翌朝。
岸島は雨上がりの三百坂を出て、上野の広小路まで歩いてみた。
広小路のあちこちには楯の代わりに使われたらしき戸板や、ひっくり返ったままの天水桶、折れ曲がった鋳物の刀に首のない武士の亡骸まで、そのままに放置されている。
そのまま歩くと、
「岸島くんではないか」
声をかける者がある。
振り向くと、小野権之丞であった。
「君は彰義隊ではなかったのか」
「どうやら、原田どのはいたらしいが」
「あぁ、そうだ」
小野は懐から包みを取り出した。
包みを渡された岸島は、それを繰り開いた。
見覚えのある小柄である。
「原田どのから、ぜひ岸島どのにとお預かりいたした」
そのあとの原田の消息は小野ですら分からなかったらしく、
「ただ生きているとは思えぬゆえ、恐らく討ち取られたものかと」
と小野は言った。
包みを受け取ると、岸島と小野は辻で別れた。
もと来た道を三百坂をめざして歩いていると、騎馬の武士と行きあった。
こういうときには作法がある。
道を譲り、お辞儀をした。
この場合、馬上の者は挨拶をせねばならない。
「これはいたみいる」
「松平伯耆守家来、軽きものにございます」
「では」
騎馬の武士はよく見ると洋式の軍服に軍靴で、腰には刀から拵を直したとおぼしきサーベルが下がっている。
「…官軍、か」
呟くと岸島は、再び広小路を富坂に出て、小石川から三百坂へと戻る道筋を歩き始めた。
それからしばらく過ぎて。
「仕官が見つからぬゆえ、京へ戻ろうかと」
岸島はそう言うと、手塚にそれまでの謝意を述べて、東海道を西に向かった。
手塚が餞別にと古手ながら一式の旅装を渡してくれたので、正規の武士の旅装である。
懐中には原田の小柄と、あとから小野が調べてくれた原田の命日と戒名が書かれた文があった。
「まずはおまさどのとおしげどのにお伝えせねば」
これが済んだあとは、そろばんを教えながら京で静かに暮らす腹積もりで、六郷の渡しを越え、まずは川崎の宿場へと歩を進めるのであった。
【明治編へつづく】