1861年
多少、動きにくくなってきた。

私の妻であるつねが口には出さぬが、子を欲しがっているからだ。

その辺の男と子をつくればいいじゃないかと思う私は、非情だろうか?








だが、子をつくるのも、1つの手立てかも、しれぬ。

子をつくれば、私の後継者は生まれたも同然だ。

私は万機、この時世についての討論ができる。







しかし、私は、討論を交わすだけて、満足をする、口だけの連中になりたくなかった。

そして、運命の別れとも言える年がやってくる。













1862年
私とつねの間には、子が生まれた。私とつねが交わったのは、たったの一回だ。

私も、若い頃は、歳と遊び回っていたが、驚くほどに性に淡白になっていた。

処女を奪うのは、さすがに気が引けたが、一回交わって、子が出来ないなら、止めようと思った。

だが、見事につねは、子をつくった。






そのことは、すごいと思う。なぜなら、いくら交わっても、子が生まれぬ夫婦があるのを知っているからだ。
私はこれで、やっと、自由になった。歳は元々、私をみてか、拘束される家族を新たにつくらなかった。




そのため、また二人で、悪巧みできそうだ。
あの、青春の日々に逆戻りしようじゃないか。
1863年、冬
試衛館の道場で共に汗を流した仲間、
近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助
は、上様の上洛の警護のため、京への道を歩 んでいた。



歴史は音をたてて進んでいった。
1864年、春
新選組という名も大分親しんできた頃だった。
私達は、この頃までに、内部粛清をいくつか、繰り返してきた。

まず記憶に新しいのは、1863年の8月18日の政変以来、京を追われた長州藩、に属する間者だ。新選組の隊内にも、いく人か、長州の間者がいたため、私は間者の始末を決断した。

そして、歳が、その汚い役をかってでた。




歳は監察方という組織を設けていた。
監察方は、長州藩の間者を見つけたという実績を持つ。

歳は監察方や、左之助、そして歳自身で元々仲間だった者たちを殺した。





だが、歳が汚い役をかってでたのは、それが、初めてではなかった。

長州藩の間者の始末の10日程まえに、私達は、壬生浪士組の元、局長である、芹沢鴨ら、水戸派の暗殺を手掛けていた。

歳はその際も、汚い役をかってでた。