眠れぬ王子の恋する場所



『咳き込みながら『ふざけんな、このばばぁ』って睨んだら殴られた』

『今思うとあいつ、結構やばかった。なんで結婚したのかわかんねーけど、親父が離婚したおかげで縁が切れてよかった』

蘇るのは、久遠さんがわずかな笑みと共に言った言葉。

久遠さんがあんなに落ち着いて過去の痛みを言葉にできたのは、過去から逃げていないからだ。

頑張ってきた自分をわかってるから。認めてるから。
しっかりと、向き合っているから。

じゃあ、私は……?と考え、歯をギュッとかみしめる。

逃げたままの自分を知っているから、久遠さんに少しつつかれただけで怒鳴って泣いてしまったけど……あのままでいいの?

もう終わったことだし、今さら蒸し返したって自分が苦しいだけかもしれない。
いい結果に転ぶとも思えない。

でも……私はこのままじゃ、久遠さんに堂々と顔向けできない気がする。

私自身が逃げ出したままなのに、どんな顔して久遠さんを支えたいなんて言うの?

『そうやって今までずっと逃げてきたわけか』

いつか、久遠さんに言われた言葉が頭のなかに浮かび……唇にキュッと力を込めた。










◇涙に、キス







逃げ続けるってことは、結局その出来事に捕らわれ続けるってことだ。

向き合って精算しなければ、いつまで経ってもそれは膿みたいに残ってしまうものなのかもしれない。

きちんと……あのお金を盗んだのが誰なのか、元彼じゃないのかを確認しないと、私は前に進めない。


社長に江崎隆一の居場所を教えて欲しいとお願いしたら、一瞬、驚いた顔をされたあとニヤリと嫌な笑みを浮かべられた。

私の話の持ち出し方からなのか、雰囲気からなのか、隆一が元彼だとすぐにわかったらしい。

「久遠のことで世話になってるし、調べてついでに俺がしめてきてやろうか」という物騒な提案を断り、住所と勤め先だけ教えてもらうと、そこには知っている会社名が書かれていた。

私が辞めたあとも、同じ会社で働いているらしい。
私を追い出して、おそらくお金まで盗んだくせに今も自分はそこでノウノウと働いているのか……。

会社を辞める間際、周りから浴びせられた視線だとか、隆一が私の悪い噂を言い広めている姿とか……そういったものが頭をよぎる。

ムカムカジクジクと苛立ったり痛んだりを繰り返す胸に、やっぱり私は隆一とのことをきっちり解消できていないんだということを自覚する。

もう顔も見たくないからと胸の奥の箱にしまっていたけれど、犯人をはっきりさせるのが怖くて見ないふりをしてきたけど。

いつまで経ってもその箱は私のなかで主張し続けていた。

正直、そんなの邪魔でしかない。

――だから。









土曜日の朝九時。
社長に教えてもらった住所にはひとつのアパートが建っていた。

私が住んでいるアパートよりも立派な建物を前に、こういうところに住んでたのかと思いながら敷地内に足を踏み入れた。

付き合っていた間、隆一が私の部屋にくることはあっても逆はなかった。

『ごめん。散らかってるんだ』『また今度招かせてよ』なんて言ってたけど、もしかしたら嘘だったのかもしれない。
ただ単に、ここに来られたくなかっただけかもしれない。

またひとつジクリと痛んだ胸の前で手をギュッと握りしめながら、一階、一番手前の部屋のインターホンを押す。

寝起きが悪い隆一のことだ。
どうせ一度や二度インターホンを押したところで起きないだろうと判断し、最初から連打する。

『んー……ごめん。目が開かない』
一緒に夜を過ごした翌朝は、いつも、午前中はそんなことをむにゃむにゃ言ってなかなかベッドから下りなかった。

そんな隆一からしたら、土曜日の朝からこんな連打されたら結構な嫌がらせに思うだろうなぁと思いながらも指を動かしていると、そのうちに中からガタガタと音がし、勢いよく玄関が開けられた。

「もー……誰……休みの朝からうるさ……」

白いTシャツに黒いスウェット姿の隆一が、私を見るなり言葉を止める。

黒い髪は右眉の上で分けられ、そのまま左に流されている。人のよさそうな目尻の下がった瞳が、私を見て大きく開き……その瞳に過去の私と隆一が見えるようだった。

初めて職場の飲み会で話したとき、この、いかにも優しそうな瞳を細めてにこにこしていたなぁと懐かしくなった。

右目の近くにある泣きボクロを眺めながら、隆一とのことを思い出す。




会社全体で行われた飲み会で初めて話したとき、なんて優しくて穏やかな人なんだろうと思った。

当時、職場の課長に毎日グチグチと言われていた私の愚痴を、隆一は微笑みながら聞いてくれた。

『そういうこと言うんだよね。あの課長は。誰にでもそうだから気にしない方がいいとは思うけど……言われてる佐和さんは、そういうわけにもいかないよね。でも、気持ち、わかるよ』

気を遣ったような言葉と笑みに、救われた気持ちになったのを、今でもよく覚えている。

『……いえ。すみません。せっかくの席でこんな話をしてしまって』と謝った私に、隆一は『気にしなくていいよ。佐和さんの気持ちが少しでも楽になったなら俺も嬉しいし』とにっこりと表情を緩めた。

それから、社内で顔を合わせると話すようになり、初めての会話から三ヵ月が経ったころ、隆一から告白されうなづいた。

隆一は、私の前でも社内でも、とても誠実な態度をとっていて……だからだろう。私を悪く言う隆一の言葉を誰も疑うことはしなかった。

隆一が私の悪口を言い広めているのを自分の目で見るまで、私だって信じられなかったほどだ。

どうしても、隆一が私に見せる態度と合致しなくて、その光景を目の当たりにしたあとも、しばらく頭のなかが整理できなかった。

だって、隆一は私に本当に優しかったから。

お金を貸して欲しいと言われて断ったあとだって、『いや、真琴が正しいよ。ごめん。彼女の真琴にこんな話持ち出して』と申し訳なさそうに謝っていたくらいだ。

自分の思い通りにいかないからって声を荒げたり、機嫌を損ねたりしない人だった。

結局、別れ話もせずに終わってしまった関係だったなぁと思いながら見ていると、隆一はハッとし慌てたように笑顔を取り繕う。

その、紳士的な雰囲気漂う笑みを見つめた。





「真琴……どうしたの? 久しぶりだね」
「……久しぶり」

閑静な住宅街の中に建つアパートは静かで、時折通る車の走行音しか聞こえない。

「急に仕事を辞めたって聞いて驚いたよ。連絡も取れないし……でも、無事で安心した」

隆一は、自分が私の悪い噂を言いふらしていたってことが私にバレているとは気付いていないんだろう。

白々しい言葉に呆れて笑いそうになりながらも「そう」とだけ返した。

会社を辞めたと同時に、隆一の番号を着信拒否にはした。
でも、引っ越しはしていないし、本当に心配していたなら会いにくることはできたハズだ。

口先だけで優しい言葉を並べる隆一を前に、きっと出逢ってからずっとそうだったんだろうなと思った。

私に向けた優しさ全部が、本心からではなかったんだろう。

隆一は、いつも温和な態度だから見抜けなかったし……正直、今でも隆一に裏の顔があるなんて信じ切れてはいないけれど。

「実は、話があって」と切り出すと、隆一は「話?」とピクリと眉を動かし……それから、わずかに気まずそうに目尻を下げた。

「真琴……ごめん。正直に白状すると、真琴と連絡がとれない時間が続いたから俺は勝手に自然消滅したものだと思って……その、今、新しく付き合い始めた子が――」

「大丈夫。私ももう終わったと思ってるから。……私が退職届を出したときに。……ううん。もっと言えば、あることがあってから」

話を遮った私を、隆一が「あること……?」と、じっと見つめる。

不思議そうな顔を見上げながら口を開いた。

「私の部屋から、お金がなくなったの。私が退職届を出す少し前なんだけど……隆一、知ってる?」

〝知らない〟って言って欲しい。

できれば、違っていて欲しい。ちゃんと……隆一は私を想ってくれてたって思いたい。

探るように見つめる先で、隆一は表情を強張らせることなく、心配そうな色を浮かべる。




「え……いや、知らないけど……それって、泥棒に入られたってこと? 真琴は鉢合わせたりしていないんだよね?」

心から心配そうに言うこの態度が、本心からであればいい。

今さらだと思いながらも、そう願いうなづいた。

確信が近づいてくるのと同時に目を逸らしたくなったけれど……必死の思いで隆一を見上げた。

「私は犯人を見てない。ただ……一応、隆一に確認だけしておきたかっただけ。知らないんだよね?」

確認するように聞いた私に、隆一がうなづく。

「いや、俺は知らな――」
「なら、よかった。これで、心置きなく警察に被害届が出せる」

にこりと笑顔を作って見上げると、隆一の顔がわずかに強張った気がしたけど、気付かない振りをした。

なにかを感じ取った心臓が、ドッドと不穏な音を立てていた。

「警察に相談したら、合鍵を持っていて親しい人の可能性が高いって言われたの。隆一のはずないって思ったけど、魔が差したとか何かの間違いってこともあるかもしれないから、一応確認しておきたくて。
……話はそれだけ。ごめんね、突然」

隆一の顔色がじょじょに悪くなっていくのが見て取れた。

「じゃあね」と背中を向けると、すぐに「待って」と腕を掴まれ……ゆっくりと振り返ると、さっきまでの穏やかな仮面を脱いだ隆一がいて、ああ……と思う。

違えばいいと思ってた。
私の勘違いであって、泥棒は他にいたならいいって……。

私の悪い噂を立てたのにもきちんとした理由があって、付き合っていた期間は本当に私を想ってくれてたんだって……そう思いたかったのに。

眉を寄せ、情けないほどに表情を崩した隆一が「真琴、ごめん、俺……」と謝罪する。

私の腕をギュッと掴んだまま弁解の言葉を並べる隆一を、気持ちを遠くにしながら聞いていた。




「俺、ギャンブル依存がひどくて……最初は、仕事の息抜きで始めただけだった。でも、一度始めたら抜けられなくなっていって、そのうちに借金してまでするようになった。
真琴に貸して欲しいって言ったときも、返済日が迫って焦ってたからだった。……でも、すぐに後悔したよ。真琴がもしそれを社内で言いふらしたら困ると思って」

肩を落とし説明する隆一を、私はただ黙って見ていた。

隆一がギャンブル依存症だったなんて、聞いたのは初めてだった。

そんなことにハマるような人じゃないのに……と思ったけれど、私に見せていた部分が全部ではない。

隆一の中にそういう部分もあったってことなんだろう。

……でも。
お金を貸してほしいとお願いしたことを後悔したのは、私との関係が壊れるのを心配したからじゃなくて、あくまでも自分のためだったのか……。

隆一の言葉に、感情が、ひとつひとつ傷ついていく。
たくさん浮かんだシャボン玉がひとつひとつ割れていくみたいに。

「社内での俺のイメージをどうしても壊したくなかったんだ。だから……真琴が言いまわる前に、俺が……って。真琴の言い分なんて誰も信じられないくらいにしておけば、誰も俺を悪くは思わないだろうって」

「……勝手な言い分だね」

ぽつりと言葉にすると、隆一はツラそうに目元を歪める。

「本当に真琴の言う通りだ。ごめん……」

目を伏せ、苦しそうに眉を寄せる隆一が、どこまで本当なのかわからなかった。

今さら、もう信じたいと思う気持ちはなくて……ぼんやりと見ていることしかできない私に、隆一が続けた。




「真琴が会社を辞めたって聞いて……我に返った。謝ろうと思って真琴の部屋に行って、合鍵で入ったとき、魔が差して、それで……。本当に悪かったと思ってる。ごめん……っ」

「……そうだったんだ」
「俺、小さい頃から周りに完璧に思われたくて、そのためにいつも完璧を演じてた。社内ではエリートでいたかったし、彼氏としても完璧でいたかった。
でも、無理してたからか、どうしても捌け口が必要で……それで……ごめん」

ギリッと音が聞こえてきそうなほどに歯を食いしばる隆一を、可哀想だとは思えなかった。

説明を聞けばわからなくはない。
本人の言う通り、隆一はいつも完璧だった。社内での振る舞いも優しさも笑顔も……全部。

今言われてみれば、無理していない方がおかしいし、きっとたくさんの無理があったんだろう。

それはわかるけど……でも、もう遅い。全部が今更だ。

「ごめん……」

頭を下げた隆一をしばらく黙って見つめ……ゆっくりと口を開いた。

もう、隆一と話し合いたいことなんてなにひとつない。でも……ひとつだけ、伝えておきたいことならあった。

「私は、隆一のこと悪く言いまわろうなんて思ってなかったよ。だって……好きだったから。
だから、無理するのが苦しいって言ってほしかった。そしたら私も一緒に考えたのに……隆一が、私の前では頑張らなくてもすむようにって、考えたのに」

付き合っていた期間。隆一が私をどう想っていたのかは知らない。

いずれお金を借りるためにって思われていたのかもしれない。

それでも……私は、ちゃんと好きだった。

「……さよなら」

なんとか微笑み、それだけ言い、背中を向けた。

「真琴っ、お金は少しずつでも返すから! 真琴の部屋に持って行くから、必ず……っ」

そう、必死の声で言う隆一を振り返りはしなかった。