言葉を選んで、どうにかこうにか考えて、過ぎた日を懐かしく思うだけだよ、と言おうと思った時だった。彼女が、言った。
「でもね、私、今、幸せよ。やっと婚約したの。」
 そう言って、左の手の平をこちらに向けて、暗闇の中でも眩く光るエンゲージリングを見せた。見てすぐにわかる、上質なものだった。
「彼の家、代々続く大きな会社やっているから。少し、大変だったわ。ほら、うちなんて普通に地方公務員でしょう。でも、彼が頑張ってくれて、私のことも守ると言ってくれて、何度も話し合って、なんとか。ここまで三年以上かかったわ。」
 ふふふと、また、知らない女の顔で笑う。私は、やめてくれ、と叫びそうになる衝動を必死で抑える。
 一呼吸して、「おめでとう。」と言う。心は、こもっていなかったかもしれない。そんな言葉にも、彼女は笑って「ありがとう。」と言う。

「本当はね、私のほうがあなたより先に結婚することが決まって、あなたに泣いて止めてもらうつもりだったの。泣きながら、結婚するなって、言ってもらうはずだったのよ。」
 彼女の顔を見る。口調は笑っていたのに、その目は少しも笑っていなかった。この夜の闇と同じ、漆黒の瞳。その瞳に、輝く未来は見えているのだろうか。

「ところで、ねえ、あなた、子供もいるんだってね。写真、見せて欲しいわ。」
 そう言われて、見せて困るようなものではないと思い素直に応じた。私はスマートフォンを取り出して、画像を見せる。子どもが映った写真だ。彼女はそれを受け取り、画像をまじまじと見た。
「かわいい男の子、あなたに似てるわ。よかったわね、間違いなく、あなたの子ね。」
 ふふふと言って笑ったかと思うと、彼女はその手に持ったスマートフォンを、突然床に投げ捨てた。
 カシャーンと、床とプラスチックがぶつかる音が聞こえる。たまたま通りかかった客が「大丈夫ですか」と拾ってくれた。
 私は「すみません。」とそれを受け取り、壊れていないかを確認すると、彼女を睨んで少し強い口調で言った。
「お前は、何がしたかったんだよ!」
 お互いにきつい視線が重なる。ほんの少しの間、見つめ合う。とても長く感じる、十数秒間。すると彼女のその丸いビー玉のような澄んだ瞳から涙がこぼれた。大粒の涙がぼろぼろと落ちてゆく。少し薄くなった桜色の口をきゅっと堅く結んで、何かを我慢しているみたいだった。いつか、こういう顔を見たことがあった。記憶をたどる。そう、それは小学生の時だ。彼女は図工の作品を大事に持って帰っていた。夏休みの思い出の土地の貝や木や石をいくつも使って作られた、立体的な一枚の絵のような作品だった。先生にも褒められていた立派な作品だった。私はそれを抱えて帰っていた彼女をふざけて追いかけて、落とさせて壊してしまったとき。思い出の詰まった大切な作品だったのに、大事に抱えて持って帰っていたのに、自分の幼さのせい壊れてしまった宝物。あのときの、大事にしていたものを失った悲しい顔だ。

「私、あの時も泣いたの。」
「え?」
 思わず私は心の中を読まれたのかと思い、不思議がって聞き返すと、彼女は言った。
「五年前、あなたが結婚したと友達から教えてもらったときよ。本当は、海に行った日、十年前に会った時からわかっていたわ。もう二人の人生は交わることはないのだろうと。私たちのタイミングは、いつも合わない。それでも、心のどこかで期待していたのね。あなたにとって私は特別なんだと信じていた。でも、結婚して、もう他の人のものになってしまって、本当にだめなんだと思ったら、堪らなかった。私は、あなたと同じ町で育って高校までずっと一緒で、あなたのことをたくさん知っているつもりで、でも気が付いたらあなたは私の知らない男の人になっていて、手の届かない遠いところにいってしまっていたんだと思ったら、寂しくて、苦しくて、泣いたわ。本当に。その夜は、一人でウィスキーに慰めてもらったのよ。」
 そう言って、彼女は泣きながら笑った。ふふふと、必死で大人の余裕を見せながら、でも、十年前と同じ幼い香りを漂わせながら。
よく見ると、その顔は、子供の頃と変わらなかった。
 そして、彼女は小さなバッグから淡い水色のハンカチを取り出して、左手の薬指の指輪を光らせながら、しっかりとアイメイクをした目元にそっと押し当てて、言った。
「今夜は、あなたに、一度くらい私のために泣いて欲しかっただけよ。私だけのためにね。」

 そう言って、一呼吸して、彼女は椅子から立ち上がる。歩いてゆく。店を出る。足音が泣いているみたいに寂しく静かに響く。
 その遠ざかってゆく足音を聞きながら、残された懐かしい香りに、私は泣きたくてたまらない気持ちを必至に堪えながら、残ったウイスキーを、一人で味わった。