「傷つくのが怖いなんて、当たり前じゃないですか……」
グッと顔を上げ目を合わせると、涙で揺れる視界でも、久遠さんの瞳に驚きが広がったのがわかった。
「怖くて当たり前じゃないですか……っ! 私が真剣に想っていた間、相手は私のことなんかこれっぽっちも想ってなかったんです!
もし、お金盗ったのが彼だって確定しちゃったら、私は彼にとってお金とってもなんとも思われない存在でしかないってことでしょ……?」
お金じゃなくたって、なにかを盗んだりしたら、その相手との関係はもう終わる。
それを分かっていて、その上で私のお金を盗んだのなら、元彼にとって私は切り捨てていい存在だったってことだ。
お金を貸して欲しいって言われてから、私は付き合い方をどこかで間違えてしまったんだと思って、どうにか元に戻れないかなって……修復できないかなって考えていたのに。
なにが彼をそうしてしまったんだろうって、一緒に考えたいって思ってたのに。
その間、元彼は私の悪い噂を言いふらしていた。
その頃にはもう、元彼にとってはどうでもいい存在にまで落ちていたんだ……と思うと、大粒の涙がこぼれた。
元彼に想われていなかったのが悲しいからじゃない。ただ……自分が情けなくて。
目を伏せ、手の甲でぐいっと涙を拭く。
こんな風に人前で泣いちゃうなんて最悪だ。
あとで絶対後悔するだろうなぁ……と、じょじょに冷静になってきた頭で考えた。
「とにかく、そんな相手と今さら顔合わせたりしたって、ただ惨めな現実突きつけられるだけですから。久遠さんの言うように、もう、傷つきたくないんです」
ずっと鼻をすすって言う。
泣いたのなんてほんの数分なのに目の周りが熱を持っていて嫌だった。
「もう、本当にいいんです。ごめんなさい、泣いたりして……」
しかも弱音みたいなことまで言ってしまったし、八つ当たりに怒鳴ってもしまった気がする。
元々は久遠さんが嫌なこと言ってくるからだけど、それにしたって仕事としてここに来てるっていうのにこれはダメだ。
そう自己嫌悪に陥り、どこまでも沈みそうになっていたとき。
俯いていた視界に久遠さんの腕が入ってきたと思った途端、くいっと顎を上げられ、すぐに唇を押し当てられた。
何が起こったんだかわからなくて、少し呆然としてしまう。
それからハッとし、久遠さんの胸を押そうとしたところを、逆に押し倒される。
肩を押され、床に押し付けられたまま再びキスされて……混乱する。
なんでキスされているのかがわからない。
もう、こういうことはしないって言ったのに。……でも。
久遠さんの唇が、あまりに優しく触れるものだから、抗議する気にもならずにぼんやりと眺める。
閉じた瞼。長いまつ毛。
黒髪が顔に触れ、くすぐったい。
眺めていると、そのうちに久遠さんが目を開けるものだから驚いたけれど……そのまま、触れるだけのキスを繰り返す。
啄むように唇をやわらかく挟まれ、何度も角度を変え、重なる。
まるで慰めるようなキスに、目尻にたまっていた涙が頬をつたうと、わずかに離れた久遠さんの指先がそれを拭った。
日当たりのいい、空調の効いたホテルの部屋。
押し倒された状態のまま見上げていると、久遠さんが「泣くな」と言う。
「……もう泣いてません」
「さっきボロボロ泣いてたろ」
「だからってキスで慰めるとか、どういう思考回路……」
「嫌なんだよ」
言葉の途中で遮られ黙ると、久遠さんは眉間にシワを寄せて私を見た。
いつも怒っているような顔をしている人だけど……でも、これは少し違う。
初めて見る種類の顔だった。
「なんかわかんねーけど、おまえが泣いたり、傷ついた顔してんのは見てたくない」
ハッキリとそう告げた久遠さんが、私の着ていたブラウスの裾から手をさしいれる。
そのままスルスルと上がってきた手に、下着の上から胸に触れられたけど……抵抗しようとは思わなかった。
「……ん」
胸の上に手を置いたまま、触れるだけじゃないキスをされ目をつぶる。
重なる舌はやっぱり優しくて……壊れ物でも扱うような行為に、なんでだか、収まったはずの涙が瞼の裏に滲みそうだった。
ゆっくりと時間をかけてキスをした久遠さんが離れ、私をじっと見下ろす。
いつかみたいに、冷めた表情と、瞳の奥の熱がアンバランスで……でも、そこに私の体温が上がったのがわかった。
「死にたくなるくらい惨めな過去だったとしても、今はそう悪くはねーだろ。久遠財閥の御曹司に抱かれてんだから」
「……そこまで惨めじゃないです」
じっと見上げたまま口ごたえした私を、久遠さんは小さく笑って。
「昔の男じゃなくて俺のこと見てろ」
もう一度唇が重なる直前、そう言った。
たぶん、それは独占欲とかそんな色っぽいものじゃなくて、こどもが抱くようなわがままに近いと思うのだけど。
どうしょうもない過去の沼に落ちてしまいそうだった私を救う言葉に思えた。
仕事で来ているっていうのに、こんな人でなしの久遠さんに慰められてしまうなんて……便利屋失格だな、と溶けだした頭のどこかで思った。
◇仲直りのデザート
朝、出勤し、既にきていた社長に挨拶して、椅子に座ったところで違和感を感じて背中を振り返った。
背もたれにつくと背骨のあたりが痛い。
そこまで気にするほどでもないけれど、でもたしかに痛む……と考え、思い当った原因に顔を覆いたくなった。
たぶん、昨日、久遠さんの部屋で起こったことが原因だ。
あのまま床でしたから……それで。
久遠さんは私を慰めるつもりだったのか、初めてのときよりも優しくて強引な部分はなかったけど……でも、床に転がったまま揺すぶられたらどんなに優しくされたところで背中だって痛くなる。
そう考えて……今度こそ、両手で顔を覆った。
一回目はまだいい。
久遠さんが仕掛けてきたことだし、私は応えただけだって言い訳もできる。
でも、昨日のはダメだ。
合意の上での行為に、過失の割合をあてるのはおかしいけれど……昨日のは割合的に私が悪かったから。
一度ならまだしも二度って……!と頭を抱えていたとき、社長が「おまえ、大丈夫か」と声をかけてくる。
顔を上げると、不思議そうに片眉を上げた社長が私を見ていた。
「……なにも問題ありません」
「出勤してくるなり顔覆ったり頭抱えたり……昨日、久遠となんかあったか?」
「な、なにかって……?」
突然出された名前に思わずうろたえてしまう。
こんなこと、バレたら絶対にまずい……と内心焦っていると、社長はそんな私には気付かずに、煙草に火をつけながら続ける。
「あいつ神経質だし口悪いから、ケンカしたとか頭にくること言われたとか」
なんだそういう意味かと胸を撫で下ろしながら、口を開く。
「久遠さんが性格悪いことも神経質なのもわかってるので、もういちいち気にしないから大丈夫です。……でも、社長、私ここ二週間くらいずっと久遠さんとこに行ってますけど、他の仕事回ってるんですか?」
社長と吉井さんでほとんどの仕事は回せるかもしれないけれど、彼女役だとか、女性である私にしかできないこともある。
だけど私はこの二週間、久遠さん以外からの依頼を受けていないし……たまたまそういう依頼がきていないだけだろうか。
そう思い聞くと、社長は「あー、それだけどなー」と煙を吐きながら言う。
「やっぱり、女手は欲しいから、昨日面接してひとり雇ったんだよ。おまえは久遠のところで忙しいし」
「え……そうなんですか?」
初耳なだけに驚くと「バイトだけどな」と返される。
「いつまで久遠の依頼が続くかわかんねーから、一応、二ヶ月の短期で募集かけたんだ。時間も、佐和が席を外す昼前から夕方指定にしたから、応募こねーかなって思ってたけど、昨日電話がきて、それで」
「へぇ……。でも、そこまでしなくても、久遠さんって社長の友達なんだし、社長が会社帰りに毎日顔出せばいい気もするんですけど」
久遠さんの様子を見ている限り、別に私じゃなくてもいい気もする。
人見知り……というか人当たりがキツイから、ナイーブな人じゃ務まらないにしても、社長なら友達なんだし。
社長だって、どうしても久遠さんから依頼をとりたいわけでもないだろうし……と思い言うと、複雑な笑みを浮かべられた。
「まぁ、詳しい話は今日昼飯食べながらでもするか。久遠には午後一から行かせるって伝えとくから、昼、ちょっと付き合え」
そう言い、煙草をギュッと灰皿に押し付けた社長に「社長のおごりなら」と返し、パソコンを起動させた。
社長が連れて行ってくれたのは、久遠さんが泊まっているホテルの最上階にあるレストランだった。
オフホワイトのタイルの上に置かれているのは、木製の四角いテーブル。
それを挟むようにひとり掛けのソファがふたつ。
広いスペースをゆったりと使っているから、見た感じでは席数は二十席ほど。
隣の席との感覚をファミレスくらいにすれば、今の倍は入るんじゃないかな、と考えてから自分に苦笑いを浮かべる。
こんな高級ホテルのレストランにくるような人はきっと、このゆったりとした空間を楽しみにくるんだろう。
なんでも詰め込めばいいなんて考え方はよくない。
高い天井は、オフホワイトと濃いブラウンの二色が色んな形に入り混じり、まるで現代アートのようだった。
ミルクが落ちた衝撃で飛び散ったコーヒーのように見える場所もあれば、万華鏡でも覗きこんだみたいな部分もあり、しばらく見ていても飽きなそうだなと思う。
社長が連れて行ってくれるお店なんて絶対にラーメンとかだと思っていた私は、思い切りうろたえながら社長のうしろを歩き……ボーイさんに案内された席にまた驚いてしまった。
だって、一番奥の窓際っていう、たぶんとてもいい席だったから。
お客さんの年齢層は結構高くて、上品なおばさまや老夫婦が目立つから、ますます社長のお財布が心配になってしまう。
社長がランチセットらしきものをボーイさんに注文を終えたところで、テーブルに身を乗り出し小声で言う。
「社長、ここ絶対高いですけど大丈夫ですか?」
向かいに座っている社長は、ニヤッと口の端を上げ「ここをどこだと思ってんだよ」と答えた。
「久遠んとこが経営してるホテルだろ。手なら回してある」
そう言った社長が、人差し指と中指に挟んで見せたのは映画のチケットのような大きさの紙だった。
『お食事券』と書いてあるその券を胸ポケットにしまいながら社長が説明する。
「昨日の夜、久遠にもらったんだよ。話の流れで、このレストランの割引券とかねーのかって聞いたら、無言でこれくれたんだけど、裏に一万円まで無料になるって書いてあった。いいよなぁ、ホテル持ってると」
「え、昨日……?」
昨日、あの部屋で久遠さんとしたことを考え、ギクリと心臓が鳴る。
そんな私に、珍しく目ざとく気付いた社長が「なんだよ、なにかあったか?」とニヤニヤするから、目をすっと逸らした。
「いえ……。ちょっと久遠さんに痛いとこつかれて怒鳴っちゃっただけです」
もごもごと言うと、社長は「あいつは言葉選ばないからなー」とははっと笑うから、こっそり胸を撫で下ろす。
久遠さんも何も言わなかったみたいだし、バレてはいないみたいだ。
「でも、社長も久遠さんに会ってるんですね」
最近、私が毎日のように様子を見に行ってその報告をしているから、それで済ませてるのかなと思ってたのに。
しっかり自分も時間作って様子を見にいっていたのかと、そこに、社長の顔には似合わない〝友情〟を感じ、笑みがこぼれそうになる。
「まぁ、たまには直接顔見ないとな。でも、前会ったときよりも明るい顔してたから安心した」
「……明るい顔?」
とてもじゃないけれど、ここ二週間の久遠さんの顔を思い出してみてもそんな風には思えず苦笑いを浮かべると、社長が笑う。
「あいつは表情が乏しいからなー。でも、中学から一緒の俺が言うんだから間違いない。今のあいつは、だいぶ気が楽になってる」
そう言った社長が、水を飲んでから続ける。
「少し前までは、久遠はひとりが好きなんだと思ってたんだ。話しかけてもあんま嬉しそうな反応しないし。でも、ここ数年でそうじゃねーかもって気付いた。
人と接することで楽になる部分はたしかにあるし、あいつにはそういう時間が足りなかったのかもって」
たしかに久遠さんに話しかけても、あまり好感触な反応は返ってこない。
むしろ、うっとうしがってるのかな……っていうくらい、反応が悪い。
でも……こうして毎日のように呼びつけているところをみると、人間が嫌いだとかひとりが好きだとか、そういうわけでもないのかもしれない。
「でも久遠は気難しいからな。自分から近づいていくタイプでもないし、それに、誰でもいいってわけでもねーし。どうにかなんねーかなって考えてたんだけど」
視線をこちらに向けた社長が、にっと口の端を上げ「あの時、おまえを向かわせてみてよかった」と言う。