しかし。
岸島が久々に宮津藩邸に行くと、
「いかに勘定方が手薄とはいえ、仮にも新撰組を抱えたとあっては、新政府の聞こえもいかがかと」
と、実につれない返答で断られてしまった。
仕方なしに、何度か面識のあった三百坂の手塚良仙のもとをたずねると、
「うちでは無理だが、仕官が決まるまで居候でもしておけ」
と、手塚は快く引き受けてくれた。
もともと親分肌なところにきて、薩摩や長州に我が物顔で町を闊歩されるのを、江戸っ子の手塚は好意的に見てはいなかった。
それだけに、
「まぁ任せとけ、おれはこれでも葵の羽織をもらった医者だからな」
と言い、薩摩や長州などどこ吹く風といったような顔で往診に出たりしている。
最初は肩身が狭かった岸島だが、そろばんを手伝うと買って出ると、
「おぅ頼まぁ」
と、これまた気安い。
手塚の竹を割ったような気性に、岸島は安堵をおぼえた。
三百坂に岸島が慣れてきた頃、
「悪いがサンピンの怪我人を診てもらえねぇか」
と、付き合いのあった火消しの頭の頼みを引き受け、戸板で武士が手塚のもとへ担ぎ込まれたことがあった。
「調練の最中にしたたか腰を打ったらしい」
という付き添いの武士を見て、岸島も手塚も驚いた。
原田左之助ではないか。
「なんだ岸島、お前こんなところにいたのか」
互いに驚いたというどころではない。
「まさか原田が寛永寺の彰義隊にいたとはなぁ」
手塚は笑った。
彰義隊といえば、直参でも特に血の気の盛んな連中が集まった隊である。
「そこに新撰組でも槍の左之助と恐れられた原田が加わったら、大仏様がおわすのに、殺生禁断の上野の山が血なまぐさくなっちまう」
と手塚は毒づいたが、
「そういうあんただって、薩摩や長州の錦切れがいるなか、十四代さまが下された葵の羽織なんか着て歩いてるじゃねぇか」
原田がやり返した。
ちなみに葵の羽織というのは、手塚が奥医師として当時の和宮を診察した際の対処を誉められ、時服拝領でいただいた三つ葉葵の羽織である。
「あんなもん肝試しさ。みんなびっくりして見送るから、そりゃあ見ものだぜ」
手塚も負けてはいない。
手当てはすぐに片付いたが、
「ただ言っとくが、薩摩や長州は何をしてくるか分からねぇから、これしきの打ち身はおのれで手当てできるようにしといたほうがいい」
と、手当ての仕方を書いた手引きを原田に渡した。
「ところで岸島、お前宮津に帰参したんじゃなかったのか?」
「断られた」
と例の新撰組云々の話をした。
「けっ、なんだ腰抜けじゃねぇか」
原田は吐き捨てた。
「まぁ大名家とはそうしたものかも知れぬな」
岸島は涼しい顔である。
このところの江戸は薩摩の高輪の屋敷の周りで庄内兵と小競り合いがあったり、深川の岡場所で袖章をつけた兵が狼藉に及んだりと、きな臭い話が飛び交っていた。
「吉原はさすがに、花代が高いから行ってねぇらしいが」
「田舎の貧乏侍が江戸を乗っ取って幕府を新しく開くたぁねぇ…」
世も末だ、と手塚は嘆いた。
少なくとも江戸では、
「なんだか帝も不憫なもんで」
と囁かれるほど、とにかく新政府の評判は芳しくなかった。
特に町人たちの間では態度が横柄だの、御用金を出せと日本橋の商家や尾張町の街道筋で金銀を強引にせしめるなど、まるで破落戸まがいのことをする者すらあって、
「あいつら新しくてめぇで幕府を開くつもりらしいぜ」
という噂も手伝って、誰も手を貸す者がなかった。
そうした状況のなか。
上野の方角で大砲の音が聞こえたのは、蒸し暑い雨の朝である。
「…始まったか」
手塚は呟いた。
「それにしても大砲とは」
「だから、何をしでかすか分からねぇって言ったろ?」
手塚にすれば、新政府などと大層なことを言われても、裏返せば実権を将軍家からかすめ盗ったという認識で、いわば追い剥ぎや盗賊と変わらない感覚であったのかも分からない。
まだ砲撃の轟音は響いている。
雨もやまない。
「あいつら、下谷を焼け野原にするつもりか」
手塚は驚きを通り越してあきれていた。
やがて。
ドーン、と一際大きな発射音が四発ばかり響いた。
「…なんだ?!」
思わず障子を開けた。
岸島も思わず身を乗り出した。
ほどなく。
雨が小降りになり、大砲の音も消えた。
「…終わったのか」
岸島と手塚は顔を見合わせた。
やがて上野の山の方角から、煙が上がり始めた。
「敗けたな」
手塚は不快な顔を隠さないまま、奥へと引っ込んだ。
岸島はやまない雨を眺めながら、何かが終わって何かが新しく変わるような気がしたようであった。
翌朝。
岸島は雨上がりの三百坂を出て、上野の広小路まで歩いてみた。
広小路のあちこちには楯の代わりに使われたらしき戸板や、ひっくり返ったままの天水桶、折れ曲がった鋳物の刀に首のない武士の亡骸まで、そのままに放置されている。
そのまま歩くと、
「岸島くんではないか」
声をかける者がある。
振り向くと、小野権之丞であった。
「君は彰義隊ではなかったのか」
「どうやら、原田どのはいたらしいが」
「あぁ、そうだ」
小野は懐から包みを取り出した。
包みを渡された岸島は、それを繰り開いた。
見覚えのある小柄である。
「原田どのから、ぜひ岸島どのにとお預かりいたした」
そのあとの原田の消息は小野ですら分からなかったらしく、
「ただ生きているとは思えぬゆえ、恐らく討ち取られたものかと」
と小野は言った。
包みを受け取ると、岸島と小野は辻で別れた。
もと来た道を三百坂をめざして歩いていると、騎馬の武士と行きあった。
こういうときには作法がある。
道を譲り、お辞儀をした。
この場合、馬上の者は挨拶をせねばならない。
「これはいたみいる」
「松平伯耆守家来、軽きものにございます」
「では」
騎馬の武士はよく見ると洋式の軍服に軍靴で、腰には刀から拵を直したとおぼしきサーベルが下がっている。
「…官軍、か」
呟くと岸島は、再び広小路を富坂に出て、小石川から三百坂へと戻る道筋を歩き始めた。
それからしばらく過ぎて。
「仕官が見つからぬゆえ、京へ戻ろうかと」
岸島はそう言うと、手塚にそれまでの謝意を述べて、東海道を西に向かった。
手塚が餞別にと古手ながら一式の旅装を渡してくれたので、正規の武士の旅装である。
懐中には原田の小柄と、あとから小野が調べてくれた原田の命日と戒名が書かれた文があった。
「まずはおまさどのとおしげどのにお伝えせねば」
これが済んだあとは、そろばんを教えながら京で静かに暮らす腹積もりで、六郷の渡しを越え、まずは川崎の宿場へと歩を進めるのであった。
【明治編へつづく】