何も考えずにしばらく緑あふれる庭園を眺めてから、ふらりとエレベーターホールに向かって歩きだす。
着いたエレベーターに乗り込み、21の数字を押すと、ゴウン……と静かな音を立てて動き出した。
外から遮断されたひとりきりの空間に、気がつけば涙が流れていた。
ポタポタと涙が床に落ちる。
こんな高級マンション、たとえ床でも汚すのは申し訳ないとも思うのに……止められなかった。
別に、隆一に気持ちが残っていたわけじゃないのに、なんでこんなにも悲しいんだろう。
なんで……過去のことでこんなに泣いてるんだろう。
隆一だって謝ってくれたしそれで終わりでいい。
今まで逃げていた問題は、きちんと解決できたし、私にとってこれでよかったと思うのに……涙が止まらない。
ポーン……と静かな音を立ててエレベーターの扉が開く。
その音に、涙を拭っていると「……遅い」と覇気のない声が聞こえてきて、驚く。
顔を上げれば、エレベーターの外に眉を寄せた久遠さんが立ってこちらを見ていた。
「……どうしたんですか?」
ズ……と鼻をすすりながら聞くと、「どう考えても、それは俺の台詞だろ」と返される。
眉間にシワは寄っているけれど、怒っているようには見えなかった。
困っているような、気を遣われているような、そんな顔だ。
「依頼もしてないのに、こんな時間に俺のとこにくるなんておかしいだろ。……誰だって、なんかあったって心配くらいする」
どういう顔をすればいいのかわからないのか、バツが悪そうに後ろ髪をかく様子に、また涙が溢れてくる。
ポロポロと涙を流す私を見て、久遠さんは珍しくわずかに焦ったような表情を浮かべた。
「心配して……あんなたくさんの鍵かけて、ここで待っててくれたんですか……」
うつむいて両手で顔を覆うと、しばらくしたあと、腕を掴まれやや強引にエレベーターの外に連れ出される。
うしろで、扉が閉まるのが音でわかった。
「鍵はひとつしかかけてない。あれ全部かけんのは、俺が部屋にいるときだけだ」
ああ、そうか……と頭の隅っこで納得する。
久遠さんは自分が部屋にいるときに誰かが入り込むってことが怖いだけで、外出しているときはそこまで心配性ではないんだろう。
むしろ、執着とか固執とかしなそうだし、外出時の鍵とか案外気にしなそうにさえ思える。
私の腕を掴んだまま前を歩く久遠さんの背中を眺めながら、ぼんやりそんなことを考える。
でも、そのうちにまた気持ちが沈んでいき……何も考えられなくなったところで、久遠さんが立ち止まった。
鍵を開けるとすぐに中に入る。そして、鍵をひとつひとつかけ、ドアガードをしたところで私と向かい合う。
無表情な瞳が真っ直ぐに私を見つめ……冷たい指先が私の頬をなでた。
「こういうとき、どうすればいいかが俺にはわからない」
そういえば、以前ホテルの部屋で私が泣いたときもそんなことを言っていたのを思い出す。
なぐさめ方がわからなくて、だから社長にホテルのサービス券を渡していたっけと。
「どうすればいい?」
涙のあとをなぞるように優しく頬を撫でる手に、そっと上から触れる。
冷たい手に頬をすり寄せ、久遠さんをじっと見つめた。
シン……としている部屋。涼しく冷えた空気が、久遠さんの体温みたいだった。
「慰めてください。対価が必要なら――」
「いらない」
即答した久遠さんが、少し迷った素振りを見せてからそっと私を抱き締める。
ぎゅっと抱き締めてくれる腕は、想像していたよりも温かくてじわりと目の奥が熱を持った。
久遠さんの肩におでこを寄せ、背中に腕を回す。
しばらくそうしていると、久遠さんが話し始める。
「いつも、しっかりしてて世話焼きなくせに、たまにボロボロ泣くからどうすればいいのかわからなくて困る」
大事だとでも言わんばかりに抱きすくめられ、再度「おまえに泣かれると、困る」と告げられる。
その声と言葉に、胸がきゅうっと締め付けられた。
困っているのに〝迷惑だ〟って突き放さない優しさが嬉しかった。
きっと面倒なはずなのに、腕を緩めない久遠さんが嬉しかった。
久遠さんの身体から聞こえてくる心臓の音に耳を澄ませると、気持ちが落ち着いていくのがわかった。
ここに来るまでバラバラに散らかっていた気持ちが、ようやく整理され始める。
隆一とのことが、しっかりと過去と名前のついた箱にしまわれる。
すぅ……と深呼吸をひとつしてから、ゆっくりと口を開いた。
「さっき、元彼と話をしてきたんです。お金をとったのが元彼かどうかを、確認してきました」
掠れた声で話す私に、久遠さんは「……ふぅん」と相槌を打つ。
ぶっきらぼうに聞こえるけれど、冷たい声ではなかった。
「逃げたままだって、前、久遠さんに言われたから……きちんと向き合ってきました。このままじゃ、過去から逃げていない久遠さんと顔を合わせられないと思ったから……」
久遠さんを抱き締める腕に、ギュッと力を込める。
「ひとつ、吹っ切れました。ありがとうございました」と言ってから「迷惑かけてすみません」と謝ると。
しばらくしたあと、久遠さんが答える。
「迷惑だと思ったら、インターホン鳴らされたところで無視してる」
腕が緩み、見上げようとしたところで、覗きこまれるようにして唇が塞がれる。
ふわりと舞うような優しいキスに、やっと収まった涙が浮かんだことに気付き、そっと目を閉じた。
ぶっきらぼうな優しさが、たまらなく嬉しかった。
キスを受け入れながら、私は久遠さんが好きなのかもしれないとぼんやりと考える。
でも……裏切られるかもしれない、という不安にすぐに襲われ、そんな気持ちから目を逸らした。
まだ、誰かを信じるのは怖い。
◇転がる想い
私が落ち着いたのを見計らった頃、久遠さんは「コーヒーでも淹れてやる」と言い、私に部屋にあがるようにうながした。
家事なんかなにひとつできなそうな久遠さんがコーヒー……?と、まさか、と疑いながらソファで待っていると、意外にもきちんとしたコーヒーが運ばれてきて目を丸くしてしまった。
白いカップからは、香ばしい匂いが白い湯気とともに立ち上がっていて、その香りにホッとする。
隣にドカッと座った久遠さんが「砂糖とかミルクがいるなら勝手に持ってこい」と言うから「大丈夫です」と答えた。
私とはいえ、客人にそんなことを言う態度に、久遠さんらしいなぁとふっと笑みがこぼれる。
久遠さんの隣は、安心する。遠慮のない態度は、嘘をついていないってわかるから、とても心地いい。
だから、無性に会いたくなったんだろうか。
「コーヒーなんて淹れられたんですね……」
「ひとり暮らししてればそれなりにできる」
ズ……とコーヒーを口にする久遠さんに、「いただきます」と言ってからカップに手を伸ばす。
「そういえば、洗濯物とか溜まってないですよね。……まさか、洗濯機の使い方知ってるんですか?」
あまり家に帰ってきていないって話だし当たり前かもしれないけど、看病のためにここにきた時、服どころかタオルもなにも溜まっていなかったなぁと思い聞く。
久遠さんは片手で持っていたカップをテーブルに置きながら「当たり前だろ」と答えた。
「風呂入る前に洗濯機回して、夜の間に浴室乾燥にかけて、必要ならアイロンもかけてる」
「……ちょっと見くびってました。すみません」
てっきり、吉井さん同様、本当に何もできないタイプかと思ってたけど、食べるものとかの健康面以外は意外としっかりしているのかもしれない。
そう思い謝ると、久遠さんは背もたれに背中を預けながら「時間だけはすげーあるからな」とポツリと言った。
その声の響きに、胸を揺さぶられる。
眠れない夜をどれだけひとりで超えてきたのだろう……と考え、切なさでいっぱいになっていると、久遠さんが視線を私に移す。
相変わらず無表情な瞳にドキリと胸を跳ねさせた私に「さっきの話」と久遠さんが話し出した。
「やっぱり、金盗んだのが元彼だったって話。結局、どうまとまったんだ?」
「……え。ああ、えっと」
泣きながらだったし、なにをどこまで話したのかがわからない。
だから、適当にかいつまみながら隆一とのことを説明すると、久遠さんは〝おまえ、馬鹿じゃねーの〟とでも言いたそうな顔をした。
「おまえ、馬鹿じゃねーの」
あ。当たってた。と思いながら「まぁ……結局お金返してもらってないし、否定はできませんけど」とぼそぼそ答えると「そうじゃねーよ」とすぐさま返される。
「そいつ、部屋まで金持ってくって言ってたんだろ?」
「そうですけど……問題ありますか?」
『真琴っ、お金は少しずつでも返すから! 真琴の部屋に持って行くから、必ず……っ』
隆一はたしかにそう言っていた。
ギャンブルにはまって元カノの部屋からお金を盗むような人だし、実際に返してくれるかはわからないけれど。
「そんな危ないヤツが部屋まできて、おまえひとりで対応する気か?」
呆れたような顔で聞く久遠さんに、ああ、心配してくれたのか、と思いながら笑顔で答える。
「大丈夫ですよ。隆一は、お金を盗りはしましたけど暴力をふるう人じゃなかったですし」
「そう言いきれるかわかんねーだろ。金が絡むと人間は変わるし、盗みを働くようなヤツが逆上して殴りかかってこないとは限らない」
はっきりと言われ、言葉を呑む。
たしかに、最初は隆一がまさかお金を盗むような人だとも思っていなかったんだし……暴力をふるわないとは言い切れないのかもしれない。
「でも……たぶん、お金が用意できなかったら、部屋にきて殴りかかるんじゃなくて、約束を無視して部屋にはこない可能性の方が――」
「それに、おまえがあまり甘い顔してれば利用される可能性だってある」
「利用?」
「女は稼ごうと思えば男よりも稼げる。借金の返済が近づいて手元に金がなかったからっておまえの金に手を伸ばすヤツだろ。
本当に追い詰められたら、なにをするかわからない」
隆一がそこまでするとは思えない。
私を売り飛ばすようなことはしないはずだ。
でも……久遠さんの言うことを完全には否定できなくて、なにも言い返せなかった。
過去の、優しい隆一を信じちゃダメだ。
私の部屋からお金を盗んだ隆一を、それをとぼけて済ませようとした隆一を、再び信じちゃダメなんだ。
自分のためにも、しっかりと警戒しておかないとダメだ。
そう思い、ぐっと唇を引き結んでいると久遠さんが唐突に話し出す。
「俺の母親。離婚したとき、父親から膨大な金を渡されたはずなのに、その一年後、俺の前に現れた。母親が俺をなんとも思っていないのは態度からわかってたし、なんか裏があっての行動だっていうのはすぐわかった。
どうせ、俺を人質に、父親をゆするつもりだったんだろ」
「えっ」
「収入が減っても、それまでの生活水準を下げられなくて金に溺れるヤツは珍しくないみたいだし。
結局、母親は父親が俺につけてたボディガードに止められて、二度と俺に近づかないって誓約書書かされてそれっきりだけど」
突然の久遠さんの昔話に「なんで急にそんなヘビーな話するんですか……」と困ってしまうと、真面目な眼差しを向けられる。
「別に、困らそうと思って言ったんじゃない。金が絡むと怖いっていう、ひとつの例だ。おまえがあまりに呑気に構えてるから」
私に危機感を持たせるために、自分の話をしてくれたのか……とハッとする。
久遠さんからしたら、きっとあまり話したいことではないはずなのに、わざわざ……。
「金が絡んで狂うのは、俺の母親に限ったことじゃない」
しっかりとした声に、うなづいた。
「そうですね……。ちゃんと気を付けます。とりあえず、鍵は新しくしてあるから問題ないですし、基本的にインターホンが鳴っても出ないように――」
「ここに越してくれば」
遮って言われた言葉に、思わず「え?」と声が漏れていた。
キョトンとしてしまった私に、久遠さんはなんでもない話でもするように続ける。
「ここなら、三ノ宮の会社まで遠くないだろ。それに金もかからないし」
突然の提案をされて、どうにか理解しようと頭を巡らせる。
『ここに越してくれば』って……久遠さんはどういうつもりで言っているんだろうと、頭のなかがフル回転だった。
「え……あ、もしかして久遠さん、ホテル暮らしに戻るんですか? その間、ここを借りてもいいとかそういう……」
「いや、俺もしばらくここに住むけど。広さなら、ふたりで住んでも問題ないだろ」
「まぁ……それはそうですけど……」
広さなら充分すぎるほどだ。
でも、広さも会社までの距離も、最初から問題視していない。
そんなことよりも――。
「なにか問題でもあるか?」
私が納得いかない顔をしていたからだろう。不思議そうに聞かれ「だって」と口を開いた。
「久遠さん、他人と暮らすなんて無理じゃないですか?」
なにを思って同居を提案してきたのかはわからない。
でも、あんな鍵をガッチガチにかけても安心できない久遠さんが、他人と一緒に暮らせるとは思えない。
だから言うと、久遠さんは私をじっと見てわずかに顔をしかめた。
「他人とは無理だけど……おまえだから言ってるんだろ?」
〝なに言ってんだ?〟って感じの態度で言われ思わず黙る。
私だからって……。
「私なら、一緒に住んでも大丈夫なんですか……? その、気持ち的に。息苦しくなったり、いつもしているうたた寝もできなくなったりとかしませんか?」
久遠さんはいつか、他人の気配がダメだって言っていた。
今までは、一緒にいたって半日くらいだったし、仕事っていう名目があったから、私の存在を久遠さんも気にしていないのかなって思っていたけど、一緒に住むってなったら全然違う。
私生活を同じ空間でするなんて、久遠さんにとっては苦痛でしかないんじゃないだろうか。
社長も吉井さんも、いくら恋人だとしても長時間一緒にはいたくないって言うくらいだし、久遠さんなんてもっとそういうところに敏感そうだ。
でも、私のそんな心配を、久遠さんは〝馬鹿馬鹿しい〟とでも言いたそうな顔で否定した。