茜色の空がその色を濃くし、やがて紺に飲み込まれたあたりでヤスは漸く腰を上げる。

俺はそれを気配だけで感知すると、ペンを止めて机のライトを消し立ち上がった。

一緒に家を出て、静かな住宅街を歩く。聞こえるのは足音とヤスが押してる自転車のチェーンの音だけ。会話らしい会話はない。会話をしようという意思もない。けど、2人の間に蔓延る沈黙を気まずいとは思わなかった。


「また、来るわ。」


その沈黙が破られるのは決まって、コンビニに着いた時。無言で駐輪場に向かう俺の背中にヤスがそう言葉を投げる。俺はその声に顔だけで振り返り、心底嫌そうな顔をする。ヤスはそんな俺を見てニヤっと笑った。

暗がりの中に彩度を落としたヤスの金髪が溶け込んでいく。かったるそうな後ろ姿を見送り、俺は自転車を止めるとコンビニのドアを潜った。

別にヤスを見送るために家を出てきたわけじゃない。ただ、俺が見てないところで自分の家を歩かれるのが落ち着かないからだ。それが例え部屋から玄関までの廊下でも。

だから俺はわざわざ勉強を中断し立ち上がると玄関までヤスと一緒に降りる。そして、立ち上がったついでにどうせなら、と夜食を買いにコンビニまで行く。たったそれだけのこと。



特別な事情がない限りは毎日通ってるコンビニ。当たり前に見慣れた景色の中で、見慣れないものがあった。

エナジードリンクと眠気覚ましのミントガム、それから糖分を補給するためのチョコレートを持ってレジに並んでる時に気づく。


……あんな、店員いたか?


コンパスで描いたような店長とやけに図体のでかいもっさりとした男の店員。それから頭の悪そうな大学生の男と揃った前髪が印象的な黒髪のおばさん。俺が知ってるこの店の店員のラインナップはそれだった。

けど、いる。ヤスの比じゃない、神々しいほどの金髪の女が、いる。


手際の悪さから察するに、新しく入った人なのかもしれない。俺は観察するように女を見ながら、誰にも気づかれないように溜息をついた。

そもそも俺の家から一番近いコンビニはここじゃない。家を挟んで反対側にあるところが一番近い。けど、俺はここに通ってる。その理由はただ一つだけ、ここの店員に同世代の女がいないからだ。

なのに、いる。女が、同世代ではないにしろ若い女がいる。俺は頭を抱えたくなった。


「最悪だ。」


口の中だけでそう呟く。もういっそ何も買わずに帰ろうか、と思ったところで、


「次!次のひと、どーぞ!」


よりにもよって、その女のレジが空いた。女ってだけでも嫌なのに、やけに間延びした頭の悪そうな喋り方が嫌悪感に拍車を掛ける。

渋々、本当に渋々その女のレジへ向かう俺は黙って商品をカウンターに乗せ、


「らっしゃいませー。」

「……。」

「あ、今コロッケ揚げたてっすよー。」

「……。」


コンビニでは珍しい営業トークに無視を決め込む。

普通の店員ならそこで止める。口を噤む。が、


「飲み物と一緒だと30円引きなんでえ!」


その女は普通じゃなかった。

痛みきった金髪は緩く後ろで一つに縛られ、商品を取る手の爪は何故が全て黒く塗りつぶされてる。白い華奢な指はまるでそのか弱さを打ち消すかのようにシルバーのゴツいリングで武装が施されていた。


「お得っすよ。」


どちらかと言えば面長な顔立ち。キリッとした目元。ただでさえキツそうな顔立ちは濃く描かれたアイラインの所為でその威力を増していた。

けど、だからといって怖そうだと思わせないのは、よく動く表情筋の
お陰かもしれない。


「あたしもよく食べるんですけど、超うまいよ。」


太陽のように笑う女だと思った。


「……じゃあ、それも。」


なんでもいいから早く切り上げたいっていうのが半分、そこまで言うならって言うのが半分。

随分と投げやりな言い方だった。自分でもその自覚はある。けど、目の前の女はそんなことなんて気にもとめてないようにからっと笑い、


「まいど。」


ここは八百屋かと突っ込みたくなるような言葉を使う。

その後も会計が終わるまで女は崩れかけた敬語でベラベラとどうでもいいことを喋り、俺はその一切をシカトした。

脈絡のない話し方は俺のイメージする女そのもので、けど俺の態度なんてどうでもいいといった様子は、知ってる女の誰からも遠い。

不躾に手に触れながら渡されるお釣りを無言で受け取り、店を出る。背後で自動ドアが閉まった瞬間に訪れる、静寂。

煩い女の声に痛めつけられた鼓膜が静かな夜の空気に癒されていく。俺は無意識のうちに安堵の息を吐いていた。

知らずのうちに緊張していたらしい心臓がほっと緩んだその瞬間、


「あっ! ちょっと待って!」


記憶に新しすぎる声が耳をつんざいて、心臓がまたキュッと強張った。


「ねえ! ねえってば! 間違ったんだって!」


慌ただしい声は次第に音量を増す。けどそれは声自体が大きくなってるわけじゃなくて、単に距離が近づいてるから。

俺はそれを振り切るように足を早め、


「それ、メンチカツ!」


……たのに、呆気なく捕まった。


一際大きな声が鼓膜を突き抜けたのと、左肩が沈んだのはほぼ同時。

後ろから追ってきてるのには気づいてたけど、まさか肩を掴まれるとは思ってなかった。素直に驚いた俺の口からは「わっ、」なんて無防備な声が飛び出す。

そのままの勢いで振り返れば、俺の肩に手を置きながら、中腰になって息を乱すさっきの女店員がいた。


「あたし、コロッケとメンチカツ入れ間違っちゃって…っ。」


全力疾走してきたらしい。俯いてる所為で表情は伺えないけど、その声は掠れてる。


「ごめっ、取り替えたいからさ、悪いんだけど戻ってくれる?」


はぁ――と長い息を吐き、漸く通常状態に戻ったらしい女。口では謝ってるけど、その口調に申し訳なさは微塵もない。

よくもまあ、あの店もこんな女を雇ったもんだと思う。よっぽど人手が足りないのか、店長の目が節穴なのか。


「……いいです。」

「はっ?」

「メンチカツでもいいんで。」


呆れながら、俺は冷たくそう言い放つと、女の手を退ける。もう関わりたくないと心底思った。

あからさまな拒絶を声に乗せ、「じゃ」と素っ気なく言う俺は、そのまま前に向き直り足を踏み出そうとして、


「いや、よくねえよ! メンチカツのが20円高えんだって!」


信じがたい女の声に体の動きを強制終了させられた。