳簿を新たに作ったのであった。
こうしたなか。
長州軍が小倉城を奪い、奪われた小倉藩小笠原家は豊津の香春へと転進。
周防大島で戦いを繰り広げていた幕府軍も惨敗の上、退却を余儀なくされ、次第に戦況は悪化の一途をたどりつつあった。
他方で。
将軍の突然の薨去、という事態に、次期の将軍を誰にするかで意見は割れていた。
政事総裁の一橋刑部卿慶喜、将軍の後見であった田安家の慶頼、さらに家茂のおじで津山松平家の斉民…と三人の候補が上がり、誰に絞るかを大老の酒井雅楽頭が決断できずにいる…という現況である。
「通常であれば血筋がものを言うが、今は非常のときである」
一橋刑部卿に頼むのが最善ではないか、というのが老中の脇坂淡路守をはじめ、幕府の幹部のおおかた一致した意見であったが、
「あの御仁はいささか才はあるが」
と会津侯や越前侯あたりは一橋の一誠のなさを危惧していたようで、
「あれならまだ田安どのが良い」
という異論もあった。
この相続の決定までに幕府は長州戦で連敗に次ぐ連敗を重ね、次第に戦意は喪失し、公儀の威光も地に落ちつつあった。
「近藤さん、もはや公儀に頼るのは無理があるのではないのか」
と、伊東甲子太郎や加納道之助などが主張をした。
確かにその通りであろう。
仮に現実的は路線をとるならば、幕府の傘下を離れて動くことも不可能ではない。
戦は勝つ方につくのが武家の原則である。
しかし。
「伊東くん、われわれは公儀や会津侯に恩義がある」
恩義あっての新撰組だ、と近藤は言った。
「それは武家のとるべき道ではあるかも知れないが、恩義ある人を裏切ってまで人のとるべき道ではない」
この辺りが、近藤の面目躍如たるところであったかも分からない。
いっぽうの岸島はというと。
おしげに教えていたそろばんは、次第に評判を呼んで寺子屋よろしく近所の子も習いに来るようになっていた。
「岸島さんは子供を手なずけるのがうまいなぁ」
などと沖田あたりなんぞは言っていたが、しかしそろばんがうまいだけの無能な隊士でないことだけは沖田にも察せられたようで、
「岸島さんは、伊東さんをどう思われますか」
と水を向けてみた。
すると。
「沖田どのゆえお答えいたしまするが」
と普段は主義や主張など口にもしない岸島が、
「少なくとも筋が一本通っているのは近藤局長ではなかろうかと存ずる」
伊東の意見はいわゆる変節の理で、人は恩義ある者を裏切ってはならないという近藤の見識を、岸島は認めていたようであった。
「しかしなぁ、僕は岸島さんみたいな隊士には、変に戦で討ち死にしてもらいたくないな」
沖田は言った。
「まぁ僕は労咳持ちでいつ死ぬか分からないけど、岸島さんにはそろばんの腕もあるし、何より子供に好かれる」
そういう人は簡単には斬り死にされてほしくない、というのが沖田の偽らざる本音であったらしい。
「お言葉ありがたく存じまするが、勝ち負け生き死には武家のならいにて」
と、会釈をするのが沖田への、岸島の精一杯の謝意であった。