【完】『そろばん隊士』幕末編


加納の指図で、

「戸板を」

と運ばれてきて伊東の亡骸を乗せ、去ろうとしたときである。

「藤堂くん」

「…斎藤さん」

たたずんでいたのは斎藤一である。

「悪いが、君たちはもう帰れない」

これが合図であったらしく、

「藤堂くん、覚悟!」

永倉新八が斬りかかった。

「永倉さん…そういうことでしたか」

原田が天水桶の陰から馳せ出ると、加納を槍で突く仕種をした。

「加納、お前だけは許さん」

原田は何か加納に遺恨があったらしいが、今となってはわからない。

たちまち斬り合いが始まった。

岸島はまだ天水桶の陰にいる。

が。

柄に手をかけ、抜く瞬間を狙っていた。

その間にも。

壮絶な斬り合いで、火花と音で辺りは騒然としていた。




永倉と藤堂は鍔競り合いになっていたが、

「永倉!」

原田の声で一瞬離れた。

藤堂は翻った。

その時。

「…!」

藤堂を一刀で斬ったのは、三浦常三郎であった。

「岸島さん、やりました!」

声がする。

視線を切った。

その一瞬、岸島の左腕に痛みが走った。

わずかな隙をついて、毛内有之助の切っ先がひらめいたのである。

次の刹那。

岸島の刀は地を摺るように下から毛内を斬り上げた。

「…さすが居合の岸島というだけはある」

しかし。

人斬り鍬次郎こと大石鍬次郎が毛内に斬りかかり、激しい打ち合いとなった。

岸島は再び刀をおさめ、息を整えた。




声が飛んだ。

「加納が逃げたぞ!」

確かにすでに加納の姿がない。

原田の槍を受けたはずなので、遠くへは行っていないはずであるが、

「逃げよったな!」

猛者で知られた横倉甚五郎の猛々しい声がする。

「岸島さん、頼む!」

声がした。

そこには二刀流の服部武雄を前に、数人がかりで取り囲んでいる。

が。

手を出せずにいる。

「…服部どの、武士ならば潔く腹を召されよ」

岸島は言った。

「岸島くん、君と一度手合わせをしたかったのだ」

言われたら仕方がない。

二刀流の構えの服部に居合の岸島という間合いになった。

睨み合った。

服部の左が動いた瞬間を岸島は逃さず振り抜いた。

左の手首から先が斬られて飛んだ。




服部の左手は脇差を握ったまま、天水桶に当たって落ちた。

「さすがは一刀流の居合」

服部には右手がある。

が。

岸島は抜いたら普通に戦わねばならない。

居合は抜いたあと、撃剣として戦わなければならないのだが、これはあまり得手ではない。

服部の振りの早さは尋常ではない。

岸島は体が崩れた。

もはやこれまでかと思われたとき、

「…っ!」

身代わりのように立ち塞がって服部の刀を受けたのは徳田であった。

「岸島さん、早く!」

二人がかりになった。

間を詰めながら横に動いた。

爪先に、猫がいる。

服部が猫に視線を切った瞬間、

「…!」

原田の槍が服部の腹を突いた。

そこへ徳田が斬りかかった。

が、徳田は跳ね返され袈裟懸けに斬られ倒れた。

間があった隙に岸島は刀をおさめ、再び居合の構えに戻っている。

「岸島くん、次は君だ」

これが服部の最期の言葉となった。

言うが早いか、岸島の刀は素早く服部の首をはねていたからである。




徳田に岸島は駆け寄ったが、ほぼ即死であったらしく、すでに息はない。

「…徳田くんは実に勇敢であった」

原田は徳田に合掌をした。

岸島は服部の羽織の袖をちぎると、首を包んで小柄を添えた。

これは敵の首を討ち取った際、羽織か小袖の袖で首を包み、身に付けていた物を添えて物証とする、昔ながらの戦の作法であった。

「岸島くんは、作法をわきまえているなぁ」

後ろにいた永倉が見ていたようである。

「ひとまず引き揚げるぞ」

徳田をはじめ、数人斬られた隊士を戸板に移し、引き揚げが始まった。

「敵の亡骸はいかがいたしましょう」

岸島は訊いた。

「そのまま打ち捨てよ」

またいずれ誰か来る、そのときまた討ち取れば良い、というようなことらしかったが、

「首も置いて行け」

という指示なので、亡骸の脇に添えるように置いて合掌し、油小路を立ち去った。




実はこの引き揚げのあと、翌朝になってたまたま通りかかった桑名藩士によって詳しく記されてあり、服部の首も包まれてあった。

しかし。

この一件は伊東派の遺恨を買う事態となった。

この一ヶ月後。

今度は近藤が加納に狙撃されて重症を負う…といった事件に発展する。

が。

岸島とは関わりがないので詳細は割愛する。




近藤の狙撃から約半月後、それまで緊張の状態にあった鳥羽街道と伏見で、遂に幕府側と新政府側とで紛争が勃発した。

世に言う鳥羽伏見の戦いである。

この混乱の中、洛中で洋学を教えていた山本覚馬が薩摩側に連行され、座敷牢へ押込となった。

いっぽう。

岸島は小荷駄隊の隊長として芦名、島田と共に、伏見街道を本陣の奉行所を目指して移動していた。

近藤たちはすでに奉行所にある。

この小荷駄は中身が実は百四十両もの現金で、奉行所へと運び入れる途中であった。

藤森の稲荷の手前辺りまで来ると、

「あと少しだぞ!」

島田の声に鼓舞されながら、小荷駄隊は進んで行く。

これを。

稲荷の森の藪の中から狙っていたのは加納であった。

「あれを横取れ」

加納が選んだのは狙撃の隙を衝いて奪い取る作戦で、鉄砲の覚えがある鈴木三樹三郎が撃つことになった。




稲荷の藪に身を潜めた鈴木、加納らは小荷駄の先頭にいた三引両の羽織の若者に照準を合わせた。

「あれは近藤ゆかりの者に相違ない」

近藤家の紋は三引両である。

鈴木が引き付ける。

引き金を引いた。

ドン、と鈍い音がした。

銃声がしたあと、先頭の三引両が倒れた。




ところが。

ここで誤算が起きた。

なんと島田が先頭を担いで、さらに自ら車を押しはじめたのである。

これで車は早くなった。

あとから追いかけようとするが、笹に足をとられ転倒する者が出始めた。

さらに。

銃声を聞いた肥後藩の隊が、

「藪に誰かあるぞ!」

と山狩りをはじめたのである。

これが隠密裡でなく根回しがされてあれば、うまくいったのかもわからない。

が。

どうも総取りを企んでいたらしく、一切の根回しをしてなかったのである。