いろいろあって、週末。
せっかくの休みだっていうのに気持ちが晴れなくて、ボーッと机に向かっていた。パソコンで大好きなアニメを流しているけれど、全く頭に入ってこない。元気にもならない。
あれ? 私、オタクだったよね?って気分になる。別にオタクであることにアイデンティティを見出しているわけではないけれど。
原因はわかっていた。
ものすごい自己嫌悪に苛まれているからだ。
昨日、部室に戻ってから顛末を聞かせたサナにも、「それはメーちゃんが悪いよ」と言われた。隠していようと思っていたのに、カバンを取りに戻ったら結局様子がおかしいのがバレてすべて話すことになってしまったのだ。
「キンヤくんは何も悪いことしてないじゃない」
そう言われて、私は自分が北大路に八つ当たりしてしまったのだと気がついた。
北大路が私に話しかけるから白川にあんなことを言われてしまった……なんて思ったけれど、別に北大路が悪いわけではない。
傷つけられた気持ちを、そのとき当たりやすかった北大路にぶつけただけだった。そんなの、北大路と話したいのに話しかけられない苛立ちを私にぶつけた白川と同じだ。めちゃくちゃダサいし、卑怯だ。
そのことに気がついたら、ギュッと胸の奥が重くなって苦しくなった。
大抵のことは一晩寝れば忘れてしまう質なのに、今朝は全く気持ちが晴れなかった。
白川たちの物理的な嫌がらせは未然に防ぐことができたし、釘を刺すことができたからこれ以上悪化はしないと思う。恵麻ちゃんや葉月に迷惑もかからないはず。それは、サナも安心していいと言ってくれた。
でも、北大路のことを考えると気が重い。
嫌いだったかもしれないけれど、あんなことを言って傷つけていい理由にはならない。
でも……嫌いだったというのも自分の中でよくわからなくなってしまっていた。
もう部室にいるのも気にならないし、一緒に曲作りだってした。それなのに、よく知る前と同じように嫌いだと言い切ってしまえるのだろうか。
「何で、メーちゃんはあんなにキンヤくんのこと嫌うの?」
昨日の帰り道、サナにそう尋ねられて、私は北大路を、というより地味の対極にあるような人種を嫌う理由を話した。
でも、全部話し終わったあとサナに「それもキンヤくんには関係ない事情じゃない」と言われてしまったし、話しながら自分でも感じていた。
要するに私は、北大路本人に理由がないことであいつを嫌い、北大路に関係のないことで八つ当たりをしてしまったのだ。
「……サイテー」
自分ひとりの部屋にその声は無駄に響いて、ズキンと胸に突き刺さった。
私は一体、何と戦っていたんだろう。
地味なことにコンプレックスなんてないし、オタクであることも別に恥じてなんていない。モブで上等だと思って生きている。
――自分たちを中心に世の中がまわっていると思っている連中に、踏みにじられさえしなければ。
でも、踏みにじられることを恐れて、攻撃的になりすぎていたのかもしれない。
今回の白川たちみたいに実際に攻撃されたのなら噛み付けばいいだけで、何もさせる前からひどい態度をとっていたのは良くなかった。
北大路の悪いところと言えば……俺様なところだけだ。あの俺様な態度が反射的にひどい態度をとらせていたと言えなくもないけれど。
月曜、学校で謝らなくちゃ。こういうのはメールじゃダメだから――そう思って不貞寝を決め込もうとしたとき、インターフォンが鳴らされた。
誰だ。土曜の昼間にピンポン鳴らすのはセールスか宗教の勧誘か。でも、町内会とかだったら困る。
お父さんもお母さんも土曜でも仕事に行っているし、兄ちゃんもバイトだ。出られるのは私しかいない。
しかも、かなり鳴らし続けている。
とりあえず、モニターで誰が来ているのかだけでも確認しよう。
「……おい、ヘアセットなら自分の鏡を見てやれよ」
急いでリビングに降りてモニターを覗いて、私は自分のこめかみに青筋が立つのを感じていた。タイムリーな人物ではあるけれど、やっぱりこうして見ると、そのナルシストな仕草がいちいい癇に障る。
「あのさ、ナルシストの押し売りならお断りなんで帰ってもらえますかー?」
「姫川ー!」
手櫛でしきりに前髪を整え続けながらインターフォンをピンポンピンポン鳴らす北大路にそう言ってやると、やつは嬉しそうにブンブンと手を振ってきた。何なんだ。家なんて教えるんじゃなかった。
「どうしたの? あがる?」
玄関のドアを開けると、北大路が背筋をしゃんとして待っていた。
「いや、一人で留守番中のところに上がり込むなんていう不誠実なことはしない」
何でそこ顔赤らめるの。不誠実なことってあんた、何するの。
「一人って何で知ってるの?」
「真田に聞いた。というより真田に、『土日は大抵留守番だから遊びに行っても大丈夫だよ』って教えてもらったから」
「あの子……」
「学校では話しかけるなって言われたから、こうして来てみたんだ。今からちょっと話せるか?」
「……うん」
私は返事をして、一歩外に出ようとして気がついた。この服装はいかん!
「ちょっと待ってて!」
玄関は暗いしドアは半分くらいしか開けてなかったから、たぶんあまり見えてなかったとは思うけれど、着古したスウェット地のワンピースに足元はつっかけだった!
これでそのまま外に出て、しかも北大路みたいな美形の横を歩くなんて、市中引き回しの刑にも等しいじゃないか! どんな羞恥プレイだ。
といっても、こんなときにサッと着られるような服を持ち合わせてはいないのが困りものだ。
オタク趣味ばかりにお金を注ぎ込んできたツケがこんなところでまわってくるなんて……。
仕方なく、サナと一緒に買いに行った一張羅を着ることにした。
「ごめん、お待たせ。さっきの格好はあまりに部屋着だったから着替えてきた」
急いで玄関に戻ると、北大路は別段気分を害した様子もなく待っていてくれた。私のみっともない言い訳を聞いても、別に笑ったりしなかった
でも、しげしげと眺められて落ち着かない。
「姫川の私服、いいな」
しばらく眺めて、そう簡潔に感想を述べた。まさかそんなコメントをされるとは思っていなかったから、瞬時に顔が赤くなる。
「馬子にも衣装だって言いたいの?」
「違う。本当によく似合ってる。それに髪もそうして下ろしていたほうがいい」
「……ありがとう」
真正面から褒められるとやっぱり照れてしまう。でも、初めてこだわって買った洋服だったから似合っていると言われて嬉しかった。
これは、サナと二人で「大好きな“彼”とデートに行くなら」をテーマに選んだ服。“彼”はもちろん二次元で、恥を忍んで店員さんに相談してコーディネートしてもらったのだ。店員さんはオタクに理解があるお姉さんで(というよりお姉さん自身もオタクだと言っていた)、何のキャラか話すとノリノリで彼のテーマカラーでトータルコーディネートを考えてくれた。オタ的にも女子的にも、非常にレベルの高いワードローブになった。
この前の同人イベントでサナと仲良く着たきり、それ以来着る機会がなかったから、今日こうして着ることができてよかった。
……北大路と歩くには、ちょっと気合が入りすぎている気がするけれど。
「このへん何もないけど、ぶらぶらする?」
「そうだな。じゃあ適当に案内してくれ」
「うん」
何のことを話題にしようとしているかは明白なのに、ぎこちなくて仕方がない。というより、言わなくてはいけないことがあるのは私なのにこうして北大路に訪ねて来させてしまったのだから、私から口を開くべきだ。
そう思っていたのに、先に言葉を発したのも北大路だった。
「姫川……すまなかった」
「え?」
「俺の配慮が足りず、嫌な思いをさせてしまって。俺も馬鹿じゃないから、女子の悪質さとかわかっていたつもりだったんだけど……俺が話しかけたところで姫川が嫌そうにしているのは誰が見てもわかるだろうと思っていたんだ」
「私こそ、あの人たちに嫌なこと言われたからって北大路に八つ当たりみたいなことして、ごめん……」
「また学校で話しかけていいなら、いいさ。本気で嫌なら、無理にとは言わないけどな」
俺様な発言がひとつもなくて、しかも素直に謝られてしまって、調子が狂いそうになる。
こういうとき、イケメンは狡い。何か、ものすごく悪いことをした気分にさせられる。
「……今まで、態度がきつくてごめん。確かにあんたのナルシスト発言にイラッとすることはあったけど、根本にあったのは北大路と直接関係のないことだったから」
これを話したらどう思われるのだろう――そう思うと少し躊躇われるけれど、思いきって話すことにした。
話さなければきっと前に進めないし、八つ当たりをされた北大路には聞く権利があると思ったから。
「たぶんやったほうは大したことじゃないと思ってるだろうけど、すごく嫌な思いをしたことがあってね……」
今でもまだ思い出すと体の奥が怒りで静かに熱くなる、中学時代の出来事。
数人の男子たちによって行われた“ゲーム”だった。内容はよくある、地味な女子をからかって遊ぶという、あれ。
「ある男子がね、熱心に休み時間とか放課後とか話しかけてくるようになって、二週間くらい経ってから告白されたの。男子たちの筋書きではそこで私が勘違いして舞い上がってOKしたところで『どっきりでしたー。間に受けてやんのー』みたいにして笑い者にしてやるつもりだったんだろうけど」
私は断ったのだ。そんなわかりきったことに付き合ってやる筋合いはないと思ったし、何より怖かったから。
だから、それはそれは丁重に断ったのだ。相手のプライドを傷つけないよう配慮して、そういったことに興味がないから付き合えませんと、あくまで向こうに落ち度などないというように。
ところが、それが逆に気に障ったらしい。
「その告白した男子含め、ゲームをやっていた数人に寄ってたかって文句言われたの。『地味ブスのくせに生意気だ。断る権限があると思ってるなんて思い上がりだ。調子に乗るな』だって。笑い者にするところまでが筋書きだったなら、そりゃ確かに盛り上がらないもんね」
結局、現場にたまたま先生が通りかかって男子たちがこっぴどく叱られたことで収束したし、形だけ謝罪はされた。でも、私の心に大きなしこりとして、その出来事は残った。チャラチャラした、自分たちをスクールカースト上位の人間だと決めつけて高みにいる気でいるやつらを嫌う理由になった。
それ以来、私は心に決めたのだ。いけ好かない派手な連中のオモチャになってたまるものか、と。好きで地味で生きているのだ。好きでモブをやっているのだ。それを邪魔されてなるものか、と。
「モブがモブであるために勝ち続けなきゃならない……って思ってちょっと攻撃的になりすぎてた。ごめんね」
ペコっと頭を下げると、北大路がふっと笑うのがわかった。
「何で笑ったの?」
「いや、そこ、何で名曲もじったのかと思って」
ツボに入ったらしく、北大路はしばらく笑い続けていた。この前の平山とのことでも笑っていたし、こいつの笑いのツボってやっぱりわからない。
「とりあえず、姫川が本気で俺を嫌いだったわけじゃなくてよかった」
そう言って北大路は、心底ホッとしたという顔をした。
「よく考えたら私、嫌うほど北大路のこと知らなかったし」
「じゃあ、これから知ってくれ。俺は顔が良い以外にもたくさん良いところがあるんだからな」
「……殴って良い?」
拳を作って見せると北大路が大げさに身構えるから、それを見て私は笑った。こいつのナルシスト発言は、もしかしたらこんなふうに人間関係を円滑にいかせるための潤滑剤なのかもしれないな、なんて思えるようになった。
「姫川は自分のことを地味だとかモブだとか言うけれど、自分を過小評価しすぎだと思うけどな」
公園にたどりついて、ベンチに座った。買ってくれたジュースを開けようとしていたら、真剣な顔をして北大路が言う。
「話したら面白いし、漫画は描けるし曲も作れる。これって立派な個性だし、すごいことだろ?」
「そうかな。描ける人も作曲できる人もいくらでもいるからさ」
「でも、できない人もいる中、できるんだ。それに良いものを作ってると思うよ。姫川はもっと自信持って、自分にも作品にも向き合っていけよ。『わかる人にわかればいい』っていう姿勢はもったいない。だから、曲ももっとガンガン宣伝していこう?」
「う、うん」
「せっかくこの俺が才能があると認めてやってるんだ。もっと欲張れよ」
「わかった」
キラキラの笑顔でものすごい熱意を持って言われたから、少々の俺様発言は気にならなかった。
今まで誰もこんなことを言ってくれた人がいないから照れるけれど、こんなにはっきりと自分を肯定したもらえると嬉しくなる。
「姫川、これからも俺と一緒に音楽やってくれるか?」
答えのわかりきった北大路の問いかけに、私はコクンと頷いた。
不思議と優しくしみこむ言葉を発する北大路を見て、私はわかった気がする。リア充にもいろいろな人種がいるし、人気者には人気者でいるための苦労も努力もきっとあるのだろう、と。
だから、もう接する前から嫌うのはやめようと思う。せめて、北大路のようにこちらに興味を持って接してくれる人間には、棘を出さずにいようと。
「なんだ。俺のあまりの美貌に呆然としてるのか?」
「……いろいろ台無しだから、黙れ」
この空気を読まないナルシスト発言には、容赦なくつっこみを入れようと思うけれど。
あんまり楽しくない授業やHRが終わり、ようやくやってきた楽しい放課後。
部室に到着すると、待ってましたとばかりに北大路が私の隣に陣取った。
白川たちのことがあって、教室では話しかけるのを自重してくれているようだ。そうはいっても、私とサナが部室に向かおうと教室を出ると走ってついてくるのだから、全然自重できていない気もするけれど。
それにしても――
「なあなあ、姫川」
「何? 近いよ」
長机の上にペンケースやノートを取り出していると、ズイッと北大路が身を乗り出して話しかけてきた。
隣に座っているだけでも近いのに、こいつはいつもそこからさらに距離をつめてこようとする。ニキビひとつないツルンとした美肌を至近距離で見せつけようというのか。腹が立つ。
「何だ? 俺のカッコイイ顔が近くにあると照れるのか?」
「調子に乗るな!」
ニヤニヤしながらさらに近づいてきたから、思いきりチョップをしてやった。ナルシスト発言がムカついたのもあるけれど、何より自分の肌を近くで見られるのが嫌だった。一応洗顔なんかには気を使っているつもりでも、肌のきれいさに自信があるわけじゃないから。
「で、何で話しかけてきたの?」
そんなに痛くしたわけじゃないのに、北大路はチョップをくらった場所をさすって何も言わないから、仕方なく水を向けてみた。するとヤツは、嬉しそうに笑う。
「そうだったそうだった。今日はな、俺の好きなバンドのCDを貸そうと思って持ってきたんだ」
「え、何で?」
「だって、この前の土曜、仲良くなるためにお互いのことをもっと知ろうって話になったじゃないか」
そう言って、北大路はカバンからCDを取り出して並べ始めた。
普通、人に何か音楽を勧めるならまずはアルバム数枚から始めるだろうに、北大路は十枚以上持ってきていた。これをすべて持って帰って聴けというのか。私は帰ったらアニメを見るのが忙しいのに。
「見せて見せてー。あ、これ、アニメのEDだったやつだ!」
隣からひょいと顔を覗かせたサナが、並んだCDの中の一枚を指差した。
「本当だ。あ、こっちもだ」
一枚一枚手に取ってアーティストや曲名をよく見てみると、聴いたことがあるものが結構あった。しかも、アルバムかと思ったらマキシも多い。私はよほどのことがないと音楽はダウンロード購入で済ませてしまうことがほとんどだから、北大路が本当に音楽が好きなのがわかる。
「これは今季アニメのOPだね。こっちは、あれの劇場版挿入歌だ」
「あたし、これ好きー」
「え? バンドの曲がアニメに使われることってあるんだな」
私とサナが自分の好きなバンドについていろいろ知っていることに、北大路は驚いている様子だ。
売り出し中のアーティストの曲がOPやEDに使われることは結構あるから、オタクの私たちでもそれなりに流行りのバンドなんかは知っているのだ。もしかすると、出てきたばかりのアーティストは、非オタな人たちよりも詳しいかもしれない。
「これ、見てみて。適当なタイアップってアニメの内容に全然合ってなくて作品のファンときてはイラッとすることが多いんだけど、これは監督とかとバンドがコンセプトについて話し合って作った書き下ろしらしくて、すっごく世界観に合ってるんだよ」
私はスマホを取り出して、アニメを見るためのアプリを立ち上げた。それから、お気に入り登録してあるアニメ一覧から、今話題にのぼったものの二話目をタップする。
最近のアニメは冒頭で引きつけるためなのか、OPを飛ばして本編から始まることが多いのだ。だから、OPを見るには二話目以降が確実だ。でも、私はOPはそのアニメの顔だと思うから、ネタバレ回避とかよほどの事情がない限り、一話冒頭からOPを見せてほしい。
「おお! カッコイイ! 最近のアニメは動くんだなー」
OPムービーが流れ始めると、なぜか北大路はおっさんみたいなことを言う。でも北大路の中のアニメというものが幼稚園児や小学生のとき見ていたものなら、仕方がないかもしれない。子供向けのアニメというのは、あまり画(え)が動く印象がない。
「すごいな。曲だけ知ってるときはそんなふうに思わなかったけど、今のを見たらもうこのアニメのための曲なんだっていう気しかしなくなったな」
「ね、カッコイイでしょ」
北大路が感心するのが嬉しくて、つい自慢っぽくなってしまった。私はいちファンで、作ったわけじゃないのに。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
「キンヤくん、これは声優アーティストですねー」
「そうなのか? CD屋で流れてるのを聴いて、カッコイイと思ったから店員さんに尋ねて買ったんだ」
OPのかっこよさに夢中になっていた北大路に、サナがあるCDを指差して言う。それはヴォーカルとギターで構成されているユニットで、たしかにヴォーカルのほうが声優だ。
「あ、これこれ。この今、しゃべってるキャラがヴォーカルさんね」
私はスマホでその声優が出ているアニメを流す。それを見て、北大路はまたびっくりした顔をしている。
「すごいな、この人。良い声で歌もうまいのに、演技もできるなんて」
「いやいや。本職は声優だから。演技ができる人が歌までうまい、が正解だよ」
「そ、そうか」
「最近は歌モノブームもあって、歌える声優さんがメキメキ頭角を現してる感じだねー」
「へえ」
「アイドルモノのアニメだけでもかなり数があるし、ミュージカルモノもあるね。本編に関係なくキャラソンもどんどん出てるしね」
サナも交えて、声優談義に花が咲く。北大路の好きなバンドの話をしていたはずなのに、ヤツは気にした様子もなく楽しそうに聞いている。
「ところでキンヤくん、女性アイドルに興味はある?」
「え、ええ、まあ」
「最近は歌がうまい声優も増えてるし、結構可愛い子もいるんだよぉ」
私たちの会話を聴いていたらしく、部長とべっち先輩が北大路の背後に立った。ニヤニヤと楽しそうにしていることから、先輩たちが北大路を自分たちの趣味に引きずり込もうとしていることがわかった。
「さあ、メーさん。例のものをキンヤくんに見せてあげて」
「わかりました」
部長に指示され、私はまたスマホを操作した。さすがにお気に入り登録はしていなかったから、検索窓にタイトルを入れて、部長の言っているアニメを表示させる。
流れ始めるのは、きらびやかな衣装に身を包んだ女の子たちが歌って踊るアイドルアニメ。OPは、とにかく女の子たちが動く。しかも、最近は3Dモデルを動かしてよく動く画面のように見せているアニメが多い中、このアニメは客席のサイリウムの動きすらきちんと描かれたものらしい。
私も部長の強い勧めで見たけれど、過剰に萌えを狙ったキャラデザではないし、お色気的な演出もなく、頑張る女の子たちの姿に好感が持てた。サナなんて、このアニメのリズムゲームにハマってしまっているくらいだ。
という感じで女性ファンも多く獲得しているアニメだから、二次元にあまり耐性がない北大路も、どうやら抵抗なく見られているようだ。
「キンヤくん、どうかね。誰か気になる子はいたかね」
「どの子がタイプだ?」
北大路がドン引きした様子がないのがわかると、先輩たちはノリノリで尋ねる。どうやら、北大路を沼の住人にしたくて仕方がないらしい。
「まだ見始めたばかりなので、わかりません」
「えー? 見た目は? パッと見で好きな子は誰よ?」
「顔で好きになるわけじゃないですよ」
ウザい絡み方をするべっち先輩に対して、北大路はマジな返答をする。それに対して先輩たちもムキになって、「別に僕たちだって嫁の顔だけが好きなわけじゃないからなー」と言っているのがおかしかった。
「何か先輩たちがごめんね。CD、聴いてみるね」
下校時間になって、部室を出て昇降口に向かって歩きながら、私は部長たちのことを詫びた。あれから結局、北大路は部長たちオススメのアニメを見て過ごしていた。
俺様ナルシストなのに、北大路はこういったことで文句を言わないどころか、嫌な顔ひとつしない。
「いや、楽しかったからいい。俺が仲間外れにならないよう、気を使ってくれてるんだろ」
「ま、そうかもね」
思い出した。こいつな何でもポジティブに受け止めるんだった。サナは北大路のこのポジティブ発言にウケているけど、私はやっぱりちょっと引く。
「そういえば、さっき姫川が使っていたアプリを教えてほしいんだけど」
「え? アニメ見るやつ?」
「うん。姫川とか部長さんに勧めてもらったものを、そのアプリがあれば見られるんだろ?」
「まあ、そうだね」
私が使っているそのアプリは、月額料金を払えば見放題メニューに入っているアニメなら好きなだけ見られる。現在放送中のアニメも大体は追うことができるし、旧作の取り揃えもかなり豊富だ。しかも、類似サービスの中でも飛び抜けて月額料金が安い。だから親も説得しやすかった。
「これね、このアプリ。初めの一ヶ月は無料で見られるから、本当に入会したいと思ったら親御さんにちゃんと相談してね。あと、動画見てると通信量すごいから、WiFi環境があるところで見たほうがいいよ。あ、入会してアカウント作ったら、パソコンでも見られるからね」
アプリストアを開いて検索して、基本情報と注意事項を伝えると、北大路はニマニマしていた。サナもなぜかニヤけている。
「何? 何か変なこと言った?」
「いや。ただ、姫川は親切でいいやつだなあと思って」
「は? そんなこと言うなら、もう何も教えないよ」
「何でだ。褒めただけなのに」
北大路とサナは顔を見合わせて、「なあ?」「ねー」と言い合っている。もうすっかり打ち解けて仲良しの雰囲気を出すこのふたりが、何だか癪だ。
「キンヤくん、とりあえず何から見始めるの?」
「あれだ、姫川が好きなやつ」
サナの問いに、北大路は私の大好きなあのアニメのタイトルを挙げた。聴くといつも泣いてしまうあの曲が流れるアニメを。
「あれもアイドルアニメで、たくさん歌が流れるだろ? 歌のうまい声優をチェックしたいし、劇中歌を歌えるようになりたいんだ」
なぜかそう言って、北大路はドヤ顔をする。歌を覚えて、カラオケで披露する気だろうか。また私を泣かす気か。
「メーちゃん喜ぶねー」
「そうだろ」
「別に嬉しくないし」
慌てて否定したけれど、北大路は聞いていなかった。
下駄箱に到着して、帰る方向が違うからそのまま別れることになる。
「キンヤくん、メーちゃんと仲良くなりたくて一生懸命だね」
途中まで一緒の道のサナが、隣を歩きながらニコニコと言う。何だかいつも、北大路の話題になるとサナは楽しそうだ。
「私とっていうより、漫研の人たちとなかよくなりたいんじゃないの?」
「もーメーちゃん、そっけなーい。キンヤくん頑張ってるんだから、もうちょっと歩み寄ってあげなきゃ。一緒に音楽活動する仲間でしょー?」
「まあ、そうだけど……」
そんなふうに言われてしまうと、返す言葉がない。たしかに、私は北大路と一緒に音楽をやる約束をしたし、別にそれを嫌だとは思っていないから。
そんなサナの言葉があったから、というわけではないけれど、その日から私は勉強中に北大路に借りたバンドの曲を聴くようになった。これまで音楽は、アニメのタイアップ曲とかキャラソンやアニソンばかりだったから、そうして何もとっかかりがないものを聴くのは新鮮だった。そして、日頃聴かないぶん刺激があって、次に作りたい曲のアイデアがいくつも浮かんだ。
新しい世界が広がった感じだ。
それは北大路も同じだったらしく、例のアニメの最初のシリーズをあっという間に見終え、今はセカンドシーズンを見始めているらしい。『何で姫川があの曲で泣くのかわからなかったけど、アニメを見たらちょっとわかった。めちゃくちゃいい曲だな』というメッセージが来た。しかも私の推しキャラのスタンプつき。スタンプまで買ってしまうなんて、沼に片足をつっこんでいるのと同じだ。
北大路にとっても、新しい世界が開けたらしい。
新しい世界への扉は、どこにでもあるということだ。
知っていると思っていることでも、改めて勉強してみると新たな発見がある。
道具は何でも使って覚える派の私だけれど、この前、買ったきり本棚に差しっぱなしだったソフトに付属の教則本を読みながらデジタルイラストを描いてみたら、色々な機能を初めて知ったということがあった。
同じ機種のスマホを使っている葉月から、気づいていなかった便利機能を教えてもらったということも。
そんなわけで、新たな発見を求めて作曲の教科書を読み直している。
コード進行なんて勉強したことがなかったけれど、知ってみるとためになった。自分が自然と使っていたのが90年代に多く使われたある種王道のコード進行だとわかったり、流行りのボカロ曲の多くが同じコード進行を使っていることがわかったり。
これまでは手探りで作っていたところを、これからは「このコード進行で行こう!」と先に決めて作曲することができる。
「メーさん、熱心だね」
部室でも読んでいたから、部長にそう声をかけられてしまった。この部の主な活動は部誌を年数回発行することで、日々部室に集まっているのは漫画の話をするという名目の雑談だから問題ないけれど。
「メーさんみたいに好きなことしててくれていいから、一年生も部室に来てくれたらいいんだけどなぁ」
部長は漫画を読みながら、今ここにいない一年部員たちについて嘆いていた。一年生は男子が三人ほどいるのだけれど、ほとんど部室に顔を出さない。夏前に発行した部誌には原稿を寄せていたし、文化祭で出す部誌にも参加する気はあるらしいけれど。でも、放課後部室にやってきて先輩たちと親睦を深める気はないらしい。
「まぁ、キンヤくんがほぼ部員みたいになってることだし、『漫研ときどき音楽部』になってもいいから何とか部を存続させてね」
「はい、頑張ります」
部として存続させていくには部員が最低五人必要で、今のところは大丈夫だけれど、来年入ってくる子たちもこうして部室に寄り付かないのであれば、確かに不安も出てくる。
「来年のオリエンテーションの部活紹介でさ、キンヤくんにコスプレさせて客寄せしようよ」
ほらほら、と言ってサナがスマホを差し出してくる。画面に表示されているのは私の好きなキャラの衣装で、北大路が着ればさぞ似合うだろうけれど、それだけに何か嫌だった。
「北大路くんって、今日は漫研に来てないんだね」
久しぶりに部室にやってきていたムラモト先輩が、残念そうに言った。三年生では一人だけの女子のため、私たちの入部をすごく喜んで可愛がってくれた人だ。三年になってから本格的に塾に通い始めたため、最近はなかなか部室に顔を出せないらしい。
「レコーディング用のマイクをあげたら早速録りたくなったらしくて、今日は帰りました」
レコーディングのたびに我が家にやってきてもらうのも何だからと、無期限貸出ということで北大路に道具一式を渡したのだ。本当はあげても良かったのだけれど、兄ちゃんが「あいつにあげるのは何かヤダ」とごねたのだ。
中学時代の私の体験を知っていて心配してくれていたはずだったのに、その心配がなくなっても北大路のことは好かないらしい。たぶん、自分がうまくやれなかった『歌ってみた』で北大路が結構視聴数を稼いでいるのが気に入らないのだろう。
そんなことを言っても、うちの愚兄と北大路とでは、そもそも実力の差が半端じゃないのだから、僻むのがおかしいと言うものだ。
「あ、新曲聴いたよ。曲を何度も聴き込んだあとタイトル見ると笑えるよね。悪意あるわ、あのタイトル。もちろん良い意味で」
「ありがとうございます。あの詞を北大路が書いたと思ったらムクムクとイタズラ心が湧いてきてしまって……」
「あー見たかったイケメン。イケメンいるよって言われて久々に部活来たのに」
「写真ありますよー」
サナはスマホを操作すると、いつぞやの漫画を読みふける北大路の写真をムラモト先輩に見せた。こう見ると、まあイケメンである。しゃべると大変残念だけれど。
「あ、この子見たことあるわ。去年の文化祭の軽音部のステージ発表で。そっかそっか、この子か」
先輩は、サナのスマホを食い入るように見つめながら言う。さすがイケメン好き。二次元のイケメンについて尋ねるとスラスラ答えが返ってくるイケメン事典なだけのことはある。
「演奏どうでした? うまかったですか?」
「うん、聴けたよ。高校の軽音部って下手すると楽器持って騒いでるだけっていうようなレベルの子たちもいる中、聴かせる演奏ができてたからね。あ、確かムービー撮ったのがあるから見る?」
「はい、見たいです」
「あったあった」
先輩が差し出してくれたスマホの画面を見ると、小さいけれど体育館のステージが写っていた。音量を上げてもらってやっと聴こえる程度にしか音は録れていなかったけれど、人気バンドの曲を演奏しているのがわかった。
「コピーバンドなんですね。てっきりオリジナルをやってるのかと思ってました」
「何か一年でオリジナルやるのは生意気みたいな風潮があって、オリジナルやれるのは二年かららしいよ。変な慣習よね」
ということは、本来なら今年の文化祭でやっと自分たちのバンドの曲とやらをやれたはずだったのか……。
そのことを思うと、何か胸にひっかかった。
「キンヤくんうまいねー。……メーちゃん、何考えてるの?」
サナが心配そうな顔で覗き込んできた。
「いや、やっぱり北大路の声はバンド音楽が合うなぁって。私の今の知識じゃバンドスコアの曲ってまだ作れないから、もっと勉強しなきゃなって」
「おお! メーちゃん、どういう心境の変化?」
「どうせ一緒にやるなら、北大路の歌声の魅力を最大限に引き出してやりたいって思っただけだよ」
サナには隠し事をしたって無駄だから、本当のことを話しておく。北大路本人がいたら絶対に言いたくないけれど、歌う人の魅力を引き出せる曲を作りたいというのはボカロを扱うときでも考えていることだ。
その子その子に合う音域や曲調があって、それをきちんと意識するのは大切だと思う。特に、私が惹かれて購入したボカロたちは、少し癖が強くてヒット曲になかなか恵まれない印象があった。だからこそ、その子にしか歌えないものを作ってあげたいと思ってこれまで取り組んできた。
正直言って、『俺に彼女なんかいないけど』は北大路のためというより、私のお気に入りのボカロのために作った曲だった。
でも、今度はちゃんと北大路のための曲を作りたい。北大路にしか歌えない、北大路の魅力を引き出せる曲を。
「バンド辞めなきゃ仲良くなる機会なんてなかっただろうけど、キンヤくん、もったいないね。なんで辞めちゃったんだろ?」
「何か、音楽の方向性の違いで追い出されたって言ってたけど」
「こんなうまいボーカル追い出すって……へー」
サナは納得いかないという様子で画面を見つめていた。確かに、よく考えると変な感じもする。
ナルシストすぎて仲違いをしたのかと今まで思っていたけれど、クラスでの様子を見る限り普通に友達もいるみたいだし、どうも違うんじゃないかという気がしてきた。
「気になるなら、軽音部のファンの子が友達にいるから内情探ってもらっちゃう? さすがに本人には聞き辛いしね」
「えっと……わかれば。そんなに積極的に聞かなくてもいいんで、世間話的に耳に入れば」
何となく、コソコソと人の事情に踏み入るような行動が躊躇われたけれど、知りたい気持ちがないといえば嘘になる。
その微妙な心情を理解してくれたらしく、ムラモト先輩は「まあ、さりげなく聞いとくわ」と言ってくれた。ありがたや。
「先輩はバンド好きなんですか?」
「うん。ただし二次元限定で。最近乙女ゲームにもバンドブームが来ててね、この動画は絵の資料になればなぁって撮ってたの」
「あ、なるほど」
私は先輩が無類の乙女ゲーム好きということを忘れていた。というより二次元のイケメン好き。好みのイケメンが出てくるのなら乙女ゲームからBLゲームから格ゲーまで幅広く嗜まれるのだ。
「バンドって、カップリングを考えるとどうしてもヴォーカルが受けになることが多いですよねー」
「何言ってるのサナちゃん。ヴォーカル総受けに決まってるじゃない」
「ですよねー」
その上サナとBL談義もできる腐女子でもある。とにかく、イケメンが愛でられれば何でもいいらしい。その素材(キャラ)をもっとも美味しくいただくためならば、調理法(ジャンル)は問わないという姿勢は、まるでグルメに一家言ある人のようだ。
部活を終えて家に帰って、北大路からメールが来ていたのに気がついた。レコーディングしたものを、すぐに送って来ていたらしい。
パソコンを起動して、添付されていた音楽ファイルを再生すると、私の作ったボカロ曲を歌う北大路の声が聴こえてきた。
やっぱり、かなり上手い。エフェクトなしでこれだけ聴かせられるっていうのはすごい能力なのだと思う。
『レコーディングの練習のために録ってみた』なんてメールには書いてあったけれど、編集して動画をつければ十分投稿できるレベルだ。
でも……私の作った曲はあまり北大路の声にあっていないと感じていた。
たぶん、私はドラムやギターがもっと鳴っている曲と合わさった北大路の声を聴きたいのだ。
コピーとはいえバンドの演奏をバックに歌う北大路の声は、すごく魅力的だった。それにすごく楽しそうだった。
北大路はたぶん、誰かと一緒に何かするのが好きなのだ。だから、私に曲を作らせることにこだわったのだろう。
そう思うと、やりきれない気持ちになる。
「もしもし」
北大路の歌声を何度か繰り返して聴いていたら、着信があった。表示を見るとムラモト先輩からで、私は慌てて電話に出た。
『メーちゃん、今大丈夫?』
「大丈夫です」
『北大路くんのこと友達に聞けたからさ、忘れないうちに電話しとこうと思って』
「あ、ありがとうございます」
早い。まるで諜報員みたいだ。それにそんなふうに情報が入ってきてしまう北大路も、やっぱりモブではないのだなと実感する。誰かが私のことを探ったところで、「誰だっけ?」とか「そんなやついたっけ?」となるだろう。もしくは、「漫研部にいる、何かよくわかんないやつ」くらいの情報しか得られないと思う。
「早かったですね。どうやってわかったんですか?」
『例の友達に「北大路くんってカッコイイよねー。何でバンド辞めちゃったんだろ」って言ったらさ、すぐに聞き出せちゃったよ』
すげぇ。マジで諜報員だ。私ももしかしたら、これまでこうしてさらりと何かを聞き出されていたのかもしれない。
『でさ、辞めた理由っていうのが簡単にいうと、痴情のもつれだったみたいよ。何か、ギターの子の彼女に手を出したとか』
「……はぁ」
『びっくりだよね。私としたらそこはギターくんとの直接痴話喧嘩がよかったなあ』
私も、そっちのほうがどれだけマシだろうと考えていた。
愛情の末に憎しみあって、喧嘩して殴り合って組んず解れつ……おっとっと。焦りすぎて思考が混濁していた。
『メーちゃん聞いてる?』
「……はい、びっくりしちゃって思考が秘密の花園に旅立ってました」
『やだもー、メーちゃんたら。でも、妄想しちゃうのわかるわ。北大路くんみたいなイケメンが主役のBLとか、いいもんね。サナちゃんとも話したけど、やっぱりヴォーカル総受けよ。ギターもベースもドラムも、ライブハウスのオーナーもみんなヴォーカルを狙ってるの』
「それ、いいですね。めちゃくちゃモテモテじゃないですか。あはは」
笑ってごまかしたけれど、正直全然笑えていなかった。
痴情のもつれ? 手を出した? 北大路が?
得たばかりの情報が頭の中を駆け巡って、ぐちゃぐちゃになっている。
ムラモト先輩からもたらされた情報は、私の知っている北大路の姿には全く結びつかなくて、私はただひたすら混乱していた。
先輩との電話を切ってからも、頭の中は全然整理できなかった。
人の彼女に手を出すということはつまり、「お前、あいつと別れて俺の女になれよ」とか「俺じゃだめなのか?」とか「あいつの彼女だってわかってるけど、お前のこと好きなんだ」とか行っちゃうやつだろう。それに手を出すってことは、つまり……
「でも、ちゃんと筋は通しそうなキャラなんだけどな……それに、めっちゃ童貞って言ってなかったっけ?」
漫研の部室で禁書を手にしたときの初心な反応を思い出す限り、北大路が軽音部を追い出された理由が、どうしても納得いかなかった。
世の中、聞きたくても聞けないことというのがある。
たとえば、朝の食卓でお父さんと兄ちゃんが険悪だなと思っても、本人たちを前にしてはなかなか聞けない、ということとか。
思いきって聞いてみて、それが藪蛇になるってこともある。この場合は私が見たがっていた映画をお父さんと兄ちゃんのどちらが誘うか、というくだらない争いの末に朝食の席でも冷戦が続いていたという、とっても聞きたくない話だった。
何となく聞き辛いな、と直感する話題というのは大体がこの藪蛇を心のどこかで感じ取っているからだというのが、私のこれまでの経験による持論だ。
だから、北大路のことが気になって仕方なくて一晩中悶々としたくせに、私は聞くことができなかった。
気になって気になってどうしようもなくて、ついチラチラ北大路を見てしまって、それに気づいた北大路に投げキッスやウィンクをもらってしまってぶん殴りたくなる衝動を抑えるくらいなら聞いてしまえばよかったのに、聞けなかった。
『バンドを辞めたのはメンバーの彼女に手を出したからって本当?』だなんて、聞けるわけがない。
でも、そのことについて知る機会は唐突に訪れた。
「欲しいものは何が何でも欲しいって、姫川ちゃんならわかってくれるよね? だって、オタクの人ってイベントがあったら徹夜で並ぶし、欲しいグッズが手に入らなかったらオークションに高額突っ込むじゃん? それと同じなの、これは」
ああ、わかるよ! わかるとも! と目の前の可愛い女子の言い分に私はおおいに同意した。
でも、できたらその手にフリフリ持っているスマホを渡して欲しい。そこにある写真を消さない限り、私は逃げられない。別に拘束されているわけでもないのに、私はバッチリ人質になってしまっていた。
それをしっかりわかっている目の前の彼女は、ニヤリと笑う。
彼女との出会いは、今から十五分ほど前に遡る。
「あ、あの……姫川さん。廊下で三組の子が呼んでるよ」
ホームルームが終わってカバンに荷物を詰めていると、そう本田さんに声をかけられた。
あの事件のあと、白川以外には謝られて、表面上は和解したのだけれど、何だかビクビクされるようになった。まあ、舐められているよりはましだけれど理由がわからない。
「え、呼び出し? やだな」
「いや、そんな感じじゃなくてにこやかだったよ。じゃあ、伝えたからっ」
どんな子が呼んでいるか尋ねたかったけれど、本田さんは何かに怯えるように行ってしまった。仕方なく、私はサナを待たせて廊下に出た。
「姫川さん!」
そこにいたのは、見知らぬ女子だった。六クラスあるから、二年になっても知らない子というのは当然いる。三組なら五組の私と体育で一緒になることもない。というわけで完全に面識のない女子が、私に向かってフレンドリーに手を振っていた。
「あの、どちら様?」
「ワタシは盛田美結。姫川ちゃん、目線くださーい」
「ぎゃっ⁉︎」
その盛田と名乗る女子は軽い足取りで間合いを詰めると、突然私のスカートをめくり、それをあろうことかスマホで撮影した。
「よぉし、バッチリ写ってる! これをばらまかれたくなかったら、今から私と一緒に来て。それだけでいいから。用が済めばちゃんと消すし」
そう言って彼女が掲げたスマホの画面には、私の顔と、私のおパンツ様がしっかりとおさめられていた。オージーザス。
パンチラ写真を盾にされたら、私は従わざるを得ない。
明らかにコミュ力高そうな盛田さんなら、さぞたくさんお友達がいるだろう。その人たちすべてにこの写真を送られるくらいなら、ここは言うことを聞いた方が懸命というものだ。
「あの、そんなことしなくても頼み事? なら聞くから」
「じゃあついてきて。……大丈夫、怖い思いさせるのが目的じゃないから、変なところには行かないよ」
私の不安を感じ取ったのか、盛田さんはにっこり微笑んで、それから歩き出した。
私は黙って、それに続いた。
そして私たちは、特別棟の裏に到着した。
特別棟の裏はハンドボールコートや武道館に向かう道に面していて、もう少ししたら吹奏楽部の子たちが自主練しに来るような場所だ。
別段人気のない場所を選んだというわけではなさそうで、私はひとまず安心する。
「姫川ちゃんには、涼介くんを呼び出して欲しいの」
くるりと、お尻が見えてしまいそうなほど短いスカートを翻して、盛田さんはこちらを振り返った。太っているわけではないけれど肉感的な太ももや、ぷっくりとした飴玉みたいな唇が印象的な子だ。
美少女ではないけれど、可愛い。しかも、こうして対峙してもあまり嫌な感じを受けないのは、たぶん彼女が私に敵愾心を持っていないからだと思う。
まあ、いきなりスカートをめくることには凶悪性は感じるけれど。
「涼介くんって、北大路のこと? ……連絡先なら教えるけど」
「ダメなの。美結だってわかったら絶対無視するもん。でも……美結は涼介くんとお話しなくちゃいけないの。だから、お願い」
「……と言われましても」
シチュエーションが怪しすぎるじゃん、と私は思ってしまう。いくら自分のパンチラ写真がかかっていても、この状況に北大路を呼び出していいものかと。
「軽音部のことで大事な話がある、って言ったら姫川ちゃんはわかってくれるかな? 今、涼介くんと一緒に音楽やってるんだよね? ……美結、協力してくれる人を見つけるために色々調べたんだよ。だから、姫川ちゃんが最近涼介くんと仲良しなのもちゃんと知ってるんだよー」
盛田さんは私の心の中などまるでお見通しというように、先の先まで一気にしゃべった。そのにっこりとした顔は、それを聞けば私の気持ちが動くことをわかっているという顔だった。
「軽音部のことって……盛田さんってまさか、北大路のバンドのギターの」
「そう、彼女だよ。あ、大丈夫。涼介くんが美結に手を出したっていうのはデマだから。涼介くんがバンド辞めたのは、本当はもっと別の事情だよ」
盛田さんは、私を安心させるように微笑んだ。
深い事情の部分はまだよく見えてこないけれど、とりあえずこの人のことを信用してみてもいいのかなという気がしてくる。怪しいけれど、まあ害はないかな? というくらいの信用。
それに、北大路を呼んで軽音部に関する大事な話とやらを一緒に聞きたい。
「私が呼んでも来るかわからないけど、今から呼んでみるね」
だから私は、北大路へ特別棟裏に来て欲しいという旨のメッセージを送ったのだった。
「姫川ちゃんは漫研ってことは、オタクだよね?」
「うん、まあ世間的に見れば」
「ラバーストラップとかお気にのキャラのグッズは、無限回収したい派?」
「ううん、さすがに高校生ではあれをやったら身がもたないから、とりあえず一個手に入ればいいかな派」
「なるほどねー」
待ち時間を退屈させないためか、盛田さんはかなり私に寄り添った話題で会話をしてくれようとしている。しかも、ちょっとオタク界隈に詳しいような。それだけでちょっと、親しみが持てる気がしてきた。
「美結もね、そういう収集癖っていうのは理解できるんだ。美結の場合、集めても気持ちが満たされるだけで目に見えないんだけどね」
「それって何?」
盛田さんって意外とオタクなのだろうか。確かにこういう普通っぽい可愛い子が、特定のジャンルにどハマりしてアニメグッズを取り扱うショップとかに来てる、なんてのも見かけるけれど。もしかしたら同じものが好きで仲良くなれたりするかしら――私はそんな期待を持って盛田さんを見つめた。
でも、そんな期待は彼女の言葉に打ち砕かれる。
「美結のコレクションはね、カッコイイ男の子! 美結、狙った男の子とは絶対にヤっちゃうんだー」
(な、なんだって⁉︎)
私は声にならない声で叫んだ。と同時に、頭のどこかで警報が鳴りだしたのを感じていた。
(あ、これアカンやつですわ。)
気づいたけれど、もう遅い。
世の中には、バンドマンと関係を持つことを趣味とするようなバンドの追っかけの女の子がいるのいうのは、聞いたことがあった。本命の彼女になれなくても構わないから、ワンナイトラブな関係を求めるという、アレ。
オタクな私にとっては巷説の中でしか聞いたことがない都市伝説のような生き物が今、目の前にいるということなのだろうか。
それなら、盛田さんが北大路を呼び出した理由というのは、おそらく……
「涼介くんだけなんだー。美結が誘ったのにヤらせてくれなかったの。でもそれじゃ、美結の中のコレクションシートが埋まらないの! そんなの嫌なの!」
盛田さんは、可愛く体をくねらせながら言った。そして前述の会話に戻るのである。
「涼介くんに迫ったらさー、『お前、あいつと別れたのか?』って聞いてきたんだよ。だから、『別れてないよ。でも付き合おうって言ってるわけじゃないから気にしなくていいよ』って答えたら、ショック受けたみたい。『付き合わないのにそんなことできない。告白より先に関係を求める女性なんて信用しない』だって。初心だよねー」
盛田さんは私は聞いているかなどお構いなしに、ペラペラと話しはじめた。
初心どころかあいつは童貞だよ! と私は声に出さずに相槌を打った。
「そのことがバレちゃって、でもなぜか涼介くんは私を庇って黙って退部。そのあとも気になるカッコイイ男の子とヤってみるけど、やっぱり違うのー。コレクションシートに空欄があるうちは、次に行っても落ち着かないっていうか……でも、それも今日で終わるけど☆」
(北大路ー来ないでー。ここにいるのはサキュバスですよ! 十八歳未満お断りな存在ですよ! 食べられちゃうよ! ショック熱が出るどころの騒ぎじゃないよ!)
私はそう叫ぶかメッセージを送るかしたかったけれど、淫魔がニコニコとスマホを見せつけてくるから動くことすらできなかった。
私のスキャンティーと北大路の貞操。天秤にかけると若干後者が重い気がするけれど、でも、やっぱり動けなかった。
(北大路、来ないで。)
私は、北大路がバンドを辞めなければいけなかった根源と対峙しながら、ただ祈るしかなかった。
でも、そんな祈りは虚しく、北大路はやってきてしまった。
「姫川! ……って!」
私の元まで無邪気に駆けてきていた北大路の足が、盛田さんの姿を視認した瞬間ピタリと止まった。笑顔もなくなって、無表情になっている。まるで、嫌いな人に対峙したときの幼児だ。親戚の子供がママにはニコニコなのに、パパが呼ぶとこんな感じになるのだ。
でも、幼児と化した北大路はすぐに思い直したようにこちらへやってきた。
「……盛田が、姫川を使って俺を呼び出したんだな」
「そうだよー。だってこうでもしないと涼介くん、美結のこと無視するんだもん」
ピリピリしているのはすぐわかるのに、そんなものにはめげずに盛田さんは北大路の腕にまとわりつこうとしていた。肉感的な魅惑のボディを北大路にうりうりと押しつけている。ああ、これが誘惑か! とお子様の私は目のやり場に困ってしまう。
北大路はそんなものじゃ揺らがないのか、そっと手で振り払って距離をとった。
「何度も言ってるけど、俺はお前には関わらない。そのためにバンドも辞めた」
「ダメだよ。今日こそ美結の言うこと聞いてもらう。じゃないと、姫川ちゃんの恥ずかしい写真ばらまくから!」
盛田さんの言葉に、北大路は驚いたように私を見た。そしてようやく、私が人質にとられていることに気がついたらしい。
「涼介くんが美結の言うこと聞いてくれたら姫川ちゃんはかわいそうな思いをしなくて済むし、コージに頼んでバンドにも戻してあげる! またバンドで歌いたいんでしょ? なら、良いことずくめじゃない。美結は嬉しいし、涼介くんも嬉しい」
盛田さんは、さも良い提案をしたというように極上の笑顔を北大路に向けていた。それとは対照的に北大路は青ざめた顔をしている。
よく見ると、体も震えている。
(そうか。怖いんだ。)
目の前で繰り広げられているのがもし男女逆だったら、大変なことだ。ニコニコ笑って脅しながら肉体関係を迫るって、鬼畜じゃねーか!
それに気がついたら、スッと体の奥の温度が下がるような感覚があった。
肝が据わるって、もしかしたらこういうことを言うのかもしれない。
「北大路、大丈夫だよ。その人の言ってる脅しって大したもんじゃないから」
気がつくと、私はそんなことを口走っていた。
さっきまで「キャー私のおパンツ写真!」だなんて焦っていたけれど、たかがパンツだ。大丈夫。そんなことで私の尊厳は死なない。
けれど、北大路の貞操は、奪われれば確実に死ぬ。北大路の、心の大切な部分が。
それを守れるのなら、パンツくらいいくらでも見せてやる。
「姫川ちゃん、いいの? 今からこれ、いろんな人に送っちゃうよ?」
「いいよ。やれよ、ほら。北大路、このビッ……性に乱れたお嬢さんの言うこと聞かなくていいから」
思わずお下品な言葉が出そうになってしまって、グッと堪えた。こういうとき、もっとオブラートに包めるよう語彙を増やしたい。
開き直った私に対して、盛田さんはうろたえていた。北大路は、どうすれば良いか悩んでいるのか、私と盛田さんを交互に見ていた。
でも、覚悟を決めたのか、勢いよく体を折って頭を下げた。
「すまん! 盛田、俺は初めては絶対に大好きな子に捧げたいと思っている。だから、お前の言うことは聞いてやれない!」
その発言の内容に、なぜか私が恥ずかしくなってしまった。お前は乙女か!
けれど、そんな乙女に対して盛田さんは、冷めきった目をしている。私にすら向けなかった、ものすごく冷酷な視線だ。
北大路はその視線に若干怯みながらも、懸命に言葉を紡ぎ続けた。
「コージはお前のことが本当に好きなんだから、大事にしてやってくれ」
「大事にって……美結がどんなことしててもいいから別れたくないって言ってるのはあいつだからね? コージは、美結がいろんな子と寝てても構わないって。それを大事にしてやれだなんて、バッカみたい」
「それでもだ。……それぐらい、惚れてるんだよ。それと、自分のことも大事にしろ」
「は? 美結、自分が大事だから好きに生きてる結果がこれだけど? 説教なんてしないでよ。ダッサ! 重たいよアンタ!」
「重くていいさ。俺は不誠実なのは嫌なんだ」
「美結は自分の気持ちに誠実なの! カッコイイ男とヤリたいって、そんなにいけないこと? 女の子なら多かれ少なかれみんな同じ気持ちでいるはずだよ! それを実行するかしないかの違いしかない」
「大きな違いだ。いつか本当に大切な人ができたとき、胸を張れる自分でいたいから、俺は盛田を理解できない」
最後のほうは駄々っ子のようになっていた盛田さんは、やがて諦めたように目を伏せた。苛立たしげに唇を噛み締めて、乱暴にスマホを操作すると、また顔を上げてこちらを見た。
「……写真は消した。姫川ちゃん、ごめんね」
「……うん」
「……涼介くん、欲しかった」
「すまん、やれん」
私たちの返事を聞くと、盛田さんはトボトボと一人帰っていった。
フルコンプしたいという気持ちにおいてだけは理解できるから、ちょっぴりその背中が切ない。
でも、ダメなものはダメなのだ。
欲しいものがあるからって転売ヤーからものを買ってはいけないのと、きっと同じだ。正当な手段で手に入れる努力をし、その結果ダメだったのならすっぱりあきらめる。それが盛田さんの活動にもオタ活にも共通することだと思う。
取り残された私と北大路は、顔を見合わせて、大きな溜息をついた。
「北大路、ごめんね。のこのこ呼び出しに応じたら、迷惑かけちゃって」
「いや、元は俺のことに巻き込んでしまったわけだから」
こんなことならバンドを辞めた理由を北大路本人に聞いておけばよかったと、私は激しく後悔した。
知っていれば、たぶん盛田さんには近づかなかった。近づかなかったというより、最重要人物としてマークしたはずだ。
「貞操の危機だったね」
「……ああ」
北大路は怖かったのか、自分の体を抱きしめて身震いをする。あんな子に迫られたら年頃の男子なんてひとたまりもないだろうに、既得な奴だ。でも、頑張ったねと評価してやりたい。
「バンド、他のメンバーの誤解を解いたら戻れない?」
「……どこからどこまで話すかってことを考えると、な」
「コージって人のこと考えての決断なんだね」
北大路は、黙って頷いた。そこに迷いはなかった。
私を追いかけ回してまで曲を作らせたやつだ。バンドに未練がないはずないのに。
仲間のためにバンドを諦めた北大路のために、頑張って良い曲を作ろうと私はこっそり誓った。
あれでもないこれでもないと衣装を当ててみながら、はしゃぐ女子たち。
それに対して「おい、そんなことよりこっちの看板塗ってくれって」などと声をかける男子たち。
でも、「ねぇ、どっちが好き?」なんて女子たちに尋ねられれば、作業をしていた男子たちも衣装のかかったハンガーラックのほうへ吸い寄せられていってしまうのだ。
この光景を見るのは何回目だろう。
早よ作業進めなさいよ! と言いたい。
もうすぐ文化祭で、今はその準備の真っ最中。
文化祭一週間前から六限が準備の時間として割り当てられていて、それに放課後も合わせて当日までに準備を完了する予定だ。でも、この調子ではどうだろうか。間に合う気がまったくしない。
うちのクラスはコスプレ写真館をする。中学時代のセーラー服や個人的に持っているパーティー衣装、果ては誰かが知り合いのレイヤーさんに借りてきたという気合の入った衣装まで集めて、貸し出し衣装はそれなりの数になった。
二百円で一着衣装を貸し出してポラロイドで撮影する、というサービスをする予定で、今はその看板と更衣室としてのスペースを作成中だ。
……全然進んでいないけれど。
文化祭の準備といえば、あれだ。
普段なかなか会話をする機会がないクラスメイトとも気軽に話せる雰囲気になるため、盛り上がるのだ。特に男女が。
教室の至る所で共同作業という名のコンパが開催され、キャッキャウフフの甘酸っぱいお祭り騒ぎである。
まあ、クラスメイトとの交流をはかるのも文化祭の大切な目的ではあると思うけれど。
「姫ちゃん、うまいねー。さすが漫研」
「すごいねー」
「あ、ありがとう」
私に割り振られたのはポスターとチラシのイラストで、教室の隅で邪魔にならないように作業していた。
でも、手持ち無沙汰な子たちが定期的にやってきてはこうして声をかけてくる。みんなフレンドリーだからいいのだけれど。
「本当、うまいな。将来はプロ目指すの?」
「え?」
そんなふうに声をかけてきたのは、クラスの人気者の長谷川くんで、私も周りの女の子もびっくりしてしまった。
そういえば、初めて話すかもしれない。もう二学期も半分過ぎたというのに。
「ううん。私は趣味で描けたらいいかなって。将来は安定した職につきたい」
じゃないと二次元に注ぎ込むお金を得られない、という言葉は飲み込んで私はそう言った。
「ふーん。地に足つけて、しっかり将来のこと考えてるんだなー。でも、うまいからもったいないな」
ただ気まぐれに声をかけただけだろうと思っていたのに、長谷川くんは立ち去る気配がない。しげしげと私の手元を覗き込んでいる。そんなに見てたら描きにくいでしょ! と言いたいけれど、相手は人気者だからさすがに言えない。
「そういえば、涼介が歌ってる動画見た。あの曲、姫川さんが作ってるんだろ?」
キラキラの笑顔を浮かべて、長谷川くんがそんなことを聞いてきた。あんまり長いこと話したくないのだけれど、流せない話題をふってきた気がする。
「うん」
「すげぇな。絵もうまいし、曲も作れるんだな」
「そんなことないよ……」
私は内心「えー」と思った。北大路の動画がこうして学校の人にバレるのは時間の問題だと思っていたけれど、私の曲だってことも一緒にバレてしまうのか。
北大路のことを下の名前で呼ぶということは、二人は仲がいいのだろうか。イケメンはイケメンに通ずる、ということなのかもしれない。
「俺も歌ってみようかなー?」
「いいと思う! 長谷川くんが歌ったら人気出るよ!」
「だね! 聴きたい!」
人気者・長谷川くんは、周囲に着実に女子を集めてきたのをいいことに、突然の『歌ってみた』やりたい宣言。女子からの反応も計算済みでの発言でしょこれ、と言いたくなる。
ダイ○ンも驚きの吸引力で女子を自分の周囲に集めながら、長谷川くんは可愛い笑顔を振りまく。
和犬を思わせる甘い顔立ちと、オタクの私にも平等に接してくれるそのフレンドリーさが良いなと思っていたけれど、こうして観察するとムズムズしてきた。
何というか、同じイケメンでも北大路とは決定的にタイプが違う。北大路は自分の容姿に自信を持っているし、それを全面に押し出しているけれど、褒めてほしいとかチヤホヤしてほしいというのは感じないわ、でも、長谷川くんは褒められたい・チヤホヤしてほしい、その上一番になりたいというのがひしひしと感じられるのだ。
「ねぇ、俺が歌ったら人気出るって姫川さんも思う?」
長谷川くんは小首を傾げて、きゅるんとした表情を私に向けた。
(やっぱり、確信犯だよね)
気づいたら途端にムズムズが強まって、私は拳が疼くのをグッと堪えた。
「うん、すっごく人気者になれると思うよー」
「やった☆」
私の答えを聞いてキラッキラの笑顔でガッツポーズをする長谷川くんに拳の疼きを抑える自信のなくなった私は、北大路を探したけれど、どこか別の場所で作業をしているらしく見つからなかった。全く、肝心なときに近くにいないなんて。
「楓、進んだ? チラシはできたら印刷して、手の空いた子たちで色塗りしちゃうからね」
長谷川くんが女子たちを引き連れて去っていったのを見ていたのか、葉月がやってきた。傍らには恵麻ちゃんもいる。たぶん、今まで近づきたくても近づけなかったのだろう。
「ペン入れ終わったから、消しゴムかけたら出来上がりだよ。……いや、参った。何かいっぱい話しかけられて作業なかなか進まなくて」
私が愚痴るのを二人は微笑みでもって受け止める。
「あのあと何事もなくて良かった。……クラスの子たちも白川さんたちのこと手放しで受け入れてるわけじゃないってことだね」
恵麻ちゃんは、チラッと教室の一角に目をやって言った。白川グループが作業をしている。真面目だ。一番必死になって男子と戯れたがりそうなのに。
「いや、白川さんたちがおとなしくなったのって、たぶん夏海のおかげだよ。あの子の『保健室の悪魔』の名前は伊達じゃないってことだね」
「保健室の悪魔?」
夏海というのはサナの名前だ。漫研では真田という苗字からサナというあだ名がついているけれど、本当は夏海という可愛い名前がある。それにしても保健室の悪魔って、何て物騒な異名なのだろう。
「白川さんとか、クラスで幅きかせてる子たちって、保健室の先生に恋愛相談しに行ったり、失恋したとき泣きに行ったりするらしいんだけど、そんな、人に見られたくない現場に不思議と居合わせるから、夏海は悪魔って言われてるみたい。……あの子たまに気分悪いって言って保健室に休みに行くけど、そういった情報を集めるのが主な目的なんじゃないかと思うわ」
「わお……」
面白そうに葉月は言うけれど、私はサナにそんな顔があったのかと驚いていた。おっとりゆるふわな子だとばかり思っていたけれど、なかなかどうして黒い。
だって、保健室で安心しきって人に聞かせられないあれやこれやを養護の先生に話していたら、ベッドを仕切るカーテンがシャっと開いて、「話は聞かせてもらった!」とばかりにサナがあの柔らかな笑顔を浮かべて現れるんでしょ? それって恐怖体験だ。
「それで、たぶん白川グループは全員何かしら夏海に握られてるんじゃないかな、と。……何で敵作るような生き方してるのに脇が甘いんだろうね」
「本当だね。でも、甘くて良かった……」
私は、廊下で看板に絵を描いているサナにそっと手を合わせた。サナが悪魔だったおかげで、私の平和は守られているわけだから。今度あの子が好きそうなBL本を一冊お供えしよう。
「それにしても楓は、北大路くんに追いかけ回されたり長谷川くんにああして声かけられたり、大変だね。二次元にしか興味ないっていうのに」
下書きの鉛筆を消すのを手伝ってくれながら葉月が言う。友達だから当たり前かもしれないけれど、間違っても「羨ましい」とか「ズルイ」なんて言わないから安心する。
「北大路は曲に興味を持っただけだし、さっきの長谷川くんは、北大路に対抗してただけでしょ? 私を北大路陣営だと決めつけて、長谷川陣営に流れるようちょっかいかけてみた……みたいな?」
「……恵麻、今度この子に乙女ゲーム貸してやって。すごく色々勉強になりそうなやつ」
「てか、こんな感じでどうして今までちゃんと乙女ゲーム攻略できてきたんだろうね。人の感情の機微に疎すぎる」
葉月と恵麻ちゃんは、私を残念な子を見る目で見ていた。何か失言をしたのだろうか。
よくわからないから、とりあえず「えへへ」と笑っておいた。