眠れぬ王子の恋する場所



実際、久遠さんは不健康そうだけど決して華奢ではないし、むしろ男らしくガッシリとした身体つきをしているのに……。

こんな風に押さえつけられたら、身動きひとつとれないほどなのに。

なにもかも圧倒的に不利なこの状況で、どうしてこの人に怖さを感じないんだろう。

揺れずに真っ直ぐに私を見下ろす無表情な瞳。
そこに浮かぶ寂しさに似た感情の理由を知りたいって気持ちが、恐怖よりも勝っていた。

『病気とか……特に、精神的なモンからくる病気なんか、周りから面倒がられるだけだろ。なのに世話焼いてくるから、変わった女だと思っただけ』

さっき、そう言っていたときの拗ねたような、どう反応したらいいのか迷っているような、まるで子どもみたいな表情を思い出す。

その時にも感じたけれど……私はたぶん、この人に弱い。

美形だからとか、御曹司だからとか、そういう上っ面の話じゃなくて……この人の弱さとか脆さとか、そういうものの端っこが見えるたびに放っておきたくなくなってしまう。

口も態度も悪い、こんなヤツが相手なのに……。
思いきり手を振り払って、二、三発殴ったあと、回し蹴りでもくらわせて脱出するのが正解だって思うのに。

なんでだか……本当に、なんでだか、そんな気になれなかった。

「手が、冷たいんですけど」

目を合わせたまま静かに言うと、久遠さんはチラッと私を押さえつけている手に視線をやった。

「そうか? こんなもんだろ。おまえも似たようなもんだし」
「私だって冷え症で冷たい方なのにそれより冷たいってよほどですよ」

自分のことなのに、まるで他人事みたいに関心なさそうに言う久遠さんに呆れた声で返してから「それで、この体勢はなんでしょうか」と聞く。







自分でも驚くくらいに平常心だったけど、理由はわからなかった。

ただ……瞳に弱さが滲んでいるようなこの人を、どうしても怖いとは思えなかった。

久遠さんは、私をじっと見てから口を開く。

「自分でもよくわからねーけど……おまえが……おまえ、名前なんだっけ」
「佐和です」
「佐和……なに?」
「佐和真琴」

「ふぅん。真琴か」と納得するように言った久遠さんが続ける。

「真琴が他の男の話題出すから、イラついて。なんか俺の方を向かせたくなった」

他の男……と考えて、ああ、吉井さんのことかと思う。

でも、吉井さんの話題を出してイラつかれる意味がわからない。

付き合っているわけでもなければ、会ってまだ数時間しか経っていないのに。

……もしかしたら、一緒にいる人間が他の人の話を持ち出すことが嫌なのかな。
御曹司って話だし、そういう自分勝手な部分はあってもおかしくなさそうだけど……。

それとも、独占欲が異常に強いとか、そういうことだろうか。

相変わらず感情の見えない瞳をじっと見上げていると、久遠さんが言う。

「気が変わった。おまえのこと、買ってやる」
「……え、買……え?」
「ここで抱かれるのとベッド、どっちがいい?」

するりと、頬を撫でてくる手の冷たさと、無表情の瞳のなかに宿る熱。

そのちぐはぐさになぜだかゾクリとした感覚が生まれ背中を流れ落ちる。

触れてきた唇も、舌さえも冷たいのに……瞳の奥だけが熱情を浮かべていた。





唇を合わせながらもじっと見てくる久遠さんを、私も見つめ返し……ああ、と思う。

やっぱり私は、この人に弱い。

襲われているっていうのに、拒否しようと思えない。
これが、本能ってやつなんだろうか。

キスにも、触れられることにも、なんの抵抗もなかったし……執拗に舌を合わせられても、嫌悪感はなかった。

冷たい唇が啄むように触れてくる様子をぼんやり眺めてから、目を閉じる。

「ベッドがいいです」

キスの合間にこぼれた声が、やけに甘ったるくなってしまって。
それに困惑して顔を赤くしていると、久遠さんがわずかに笑った。


















◇お詫びのルームサービス









あのパズルにはたぶん、催眠効果があったんじゃないかと思う。それか呪いの類。

そうじゃなきゃ、出逢って一日目の久遠さんとあんなすんなり、握手でもするような心持ちで関係を持ってしまうなんてありえない。

甘く迫られたわけでもないのに……と頭を抱えて、ん?と思う。

……そうだ。甘く言い寄られたわけじゃない。

久遠さんは言葉遣いだって態度だって悪かった。
初めて逢った人間に対する礼儀なんて微塵も感じなかったし、昼寝して起きてからはまだしも、それまでの態度なんてはっきり言ってひどかった。あれはない。

御曹司だと周りにチヤホヤされて育ったのかもしれないけど、人としてどうかと思うレベルにひどかった。

……なのに、だ。
私は……なんで久遠さんを拒みたくないと思ったんだろう。

あの冷たい手を、瞳を。
受け止めたいなんてことを思ったんだろう。


「佐和。昨日は悪かったな。結局、あのあとどうした?」

翌日出社すると、既に社長の姿があった。

出社時間は八時半で、今は八時だ。
社長が早い時間に出社すると、一応、一番の新人である私はもっと早くに出社しなくちゃならなくなるからやめてほしいと言ったのに、社長は聞く耳持たずで毎朝八時前出勤を繰り返す。

この人は仕事場が本当に好きなんだなと、私が諦めることにしたのは入社して半月が経った頃だった。

新人だから一番に出社しないと、っていう考えは、次の職場に移ったとき持ち出すことにして、頭の奥に押し込んでいる。

「その前に社長。よくよく考えると、男のひとり暮らしの部屋に女ひとりで送りこむって問題ですよ」

バッグを机に置きながら言うと、社長は、なに言ってんだとでも言いたそうに、ははっと笑う。




「まぁ、普通の男のひとり暮らしなら危ないかもな。でも久遠は女に不自由してねーし、強引に襲い掛かるようなヤツでもないから」

……襲いかかられましたけど。
とは言わずに、眉を寄せた。

たしかに強引ではなかったし、久遠さんを責めるつもりはない。
ただ、あんなあっさり関係を持った自分自身が不思議なだけで。

私って案外、ビッチだったんだろうか……とげんなりしながら椅子を引き出し、座った。

でも……考えてみれば、付き合ってもいない人としちゃったのなんて、初めてだ。

「そもそも、女にもそんな興味なさそうだしな。たぶん、全裸の女が誘ってきても表情ひとつ変えずに断る」
「え……どんなにスタイルよくてもですか?」
「ああ。モカちゃんでも無理だな」

〝モカちゃん〟っていうのは、最近グラビアで人気のある子だ。

社長がすごく気に入っていて、『見ろ、この魅惑のくびれ具合』だとか『Eカップとか、男の夢だよなー』とか気持ち悪い独り言を言うから私も覚えてしまった。

「……それはさすがにないんじゃないですか?」

Eカップの美女が裸で誘ってきてるのに断るなんて考えられない。

久遠さんは確かに淡泊そうに見えるけど、実際は……そうでもなかったし。
だから首を傾げると、社長は煙草に火をつけながら「興味はあっても警戒心が強いヤツだからな」と言う。

「警戒心……でも、身分を考えれば仕方なさそうですよね」

お金を目当てで近づいてくる人だっているだろうし。





「まぁ、あいつの場合は昔色々あったし。その上、神経質だから」

〝昔〟という言葉に引っ掛かり黙ると、社長が「で、元気だったか?」と視線をチラッと移すから答える。

「元気ではなさそうでした。顔色は悪かったし、機嫌というか性格も悪かったですし」
「じゃあいつも通りだな。顔色も機嫌も性格も中学からずっと悪いから問題なしだ」

笑って言う社長に、問題ありなんじゃないかな……と思いながらも、そうとは言わずにおく。

「……そうですか。ところで、社長の方は昨日、どうでした? 大学生に怒鳴り込み」

毎晩騒ぐ大学生に注意して欲しいっていう依頼だったはずだけど、上手くいったのだろうか。

聞くと「ああ」と社長が笑う。

「案外すんなりだったな。あれくらいのガキって聞き分け悪いから面倒くせーなって内心思ってたけど、なんて注意するか考えながらじっと見てたら勝手に震え出してさ。
〝もう少し静かに遊べるよな?〟ってひとこと言ったら深々と頭下げて謝られた」

「……その絵が浮かぶようです」
「まぁ、そんな感じで無事終了。依頼人にもすげー感謝されたし、相当びびってたからもう大学生もあの部屋じゃ騒がねーだろ」
「ですね」

ノートパソコンを開き、電源を入れる。
独特の起動音を立てたパソコンの液晶画面が明るくなり、仕事の始まりを教える。

「報告書、あとで下さいね」

仕事の実績はすべてホームページに載せている。

『うちみたいな小さな会社の場合、実績載せとかねーと誰も信頼しないからな。で、信頼されなきゃ仕事も入ってこない』

社長にそう言われ、なるほど……と思った。
たしかに、ネットで見つけた小さな会社に仕事を頼むのは怖い。仕事の内容的にも。

でも、これまでにたくさんの依頼をこなしている……となればお客さんも背中を押されるかもしれない。





そのため、依頼を受けた方には毎回、ホームページに記載していいかの確認をとっているのだけど、名前さえ伏せれば依頼内容はそのまま書いてくれて構わない……という人がほとんどだ。

ひとつの依頼を終えたら報告書を作ってもらい、それを私がホームページに掲載する。
入社以来、私の仕事のひとつだった。

「おはようございます」

パソコンが立ちあがったところで、吉井さんが入ってくる。

今日も眠そうな声に挨拶を返し、吉井さんにも昨日の仕事の報告書をお願いすると、少し嫌そうに口元を歪められた。

「どうかしました? 昨日も岡田さんと犬の散歩だったんですよね?」
「そうだけど……なんか、家に寄ってけってすごくしつこくて、断るのが大変だったから」

げんなりとしながら椅子に座った吉井さんに、社長がおもしろそうに声をかける。

「やっぱり岡田さん、吉井狙いだったか。なーんか、そんな感じしたんだよなぁ」
「ってことで、俺もう岡田さんと会いたくありません」

呑気に楽しんでいた社長が、吉井さんの言葉に目を見開く。

「はぁ?! いや、ダメだろ。仕事なんだから」
「俺の仕事は犬の散歩です。それ以外のことを強要されるならそれはもう仕事じゃない」
「だったら……ほら、あれだ。お茶するなら三十分いくらだとかそういう話にすればいいだろ。
家事代行なら普段からやってんだし、その延長料金としてとれば……」

「そんなこと言ったら、そのうち俺あの人に食われますよ。お茶なんてOKしちゃったらどんどんエスカレートしていって、百万払うから一晩過ごせとかなりますもん。
だいたいあれでしょ。色恋含まれちゃったら風営法が面倒くさいって社長よく言ってるじゃないですか」

吉井さんの言葉にギクリと心臓が跳ねたけど……私の場合はセーフだ。たぶん。
だってお金の支払いは受けてないんだから。

無償でお互いが合意ならなんの問題もない……はず。






「なので、これ以上犬の散歩続けると、この会社が摘発されかねない事態に発展する恐れがあるので、もう行きません」

淡々と言い、パソコンのスイッチを入れる吉井さんに、社長は「それが無難かー……。あー、でもいい客だったのに」と、残念そうに言う。

「しかし百万って、おまえ、自分になかなかの値段つけるな。男のくせに」

「二十歳以上も上の人相手にするんですよ。年上が特に好きでもない俺にとってモチベーション保つのにどれだけの労力を必要とすると思ってるんですか。
そもそも、そういう行為自体面倒くさいと思ってる草食男子の俺には妥当です」

抑揚のない声で言い切った吉井さんが「そもそもやりませんけど」と言い、小さくため息を落とす。

美男子だと、お客さんに言い寄られたりしちゃうんだなぁと、少し可哀想に思いながら見ていると、吉井さんと目が合った。

「ところで佐和さんは、昨日どうだった? 久遠財閥の御曹司の健康診断」

健康診断……といえばそうなのか、と苦笑いをこぼしながら口を開く。

「社長に聞いていた通りの美形でしたよ。ただ性格が悪かったですけど」
「へぇ。やっぱりある程度お金がある人って性格ひん曲がっちゃうもんなのかな。岡田さんもだけど、お金でどうにでもなると思ってそう」

パソコンが立ち上がるのを待つ間に、今度はタブレットをいじりだした吉井さんがチラッと私に視線を向けた。

「久遠さんみたいな人こそ、お金で女買ったりしそうだよね」
「え……っ」

昨日のことを言い当てられたのかと思い、驚き声をもらした私に、吉井さんが表情を変えずに続ける。