「あー……ときめき……ときめきが足りないんだなあ」
ネームに煮詰まって、私は誰に言うともなしに呟いた。自分の部屋で作業をしていても独り言なんて言わないけれど、こうして誰かが聞いていてくれる環境にいると、つい声に出してしまう。
「ときめきかぁ……あ! ねぇ、キスしていいと思うー?」
「いいと思う! キス、大事!」
「……え⁉︎」
「ああ、二次元の話だから気にしなくていいよ」
「…………」
ノリノリになったサナは、喧嘩のあとにほっぺにキスをすることを推奨するあの童謡を歌いはじめた。いや、君の描くものはそんな可愛いものじゃないでしょと思いつつ、楽しそうだからそっとしておく。
「姫川たち、かなり熱が入ってるんだな」
感心したように北大路が言った。
「まぁね。本当は東京で開催される夏の大きなイベントに出たかったんだけど、地方組の悲しいところで、遠征費とか諸々考えるとリアルじゃないのよ。その悔しさをバネに夏休みはバイトして、そのお金で臨む地方イベントだから、やっぱり気合入るでしょ」
「そういうわけだったのか」
納得したのか、北大路はうんうん頷いていた。でも、何か思いついたのか、ポンっと手を打った。
「そうだ! 頑張っている姫川を俺が労ってやろう! 前、テレビで見たんだ。今、女性の間で人気っていうのを」
ほらほらと言って北大路は私を立たせると、ずいずいと壁際に行くよう促した。テレビで見た女性に人気のものって、マッサージか何かだろうか。
そんな呑気なことを考えていた次の瞬間、北大路は私が背中を預けている壁に手をついた。
壁を、ドン。
そう、それはいわゆる壁ドンってやつ。
「確か、こういう台詞を言うといいんだろう? 『俺じゃダメか?』」
「やめろぉぉぉぉぉいっ!」
北大路がセリフを言い終わるか終わらないかのタイミングで、私は高速でやつの両脇を挟み込むようにチョップを食らわせた。
「はぅわっ!」
痛みのあまり変な声をあげながら、北大路はしゃがみこんだ。おかげで私はこいつと距離をとることができる。
(俺じゃダメか? ってダメに決まってるだろー馬鹿野郎! 二次元になって出直して来い。)
本当は、そうやって突っ込んでやりたかった。でも、怒りのあまり私は声を出すことができずにきた。
「キンヤくん、メディアに踊らされたらダメだよー。壁ドンってまあ、ある一定の支持は受けてるだろうけど、絶対無理って人もいるから。特にメーちゃんは高圧的な男性が嫌いだからね」
「……そうだったのか」
そうだよ。二次元でもあんまり萌えないのだ。それを三次元でやられたら、苛立ちしかない。女の子の逃げ場を奪って、そんなシチュエーションで自分の思いをぶつけるなんて言語道断だと思うのだ。
支配されたい、強引に迫られたいーーそういった願望はわからないでもないけれど、壁ドンは、怖い。女性としての脆さや弱さを思いきり脅かされるような気がするのだ。だから読んでいても萌えない。
自分がされるとなると本当に嫌だった。
だから、最近オタクだけでなく一般人の間でも知られるようになった顎クイや股ドンなんかも嫌いだ。されることはきっとないだろうけれど、NHK(二の腕引っ張って突然キス)も嫌だ。後ろからハグも怖い。
ちなみに見る分には、肩ズン、おでこコツン、袖クル、あたりが好きだ。
「ごめん……姫川。不快な思いをさせてしまって」
「……いいよ」
私はてっきり「俺に壁ドンをされて嫌がる女がいるなんて信じられない」なんて言い出すのかと思っていた。それなのに素直に謝罪されて、拍子抜けしてしまう。どうやら脇にチョップはこたえたようだし、私が怒ったこともきちんと理解してくれたらしい。
でも、そうやってきちんと謝られても荒れた気持ちはなかなかすぐに元には戻らない。
たぶん、今の私は手負いの獣か何かに見えるに違いない。そのくらい、殺気じみたものを放っている自覚はあった。
「あ、キンヤくん。あれあれ、あれをやればメーさんは」
「ああ!」
微妙な感じになってしまった部室内の空気をどうにかすべく、部長が何かを北大路に入れ知恵した。部長が詳しく説明しなくても何事かを理解したらしい北大路は、咳払いをひとつしたあと、唐突に歌いはじめた。
そう、私が泣いてしまうあの歌を。
「やめてぇぇぇ」
私の絶叫も虚しく、耳に届く北大路の歌声。
この歌は、本当に私の涙腺崩壊ポイントだ。何度聴いても泣いてしまう。それがたとえ北大路の歌声だったとしても。いや、北大路の歌声だからかもしれない。これが部長やサナが歌ったのだとしたら、ウルッとはしても泣くまではなかっただろう。北大路の声は、ものすごくこの曲に合うのだ。
「どういう仕組みになってるんだろうね、これ」
えぐえぐとしゃくりあげて泣く私を、部長は珍獣でも見るような目で見ている。手負いの獣から、珍獣にクラスチェンジだ。
私だって、どうなっているのか知りたい。
どうしてだかわからないけれど、この歌を聴くとどんなに心がささくれだっていても浄化されるのだ。
柄にもなく神に祈り、星に願いたくなるのだ。
明日から良い人間になりますと、誰かに誓いたくなるのだ。
涙でぼんやりした視界で見ると、大好きなキャラが歌ってくれているような錯覚を起こしそうになる。
歌っているのは北大路だってわかっているのに。
悔しくて、私はギュッと目を閉じた。
そうすると、歌声だけが耳に届く。
歌声に神経を集中させてしまってから、私は重大なことに気づいた。
こいつの歌声が、ものすごく好みだってことに……!
(声だけ! いいのは声だけ! 好みなのも、声だけ! 落ち着け! 歌ってるのは、三次元の俺様ナルシスト!)
うっかりときめいてしまいそうになって、私は必死になって心の中で自分に言い聞かせた。