眠れぬ王子の恋する場所



〝御曹司〟なんて社長は言ってたけど、久遠さんのしていることは割と現場的に思える。

〝社長〟って単語から、高そうな椅子にふんぞり返って接待ばかり受けていそうなイメージを持つのは間違いかもしれない。

考えてみればうちの社長だってフットワーク軽く動き回っているし、実際の御曹司だって地に足をつけた仕事をしているのかもしれない。

久遠さんは態度こそ自分勝手な部分があるけれど、言うことも割としっかりしているし。

『金が絡んで狂うのは、俺の母親に限ったことじゃない』

そういえば、あれは久遠さんのお母さん以外にもそういう人が身近にいたってことなんだろうか。

そういう人をもっと知っているような物言いだったなぁと思い、久遠さんの周りにはそんなにもたくさん、お金目当ての人がいたのかな、と胸が苦しくなっていたとき。

久遠さんが頭にかぶったタオルで髪をガシガシと拭きながらリビングに戻ってくる。

白いTシャツに紺色のジャージという寝間着姿と濡れ髪に、心臓が跳ね上がるから慌てて抑えつけた。

なんだかやたらと色っぽく見えてしまって、目を逸らしながら言う。

「久遠さん、髪、ドライヤーで乾かさないと風邪ぶり返しちゃいますよ」

洗面所には、ナノイオンの発生するタイプのいいドライヤーが置いてあったのに、なんでしっかり乾かしてこないんだろう。

使わせてもらったけど、風量もすごかったし、あれならすぐ乾かせるのに。
そう思い注意すると、久遠さんは面倒くさそうな声を出す。




「放っておけば乾く」
「……まぁ、いつかは乾くでしょうけど」

まさかそれを待つつもりなのか……と呆れ、洗面所に向かう。

男性ならドライヤーなんて使わないのかもしれないけど、つい先日熱を出したばかりなんだからもう少し気を遣ってほしい。

洗面所の鏡の裏の棚からワインレッドの色をしたドライヤーを持ってきて、リビングのコンセントに挿す。

それから「久遠さん。ここ」と床をトントン叩いて呼ぶと、一瞬、嫌そうな顔をされたけれど諦めたのか、私の前に背中を向けて胡坐をかいた。

「面倒くせー」
「面倒くさいのは私です。久遠さん、座ってるだけじゃないですか」

立膝になり、ブオーッと勢いよく出る温風を、髪にあて乾かしていく。

私のよりも少し太くてサラサラとしている髪に手を差し込み、少量ずつすくいドライヤーをあてる。

久遠さんは、うなだれるように背中を丸めて、大人しくしていた。

普段、ツンツンしているくせに私が何かを言えば文句を言いながらもその通りにしてくれる。
嫌そうな顔はするのに、本気で抵抗はしない。

最初に感じていた壁みたいなものも、今はだいぶ薄くなった気がする。

なんだか、懐かないって有名な猫を手懐けた気分だなぁ……と、ドライヤーの温風に吹かれている久遠さんの黒髪を見ながら、ふふっと笑みがもれた。




***


「……あの。落ち着かないんですけど」

ドライヤーを済ませ、そろそろ寝るかという話になったのはいいけれど。

ベッドはひとつしかないし、当然ながら一緒に眠ることになった。

もう二回関係を持っているとは言え、やっぱり緊張はするもので、ドキドキと八割の不安と二割の期待を抱きながら久遠さんに背中を向けて横になっていると、もぞもぞと動く手に抱き締められた。

性的とか、そういう意味合いの籠ったものじゃなくて、ただ暖をとるためだとかいう感じに近い。

私を後ろから抱き締めると、久遠さんは私の肩のあたりにおでこをつけ、そこで動きを止めた。
どうやらこの体勢で寝るらしい……と判断して〝落ち着かない〟と抗議すると少ししてから答えが返ってきた。

「へぇ」

……返事になっていない。

それほど遠回しではなく、やめてほしいと伝えたつもりだったけれど、ちっともわかってもらえなかったらしい。

それとも、わかってて『へぇ』なのか。

真っ暗の部屋には、レースのカーテン越しに月の明かりが入り込んできていた。

私が使っているものよりもずっと弾力のあるベッドは、まるで新品みたいにふかふかだった。

久遠さんがこのベッドを買ってからどれくらい経つのかはわからない。
眠れない久遠さんが、どんな気持ちでこのベッドを買ったのかも、わからない。

きっと苦しいはずなのに弱音を吐かない久遠さんを想うと、どうしょうもなく泣きたくなるから、そっと目を閉じた。

背中越しに聞こえてくる、久遠さんの心臓の音。
規則的に上下する胸。

しがみついているんだか、包み込んでいるんだかよくわからない腕。

私よりも、少し低い体温。

そういうもの全部を守ってあげたいと思うこの気持ちは、もう、どんなに違うと否定したところで、ただの世話焼きって性格だけじゃ収まらない気がした。











◇無気力なアドバイス






隆一に一度裏切られたからといって、もう二度と恋なんかしないと誓ったわけじゃない。

それでも、今はまだ他人を信じるのは怖いと思ってしまうのは仕方ないことなんだろう。

だってまだ、別れて半年ちょっとしか経っていないんだから、踏み出すのが怖くても当たり前だ。
あんな衝撃的な元彼、当然はじめてだったし。

だから……久遠さんへのこの気持ちを、まだ恋だと決めるのは怖い。


そんな風に、自分の淡い恋心を持て余しながら、久遠さんと同じベッドで眠った翌々日の月曜日。

吉井さんと石坂さん、そして私がオフィスに揃い、しばらく経ったところで社長が思い出したように話しかけてきた。

午前十時。
隣に座る石坂さんの香水が少々キツくて、向かいの席の吉井さんはわかりやすく嫌な顔をしてタブレット端末に視線を落としていた。

「佐和、久遠から聞いたけど、おまえのアパートでボヤ騒ぎがあったらしいな」
「え……っ」

土曜日から久遠さんのところでお世話になっているから、アパートの状況は知らない。

私が部屋を空けている間に本当にそんな騒ぎがあったのかと心配になっていると社長が続ける。

「煤がひどいとかで、一時的に住めなくなったんだろ? だから久遠が部屋貸してるって言ってたけど、大変だったなぁ。騒ぎがあったとき、部屋にはいなかったのか?」

社長の話に、ああなるほど……と納得する。
これはきっと、久遠さんが気を利かせてくれたんだ。私がアパートにいないことを不思議に思われないようにって。

吉井さんたちは気付かないにしても、社長は私の部屋を知ってるし、なにかあったとき、そこにいなかったらおかしい。
一応、社員である以上、正式な住所を社長に知らせておく義務だってある。

だから、私が別の場所で暮らしているってことを伝えてくれたんだろう。





「あー……いえ。私は外出してたので、全然知らなくて」
「それならよかったよ。ボヤって言ったって煙とかすげーんだろうし。……ああ、そっか。ボヤがあったの金曜の午後って言ってたから、おまえが久遠とこに行ってる間にそうなったのか」

「あ、そうなんです。それで……そう、大家さんから電話がきて、その電話の内容を聞いてたから久遠さんが部屋を貸してくれるって言ってくれて。
今、一時的に久遠さんのところでお世話になって……」

しどろもどろになりながらも答えていると、それまで普通に話していた社長が「久遠のところって……は?! もしかして久遠の自宅で一緒に……?」なんて驚いた顔で言い出すから慌てて否定する。

「違いますっ。その、便宜を計って頂いてるっていうか……」

社長に吉井さんに石坂さん。

三人の視線を集めながら堂々と嘘をつくことが心苦しく感じて、ふわっとしたことしか言えずにいると、じーっと黙って見ていた吉井さんが聞く。

「つまり、久遠財閥が経営しているホテルの部屋を貸してもらってるってこと?」
「あ、はい。そうです」

まるで救いのように感じ、ふたつ返事でうなづく。それから、こっそりと胸を撫で下ろした。

久遠財閥はいくつもホテルを持っているし、部屋を貸してもらっているといっても不自然じゃない。

社長と吉井さんの視線はまだ私に留まったままだけど、石坂さんは飽きたのか、手鏡片手にメイク直しを始めていた。

もとから充分すぎるほど盛られているマスカラが、また付け足される。

「ちょっとホテル名は忘れちゃったんですけど、久遠さんが用意してくれて助かりました」

そう笑顔で言うと、吉井さんは「へぇ」と、珍しく感心したような声を出した。




「久遠財閥の持つホテルって予約以外受け付けない高級ホテルばっかなのに。やっぱり御曹司ってなると色々話が通るんだね。
そういう、特別な客が飛び込みで泊まれるように何部屋か常にキープしてるのかな」

「……そうかもしれないですね」

あまり推理されると、嘘がバレそうでハラハラしてしまう。

そのうちに、手元のタブレットで色々調べられてしまいそうで、どうしようかと考えていたとき、社長が「まぁ、そうだよな。ホテルだよなぁ」と陽気な声で話し出す。

「いや、久遠がやたらと佐和のこと気に入ってるから、もしかしてとは思ったんだけど。さすがに自宅に住まわせるなんてことはしないよな。
久遠には他人と同居なんてレベルが高すぎだし」

明るく笑う社長に、その通りなだけに、はは……と乾いた笑みがこぼれる。

でも、社長の言う通りだ。
久遠さんにとっては他人との同居なんて、ありえないことだと思ってたんだけど……。

ただの気まぐれだろうか……と考え、そういえばと思い出して、社長に視線を移した。

「社長、ところで久遠さんってどうして自宅に戻ったんですか?」

最初は、風邪を引いたってことだったし、静養のためかとも思った。

錠剤に抵抗があるって話だったから、久遠さんが飲める粉薬とかが自宅に置いてあるからなのかなって。

でも、久遠さんの様子を見る限り、そういうわけでもなさそうだった。
看病に行く前にもし薬を飲んでいたら、私が持って行ったドリンク剤を飲まないだろうし。

だとしたら、自宅に戻った理由はなんだろう。

不思議に思っていると、社長も「俺も珍しいとは思ってたんだよなぁ」と首を傾げた。





「でも、自宅をずっと留守にして放っておいても心配だろ。あまり深い意味はないんじゃねーの」
「まぁ……そうですかね」
「それに、金持ちのすることってわかんねーし」
「……そうですね」

ガシガシと後ろ頭をかく社長に、まぁ、そんなものかもしれないと納得する。

久遠さんの考えていることはあまりよくわからないし、私が頭を悩ませていても仕方ないのかもしれない。

「私、見回りの仕事があるから出ますねー。お昼外で済ませてから戻りますのでー。じゃ、いってきまーす」

カタン、と席を立った石坂さんが、ひらひらと手を振りながらドアに向かって歩いて行く。

「あ、いってらっしゃい」と慌てて言うと、社長も「おー。頼むわー」と続いた。

バタンとドアが閉まるのを見てから「見回りの仕事って?」と社長に聞く。

最近、久遠さんのところに行ってばかりだからか、知らない仕事内容だった。

「あー、まぁ、駅の周りとかを適当に」

煙草に火をつけた社長が、椅子の背もたれに背中を預けながら答えるから、首を傾げる。

「駅の周りを適当にって……依頼主は地元の自治会とかですか?」
「まぁ、そんなとこだな。ほら、治安とかそういう感じで」
「……やけにふわふわした仕事の内容ですね」

治安っていうなら、石坂さんが見回るよりも社長が見回った方が絶対にいい。

そもそも、見回りを女性ひとりでってどうなんだろう……。
例え、なにか見かけたとしたって注意できないだろうし、ひとりで注意するのも危険だ。

そんな風に疑問を抱いていると、吉井さんがタブレットをいじりながら教えてくれる。

「あの人の任せられる仕事って、そんな感じのばっかだよ。してもしなくてもいいような仕事っていうか、誰が依頼してきたんだか不思議になるようなヤツばっか。見回り系とか通行人調査とか」

「へぇ……そうなんですか」
「佐和さんの抜けた穴を補填するために雇ったはずなのに、仕事らしい仕事させないし。まぁ、どういう事情があるのか知らないけど」

チラッと社長を見る吉井さんに、私も同じように視線を移すと、苦笑いを浮かべる社長と目が合った。





「そう、やたらと鋭く勘ぐるなって。俺にも言えることと言えないことがあるんだよ」
「それ、なにか事情があるって言ってるようなもんですよ」

白けた眼差しで言った吉井さんが、タブレットに視線を戻しながら「それに」と続ける。

「石坂さんも様子おかしいよね。久遠財閥の御曹司の話してるのに、話に強引に入ってこないところも、テンション上げないのもおかしい」

「そういえば……そうですね」

前、ちょろっと久遠さんの名前を出しただけですごい食いつきを見せてたのに、今日はあれだけ話していてもまったくだった。

なにか事情でもあるんだろうか……。

社長に視線を移すと、社長はただ黙りなにかを考えているようだった。

口には出さないけど、そんな社長は珍しい。

「勤務時間中にホストクラブでも行ってなきゃいいけど」と、吉井さんが投げやりに言う。

「ホスト……ああ、そういえばホストクラブ通いが趣味なんでしたっけ」

最初の頃、そんな話をした記憶がある。
男の人を騙して遊んで、その上、ホストクラブ通いなんて……よっぽど男の人にちやほやされるのが好きなんだろうか。

それとも、気に入ったホストとなかなかうまくいかないから、一般男性を手玉にとって遊んで鬱憤を晴らしているんだろうか。

……どちらにしても、あまりいい趣味には思えないけれど。

でも……本当に、どうして急に久遠さんへの感心がなくなったんだろう。

「あの人、絶対貢癖あるし、そのうち問題起こしそう」

どうでもよさそうに言う吉井さんに「さすがにそれは……」と苦笑いを返す。

なんとなく漠然とした胸騒ぎを感じながら、石坂さんのデスクを見つめた。