眠れぬ王子の恋する場所



「歌うとか話す? おまえ、今から寝るんだろ」

〝なに言ってんだ〟とでも言わんばかりの顔をされるから、「だから」とすぐ言葉を返す。

「寝る前にするような昔話とか、子守唄……いえ、やっぱりいいです。久遠さんにそんなことされても結局落ち着かない」

お伽話を枕元で話す久遠さんを想像して、そのあまりの不自然さに、ありえないとふるふる首を振る。

子守唄なんてもっとありえない。

もう、沈黙は諦めるしかない。こうなったら寝ちゃおう。
そう思い目を瞑っていると、「昔話……」とひとこと呟いた久遠さんが静かに話し始める。

「小さい頃……たぶん、幼稚園とかそれぐらいのとき。俺もおまえがひいてるみたいな、熱の風邪にかかった。
自分の心臓が信じられないくらいに速く動いてて、意識も朦朧としてくるし、ガキだったから怖くてビビったりしてた」

突然語られ始めたのは、久遠さんの昔話のようだった。

そっと目を開けて視線を移すと、目を伏せたままポツポツ話す久遠さんが映る。

その顔をじっと見つめて……ああ、そうかと思った。

〝昔話〟の意味を間違えているんだろう。私が言いたかったのは昔話は昔話でも〝お伽話〟のほうだったのに。

「そのうちに咳もひどくなって、そしたら母親が〝うるさい〟って怒鳴りこんできて、無理やり錠剤口に詰め込まれた。咳と熱でただでさえ呼吸が苦しかったのにそこにデカイ錠剤入れられて、死ぬかと思った」

途中までは、普通、ベッドに寝ている人間が〝昔話〟なんて言ったら〝お伽話〟だってわかるのに、なんで自分の昔話だと勘違いしてるんだろう……と呆れていたのに。

話された内容が衝撃的で、いつの間にか聞き入ってしまっていた。

久遠さんが、こんな風に自分の話をするのは珍しい。

「え……」と小さくもらした私に、久遠さんが無表情のまま続ける。





「俺が錠剤喉に詰まらせて咳き込んでるのを、母親はニヤニヤして見てた。それ以来、錠剤が飲めなくなったし、寝るのも怖くなった。
錠剤は口に入れただけで苦しくなって吐き出すし、ベッドに横になっても、寝てる間にまた薬詰め込まれる気がして……たぶん、そのへんがきっかけで不眠症なんだろうな」

抑揚のない声で告げられたことは、紛れもなく久遠さん自身の話なのに、久遠さんはまるで他人の話でもするみたいに淡々と話していた。

どうでもいいみたいに。……ちっとも、どうでもいい話なんかには思えないのに。

ああ……そうか。
もしかしたら久遠さんは、お母さんに子守唄を歌ってもらったことも、お伽話を話してもらったこともないのかもしれない。

だから、私が〝歌うなり話すなり〟って言ったとき、わからない顔をして『歌うとか話す? おまえ、今から寝るんだろ』なんて返したんだ。

「咳き込みながら『ふざけんな、このばばぁ』って睨んだら殴られた」
「えっ」

驚いて思わず声を上げた私に、久遠さんはわずかに笑った。

「今思うとあいつ、結構やばかった。なんで結婚したのかわかんねーけど、親父が離婚したおかげで縁が切れてよかった」
「……なんで、そんな悲しい話するんですか」

間違っても熱を出しているときに、ベッドで横になりながら聞く話じゃない。

そう思いげんなりとしていると、久遠さんは「おまえがしろって言ったんだろ。昔話」と文句みたいに言うから口を尖らせる。

「だってまさか自らの昔話を始めるなんて思わないし……」

ゆっくりと視線を上げた久遠さんと目が合う。

感情の浮かんでいないいつも通りの瞳をじっと見つめ……しばらくそうしたあと、口を開く。





「家庭内がそんなドロドロしてたなんて、久遠財閥のスキャンダルですよ。……でも、守秘義務があるから、黙っててあげます」

顧客の情報は、ペラペラと口外しない。これは会社の規則だ。

それにしても……と、目を閉じ、さっきの話を考えた。

私はこどもがいないし、母親の気持ちはわからないけど……あんなのはひどい。
久遠さんのお母さんは、自分のせいで久遠さんが二十年以上も苦しんでるって知ってるんだろうか。

「もし、私が久遠さんのお母さんだったら……。久遠さんが熱なんか出したら、心配でずっと枕元にいたのに。桃太郎だってなんだって、何回でも読んであげたのに。
……そしたら、久遠さん、不眠症になんてならなかったのに」

熱い呼吸を繰り返しながら、ぽつぽつと話す。

これが夢なんだか現実なんだか境がわからなくなってきていた。

「いい加減、寝ます。久遠さん、帰るならスペアキー……」

言い終わる前に、急に影が落ち……上半身だけ覆いかぶさるような体勢になった久遠さんにキスされる。

驚いて肩を揺らすと軽く触れた唇が離れ、また近づき優しく重なる。

「守秘義務があるんだろ。だったら、これも黙っとけよ」
「……移っても文句言わないでくださいね」

ああ、でも風邪を引いたら久遠さんも寝ざるをえなくなるのか……と考えていると、柔らかく唇を塞がれる。

目を閉じ、気持ちがふわふわと浮くようなキスを受け入れながら、守秘義務以前に、こんなの仕事じゃないと、熱に浮かされた頭で考えた。









◇お城の鍵











風邪が移っても文句は言わないでほしいと最初に言ったはずだし、そもそもキスしてきたのは久遠さんだ。
それに、キスが原因で風邪を引いたとも限らない。

それでも、〝依頼〟として頼まれてしまえば私に断る権利なんてものはなくて。

熱を出して寝込んだ翌々日。

オフィスに着くなり、社長に「お。佐和。久遠が熱出したから来いって」と言われたら、渡されたメモに書かれた住所に行くほかない。

「石坂が来るとうるさいから、今すぐ向かってくれるか? 石坂、久遠の依頼だって聞くと飛びついてくるから」

迷惑そうに言った社長の言葉に、思い当る節はあったから、言われたとおりすぐにオフィスを出た。

石坂さんと顔を合わせたら私自身も面倒だから、足早に駅に向かう。

朝の通勤時間。
駅から出てくる人の波を避けながら、駅構内に入り満員に近い電車に乗り込む。

ドア横にあるポールにつかまり、場所を確保してから、社長から受け取ったメモを確認する。

書かれている住所は、いつものホテルではなかった。
マンション名が書かれているけれど……もしかしたら、久遠さんの自宅とかだろうか。

たしか、ひとり暮らしだけど部屋にいるのが落ち着かないって理由でほとんどホテルで過ごしているって話だった。

その話題になったとき、久遠さんの雰囲気が少し固くなった気がして、あまり深く聞くのも悪いかなとすぐ会話を切り上げてしまったから、久遠さんの自宅について詳しくはわからない。

さすがに薬とかなくて部屋に戻ったんだろうか。

ホテルでも、薬とか頼めば持ってきてくれる気もするけれど……と考えながらしばらく電車に揺られているうちに、不意に社長が言っていた言葉を思い出す。




『石坂が来るとうるさいから、今すぐ向かってくれるか? 石坂、久遠の依頼だって聞くと飛びついてくるから』

私が熱を出したとき、石坂さんは案内って形で部屋まできてたけど、あれももしかしたら強引に立候補したのかもしれない。

仕事熱心ならいいけど、もし、玉の輿だとかそういうことを考えているならあまりいい気はしない。
顧客に優越をつけているように思えるから。

……でも、その点で言えば社長もそうか。お金持ってるからって理由で、久遠さんの依頼を優先させてるわけだし。

まぁ、これだけ毎日依頼してくるんだから常連として大事にするのは当然なのかもしれないけれど。

そう考えて……「依頼か……」とぽつりと声が漏れた。

あまりに毎日一緒にいるから、〝仕事〟って意識が薄れつつあるけれど、これは久遠さんが〝オフィス・三ノ宮〟に依頼している仕事だ。

つまり、久遠さんにしたら誰でもいいわけで……そんな当たり前のことを考えると、ここ最近はなぜか胸の奥がムカムカとしてしまい嫌になる。

この間、石坂さんが久遠さんの部屋に行くって名乗りをあげた時から、なんだかおかしい。

これはただの仕事で、久遠さんは依頼人でしかないのに。
きちんと向き合う勇気もないくせに……こんなのはおかしい。

下手に身体の関係になんてなってしまったからダメなんだ。きっと。

名前をつけたくない自分の気持ちにそういいわけをしながら、それから二駅電車に揺られた。





久遠さんの住むマンションがある最寄駅は、新幹線も乗り入れる大きな駅だった。

たくさんの人が行きかう広い構内に少しだけ戸惑いながら駅を出て、スマホでナビ機能を起動させ、そこに住所を入力する。

すぐに徒歩十分と所要時間が出てきて、その距離にきっといいマンションなんだろうなぁと頭に浮かべながら歩き始めた。

たくさん並ぶオフィスビルの間を抜ける。
三十階はありそうな建物を眺め歩いていくと、そのうちに他のビルとは明らかに敷居の高さが違う建物が目に入った。

他の建物が割とぎゅうぎゅうに建っているのに比べ、悠々と敷地を構えたそこに建つマンションを見て、すぐにああここだなと判断する。

濃いグレイで統一された外壁のマンションはパッと見て二十階以上の高さがあるのがわかった。

建物の周りをぐるっと黄緑色の葉をつけた樹が囲っている。

〝シマトネリコ〟と彫られている銀色のプレートを眺めながら敷地内に足を踏み入れる。

エントランスまで続く通路の両脇に植えられているのも同じ樹のようだった。

白いタイルが敷き詰められている通路をそのまま進むと、外壁をくり抜いたように造られているエントランスの入口が見えた。

自動ドアの前で立ち止まり、少しためらいながら社長にもらったメモを握りしめ、中に入る。

コンシェルジュがいないのを不思議に思うほど立派なエントランスに、緊張を覚えながら、インターホンの前で立ち止まり久遠さんの部屋の番号を押す。

ポーン……と上品な音が聞こえたあと、しばらく待っていると『……入れ』とボソリと言われる。

その、いつも以上に覇気のない声にだいぶ体調悪いのかな……と思いながら、ロック解除された自動ドアを抜けて中に入った。




踏み入れた途端、目の前に広がったのは、ガラス越しの中庭だった。

建物の中心が全面をガラスで囲まれた四角い空間になっていて、そこに庭園が造ってある。

黄色い葉の樹や、白く細かい花のついた植木が綺麗に植えられていて……こんなマンションが本当にあるのか……と呆気にとられてしまった。

ガラス越しに庭園を楽しめるように置いてある皮のソファも高級感に溢れていて、それを横目に眺めながらエレベーターに乗り込む。

操作盤の数字を押し、数十秒後にドアが開いたのはいいけれど。
視界に映った広く長い通路にクラッとしてしまう。

こんないいマンションに住んでおきながら、ホテル暮らしとか……お金持ちの考えることはわからない。

外壁と同じ色の絨毯の上を歩き、久遠さんの部屋の前で足を止める。
隣の部屋との玄関の間隔が広いし、相当な部屋の広さがあるんだろうなぁと、もう驚くのも疲れてげんなりしながらインターホンを押そうとしたとき、中からドアが開けられた。

「あ……大丈夫ですか?」

現れたのは当然だけど久遠さんだ。
いつもはYシャツ姿がほとんどだけど、黒いTシャツにグレイのスウェット姿だった。

その顔色はあまりよくないし、ダルそうにも見えるけど……いつも快調って感じでもないから見分けが難しい。

それでも、いつもより不調そうかな?とツラそうな呼吸に思う。

久遠さんはドア枠にもたれかかりながら、私をじっと見下ろし「大丈夫なわけないだろ」と不満そうなトーンで言う。
熱のせいか声が掠れていた。

「おまえの風邪だろ、これ」
「だから、移っても知らないって言ったじゃないですか」
「勘弁しろよ……。一日で治したおまえみたいに頑丈にできてねーんだから」

嫌そうな顔で言った久遠さんが、「いつまでそんなとこに突っ立ってんだよ」と私の腕を掴みぐいっと引っ張る。





腕を掴んだ久遠さんの手が熱くて、何度なんだかを聞こうとして……言葉を呑みこんだ。

久遠さんが閉めた玄関ドアに、異常なくらいの鍵がついているのが見えたから。

おそらく、元からついていた鍵は、上下にあるふたつと、ドアガードがひとつだ。

久遠さんの部屋のドアには、それに加えて電子錠がひとつと、暗証番号を打ち込むタイプのデジタルロックがひとつ、そして多分、後付したシリンダーがひとつついていた。

つまり、ドアガードを合わせて六個のロックがついている状態だ。

このマンションは、決してセキュリティーが甘いわけではない。オートロックだったし、エントランス前にもマンション内にも防犯カメラが何か所かに仕掛けてあった。

それに、オフィスビルばかりが建ち並ぶなか、この高級マンションはとても目立っているし、こんなところに忍び込もうとする泥棒はいなそうだ。

周りがオフィスばかりなだけあって人通りも多いから、人の目もある。

それなのに、こんなたくさんの鍵をつける必要があるんだろうか……。

すべての鍵を施錠して最後にドアガードを締めた久遠さんは、立ち上がると部屋のなかへと進んで行く。

私も靴を脱いで「おじゃまします」と言ってからその背中を追い……広がった部屋に絶句する。

外観や通路からして、どうせ部屋もすごいんだろうなっていうのは予想できていたのに、久遠さんの部屋はその想像を軽く上回っていた。

私の部屋がみっつ以上入るんじゃないかってほどだだっ広いリビングは、一面が窓になっていて、そこから眩しいほどの光が、レースのカーテン越しに入り込んでいる。

窓と対面する壁は一面が黒い棚になっていて、地球儀や砂時計、時計や小物関係、それとたくさんの本が並んでいた。

棚の真ん中あたりは大きくくり抜かれていて、そこに壁掛けのテレビが掛けてある。家電量販店でしか見ないような大きさだ。