【完】『そろばん隊士』幕末編


廊下を進んだ。

奥の間の障子を開け放ってから、

「御用改である、失礼いたす」

と呼ばわった。

が。

暗がりの中には布団だけで、女が隅で震えているばかりであった。

「旦那はおりしません」

とのみ女は答えた。

「安堵いたせ、女子供は斬らぬ」

女は慌ただしく逃げた。

「…逃げたな」

土方は呟いた。

「では、それがしも切腹になるので…?」

思わず岸島はもらした。

「いや」

土方は苦笑いをした。

「きみは屯所に使いも出したし、指図に従った」

何も軍律は冒しておらぬ、と言ってから、

「これしきのことでいちいち隊士に腹を切らせていては、勘定方が誰も居なくなってしまう」

と笑って、もと来た廊下を引き返した。




翌朝。

墓地に潜んでいた赤座が捕まって屯所に引き立てられると、

「士道不覚悟につき切腹」

という処断で、岸島は介錯を命ぜられた。

検分役は斎藤一である。

「それがしは居合なので、介錯はいささかおぼえがない」

岸島が言うと、

「ならば居合のやりかたで首をはねればよい」

との斎藤の回答で、

「ならば」

と白洲に立った。

すでに赤座は麻裃で着座している。

「命により介錯つかまつる。辞世かご遺言はございまするか」

「ない」

礼をしようとした瞬間。

赤座が立ち上がりざま脇差を振りかざした。

次の刹那。

岸島の刀が鞘を走り出、弧を描いて首をはね、立て膝のまま胴体が倒れ込み、首は植え込みの松の枝の股に嵌まってとまった。




報告を受けた土方は、

「ほう、立ち上がりざまに首を」

勘定方には惜しい、とは言ったが、ただこれ以上勘定方を前線に立たせることに抵抗を感じてもいたようで、

「斎藤くんはどう思う」

と言った。

「むしろ勘定方に留め置き、いざというときに出張ってもらうほうがよろしかろうかと」

隊士は捨て駒ではない、というのが斎藤の意見である。

「それは良い案である」

土方は斎藤の意見に乗った。




斯くして。

岸島芳太郎は八番隊から、次は取調方監察へと異動を命ぜられた。

むろん。

勘定方は兼務である。

ただ。

監察には山崎丞や尾形俊太郎など仕事の出来る人物が多かったのもあり、ほとんど勘定方としての勤務の時間帯が長い。

そうした中。

勘定方として長年、局中の会計を担ってきた河合に切腹が命ぜられたのである。

表向きは、

「不明の金銀これあり、その責めを負う」

とあるが、帳簿を見る限り怪しげな使い道はない。

むしろ。

局長の近藤が深雪太夫の他にも何人かの囲い女のために、金を湯水のように使うことを、河合が快く思っていなかったことを岸島や芦名は知っていたので、

「おそらく口やかましい河合どのを口封じするために、腹を切らせたのではあるまいか」

と芦名鼎は言った。




しかしながら。

当の近藤にそのようなことを訊くのも憚られるほど、局中の空気感はヒリヒリとしたものになりつつあった。

というのも。

例の伊東甲子太郎の派閥が、

「新撰組の本来ののぞみは尊皇攘夷ではないのか」

と言い、会津家の差配から離れることを主張し始めたからである。

驚くべきことに。

この意見には牛込の試衛館いらいの同志であるはずの藤堂平助や、池田屋事件の前から伍長をつとめ、今は大砲方である阿部十郎、さらには槍や柔術、果ては銃の扱いまで知る毛内有之助といった者まである。




これには。

「抜けられては困る方々ばかりではないか」

と岸島は驚いたようで、

「仮にそれで隊が割れてみよ、長州に攻められれば敗ける」

と指摘したのは、岸島付きに異動していた平隊士の徳田である。

さらに。

いわゆる伊東派の中に薩摩から入った富山弥兵衛がいたことが、伊東派の心証をよからざるものにしていた。




意を決した岸島は、

「局長に面会に行く」

と、やおら刀をひっ掴んだ。

すると。

「岸島さん一人に行かせるわけには参りません」

そういうと、徳田は芦名を呼びにやってから、

「われわれも参ります」

単身なら斬られるかも知れないが、三人がかりで行けば、よもや斬られることは少ないと踏んだのであろう。




門を出ようとしたそのとき、である。

「おい、岸島くん」

聞き覚えのある声に振り返ると、

「…原田どの」

いたのは原田左之助である。

「お前たち、徒党でどこへ行く」

「局長に面会に参る」

「…近藤さんに?」

脇にいた徳田がざっくりとした説明をすると、

「よしわかった、おれもゆく」

「いや、原田どのにご迷惑をかけるわけには参らぬ」

「おれは近藤さんが、貧乏道場の跡取りだった頃から知っている」

おれに任せとけ、と原田は言った。

「しかしながら…」

「実はな、おれも伊東さんの動きはきな臭いと思っていてな」

だからおれも訊いてみたかったのさ、と不敵な笑みを見せてから、

「とにかくおれもつれて行け」

何かあればおれがなんとかしてやる、と原田は胸を反らせた。




ともあれそういったいきさつで岸島、徳田、芦名の三名に原田が加わり、近藤が囲い屋敷にしている深雪太夫の妾宅に着くと、

「邪魔するぜ」

といきなり原田がずかずか入ってゆく。

「岸島くん、ついてきなさい」

言われるがまま三人も入る。

物音に驚いたらしい深雪太夫がするする、と式台まで進み出て、

「これは原田さま、いかがされましたか?」

「火急の件があって、取り急ぎ近藤さんに会いに来た」

「ならばお取り次ぎいたします」

深雪太夫は奥へ消えた。

すると原田が、

「岸島くん、裏へ回れ」

岸島と芦名が裏木戸へ回る。

原田は式台に腰を下ろすと、

「徳田くん、飲むか」

と腰に提げてあった竹筒の酒をグヒグビと飲み始めたのである。