1864年、春
新選組という名も大分親しんできた頃だった。
私達は、この頃までに、内部粛清をいくつか、繰り返してきた。

まず記憶に新しいのは、1863年の8月18日の政変以来、京を追われた長州藩、に属する間者だ。新選組の隊内にも、いく人か、長州の間者がいたため、私は間者の始末を決断した。

そして、歳が、その汚い役をかってでた。




歳は監察方という組織を設けていた。
監察方は、長州藩の間者を見つけたという実績を持つ。

歳は監察方や、左之助、そして歳自身で元々仲間だった者たちを殺した。





だが、歳が汚い役をかってでたのは、それが、初めてではなかった。

長州藩の間者の始末の10日程まえに、私達は、壬生浪士組の元、局長である、芹沢鴨ら、水戸派の暗殺を手掛けていた。

歳はその際も、汚い役をかってでた。





芹沢一派を壊滅させたのには、暗殺命令を会津藩から、受け取ったということが決定的であった。

だが、歳はそれがなくても、芹沢暗殺に尽力するつもりであったという。

そして、歳は見事にその役目を果たした。
その凄まじさは暗殺の場となった、八木邸の血のりの痕がべったりと残る程であった。





私は、武士道に反することを、したくなかった。

それ故、私は、芹沢一派の暗殺に疑問を抱いた。

武士のなかで、不意討ちで命を落とすことは不名誉なことだが、歳は、同志の芹沢一派を不名誉な形で暗殺した。
それは、芹沢不意討ちでもしないと、倒れそうにないという背景があったからこそであろう。

確かに、私も、芹沢を邪魔に思う時はあった。だか、それほど嫌ってはいなかった。

私は、武士道を貫きたいがため、その手で芹沢一派を壊滅させた、歳が信じられなくなりそうだった。




また、歳自身も、私に尽くしてくれることを友情の証と言うが、私には、そうとは、思えなかった。

昔、
『あなたには、不安定な心がありますね。だから、見放せないのですよ。その心を守りたいと、私は思ってしまうのです。』
と妻に言われたことがあった。

私の周りには、絶えず、人が寄り添っていてくれたことには、私の中にやはり、不安定な心があるから、ではないかと、私は、思い始めた。
歳も、そのようなことを感じているのではないだろうか?

この頃の私は盟友や、仲間にまで、疑問を抱き、信頼関係というものをきちんと築けていなかった。




それに加え、私は、局長なのに何も出来ない無力さを感じていた。仲間の行動に疑問を抱いてしまうことが、苦しかった。

こんな生活は、とても息が苦しく、窮屈だった。

遂に私は試衛館に、近々、帰るという趣旨の手紙を送った。

そんなことを歳に言えば、切腹刑を押し付けられそうなものだが、武士道を貫くことが、出来ぬのなら、切腹した方が良いと考えていた。



壬生浪士組の発端は、将軍家茂公の警備であったから
その役目が終わった以上、私達が、解散しても良いと思っていたこともある。

そんな矢先、島田魁が、長州藩の大物を捕らえた。




島田魁が、連れてきた長州藩の大物という人物はまず、歳の前へ連れていかれた。
歳がその人物を見極め、害がないとわかれば、私の元へ、連れてこられ、話を詳しく聞くらしい。

私は、また、蚊帳の外か…

私は独り、初夏の夜空に浮かぶ月を眺めながら、そう嘆いた。