【完】『そろばん隊士』幕末編


東本願寺から塩小路、高倉通へ折れて枳殼邸の辺りを回ったあと六条院から高瀬川を少し沿って、正面通から橋へ出た。

「そろそろ赤座隊が来るはずだが」

しかし。

四半刻ばかり待ったが来ない。

「もうすぐ刻限です。屯所に戻りましょう」

阿部に促されるまま岸島隊と阿部隊は西本願寺屯所に戻ってきた。

「見回り大儀である」

声をかけてきたのは、この時期に伊東甲子太郎と共に入隊してきたばかりの毛内有之助という隊士である。

岸島と阿部は黙礼した。

「して、赤座くんは?」

「…まだ、戻っておりませぬか?」

岸島は胸騒ぎがした。




とにかく手分けして探そう、という話になり、岸島隊と阿部隊、注進のあと加勢に来た三番隊からの数人で方々に散って探したが、

「そちらは?」

かぶりを振るばかりで見つからない。

子の刻近くなるとすでに近藤や土方の知るところとなり、

「さては赤座、逃げたな」

逃亡は切腹である。

とにかく探し出せと言い、総勢で四十名ばかりで探索した。

すると。

丑の刻近くになって島原の郭で見たという証言が出て、郭の揚屋をしらみ潰しに聞き始めた。

やや間があって。

「見つかりました!」

声の方へ岸島が向かうと、輪違屋の一間で女と同衾しているとの目撃談で、

「いかがいたしましょう」

岸島は駆け付けてきた土方に訊いた。

「言うまでもない」

とだけ言い、顎で指図をした。




「なれど逃亡とはちと違うように見受けられますが」

「士道不覚悟、だ」

土方の言葉には隙がない。

しかしこの隙のなさが、あらぬ敵を産み出してきたのもまた事実である。

が。

岸島は特に敵意を感じなかった。

この辺りが正規の武士から隊士になった者の所以なのであろう。

「では」

御用改である、と岸島は呼ばわり中へ入った。

いかに俗世と無縁の遊廓といえども、御用改となると話は別である。

「では改めさせていただく」

岸島の物腰は低い。

新撰組には珍しく折目の正しいたたずまいであったからこそ、赤座のような撃剣一本槍な隊士とは合わなかったのかも分からない。




廊下を進んだ。

奥の間の障子を開け放ってから、

「御用改である、失礼いたす」

と呼ばわった。

が。

暗がりの中には布団だけで、女が隅で震えているばかりであった。

「旦那はおりしません」

とのみ女は答えた。

「安堵いたせ、女子供は斬らぬ」

女は慌ただしく逃げた。

「…逃げたな」

土方は呟いた。

「では、それがしも切腹になるので…?」

思わず岸島はもらした。

「いや」

土方は苦笑いをした。

「きみは屯所に使いも出したし、指図に従った」

何も軍律は冒しておらぬ、と言ってから、

「これしきのことでいちいち隊士に腹を切らせていては、勘定方が誰も居なくなってしまう」

と笑って、もと来た廊下を引き返した。




翌朝。

墓地に潜んでいた赤座が捕まって屯所に引き立てられると、

「士道不覚悟につき切腹」

という処断で、岸島は介錯を命ぜられた。

検分役は斎藤一である。

「それがしは居合なので、介錯はいささかおぼえがない」

岸島が言うと、

「ならば居合のやりかたで首をはねればよい」

との斎藤の回答で、

「ならば」

と白洲に立った。

すでに赤座は麻裃で着座している。

「命により介錯つかまつる。辞世かご遺言はございまするか」

「ない」

礼をしようとした瞬間。

赤座が立ち上がりざま脇差を振りかざした。

次の刹那。

岸島の刀が鞘を走り出、弧を描いて首をはね、立て膝のまま胴体が倒れ込み、首は植え込みの松の枝の股に嵌まってとまった。




報告を受けた土方は、

「ほう、立ち上がりざまに首を」

勘定方には惜しい、とは言ったが、ただこれ以上勘定方を前線に立たせることに抵抗を感じてもいたようで、

「斎藤くんはどう思う」

と言った。

「むしろ勘定方に留め置き、いざというときに出張ってもらうほうがよろしかろうかと」

隊士は捨て駒ではない、というのが斎藤の意見である。

「それは良い案である」

土方は斎藤の意見に乗った。




斯くして。

岸島芳太郎は八番隊から、次は取調方監察へと異動を命ぜられた。

むろん。

勘定方は兼務である。

ただ。

監察には山崎丞や尾形俊太郎など仕事の出来る人物が多かったのもあり、ほとんど勘定方としての勤務の時間帯が長い。

そうした中。

勘定方として長年、局中の会計を担ってきた河合に切腹が命ぜられたのである。

表向きは、

「不明の金銀これあり、その責めを負う」

とあるが、帳簿を見る限り怪しげな使い道はない。

むしろ。

局長の近藤が深雪太夫の他にも何人かの囲い女のために、金を湯水のように使うことを、河合が快く思っていなかったことを岸島や芦名は知っていたので、

「おそらく口やかましい河合どのを口封じするために、腹を切らせたのではあるまいか」

と芦名鼎は言った。




しかしながら。

当の近藤にそのようなことを訊くのも憚られるほど、局中の空気感はヒリヒリとしたものになりつつあった。

というのも。

例の伊東甲子太郎の派閥が、

「新撰組の本来ののぞみは尊皇攘夷ではないのか」

と言い、会津家の差配から離れることを主張し始めたからである。

驚くべきことに。

この意見には牛込の試衛館いらいの同志であるはずの藤堂平助や、池田屋事件の前から伍長をつとめ、今は大砲方である阿部十郎、さらには槍や柔術、果ては銃の扱いまで知る毛内有之助といった者まである。




これには。

「抜けられては困る方々ばかりではないか」

と岸島は驚いたようで、

「仮にそれで隊が割れてみよ、長州に攻められれば敗ける」

と指摘したのは、岸島付きに異動していた平隊士の徳田である。

さらに。

いわゆる伊東派の中に薩摩から入った富山弥兵衛がいたことが、伊東派の心証をよからざるものにしていた。