◇不眠症の御曹司
超至近距離からパシンという乾いた音が聞こえ、同時に脳が揺れるほどの衝撃を受けた。
殴られるのは、相手の女の子が手を振り上げた時点でわかっていたから、想定内だ。
とはいえ……ちょっとキツい。
痛みじゃなくて、周りからの好奇のまなざしが。
昼時のカフェで突如繰り広げられた、まさに昼ドラ的展開は、それまで落ち着いていた店内の雰囲気を張り詰めたモノに変えていた。
涙目で睨みつけてくる女の子に視線を戻しながら、今の平手打ちはオプションだなと考える。
私は無料でも構わないけど、あのお金にうるさい社長が黙ってないハズだ。
社長に話して、あとでプラスした金額を出してもらわないと。
隣に座る依頼人からの、ハラハラとした眼差しを受けながら、依頼内容を思い出していた。
今日の依頼は〝別れてくれない彼女を諦めさせるために、新しい彼女役として会って欲しい〟というもの。
依頼人は、今となりに座っている二十六歳の男性だ。
『最初は、優しくて明るい子だなぁと思ってたんです。いい彼女だなって。なのに、付き合って数ヶ月が経ったら急に気性の荒さが見えてきて……。
雨が降ってるってだけでイライラするって殴られたり、おススメだからって強引に貸された漫画を次会うまでに読めてないと蹴られたり……。耐え切れなくなって別れを切り出したら、拒否されまして……他に好きな子ができたって言ったら、連れて来いって……。
あの、本当にこんなお願い、受けて頂けるんでしょうか?』
依頼人が不安そうな面持ちで事務所に来たのは、先週のことだった。
〝気性が荒い〟っていうのは、本当だな、とヒリヒリし出した頬をさすりながら思う。
平手打ちくらいはされるかもしれない……と心の準備だけしておいてよかった。
突然殴られたんじゃ、さすがに動揺して演技どころじゃなくなってしまったかもしれないから。
演技なんて得意じゃないし、騙してるんだって考えると罪悪感も浮かぶけれど、お金をもらっている以上きちんとしないと。
これは仕事だ。
「聞いていたとおり、本当にすぐに手が出ちゃうんですね」
ぶたれた頬に手を当てたまま、わざと蔑むような微笑みを浮かべ、続ける。
「彼、あなたのそういう部分に限界だって、言ってましたよ。ツラいから別れたいって。
でも……そんなに欲しいなら、譲ってもいいですけど……どうします?」
にこりと挑発的な態度で言った私に、女の子は顔中に怒りを広げる。
そして、真っ赤になって私を睨みつけてから「そんな男、いらないわよっ」と捨て台詞を残し、席を立った。
カツカツと小気味いいヒールの音が遠ざかり、お店から出ていく。
その様子を確認して、安堵と罪悪感が混ざる胸に息を落とす。
それから、社長に電話するためにバッグから携帯を取り出した。
こういう演技は苦手だ。
誰かを騙すのは仕事だと割り切っているつもりでも、どうもやりきれない思いが残る。
たとえ、救われる人がいるとわかっていても。
私が勤めるのは、〝オフィス・三ノ宮〟。
オフィスなんてついているけれど、いわゆる〝便利屋〟だ。
仕事内容は、イコール依頼人に頼まれたことだから一概には言えないけれど、たとえば、恋人のふりをして欲しいだとか、バイトが集まらなかったから入って欲しいだとか、恋人や家族を尾行してその日の行動を教えて欲しいだとか、様々だ。
ゴミ屋敷の片付けだとかの体力仕事よりも人間関係の手伝いが多いのは、三人という社員数に関係しているのかもしれない。
まず、二十九歳にして代表を務める、三ノ宮社長。
そして最近やたらと女性からの指名が多い、吉井さん二十五歳と、私だ。
二十一歳の私が、年齢的にも勤務年数的にも一番下になる。
一階がカフェ、二階がネイルサロンという三階建て複合ビルの最上階にオフィス・三ノ宮はあった。
ビル自体は新しく、まだ築三年ほどで外から見ても中から見ても綺麗だ。
自動ドアから入り、グレイのタイルが敷き詰められているフロアを抜ける。
そして奥にある共通階段を上がると、〝オフィス・三ノ宮〟と書かれた立て看板があり、その先にオフィスに繋がるドアがある。
平日の十四時。
ドアノブにかけられているプラスチックの札は、〝OPEN〟になっている。ちなみに、エレベーターはなく、男性陣ふたりが悲鳴を上げている。
「ただいま戻りました」
ドアを開けながら言う。
オフィスの広さは、二十畳ほど。一番奥に社長のデスクがあり、その手前に、デスクがよっつ固まった島がある。
吉井さんと私の使っている二台以外は物置スペースだ。
社長の後ろにある大きな窓からは、高い位置に昇った太陽の光が降り注ぎ、照明の必要はないほど。
明るさだけではなく、熱も乗せて入ってくる太陽光は、冬こそ助かるけれど、真夏に差し掛かろうとしている今は、ただの嫌がらせだ。
それを後光のように背中に受けている社長が、苛立った様子でガンガンとエアコンの設定温度を下げるものだから、オフィス・三ノ宮の室温はいつも二十五度。
寒がりの私には薄い上着とひざ掛けが必要な温度だった。
オフィスの隣には、小さな給湯室があり、その更に隣に応接室がある。そこが、依頼人と話すスペースとなっている。
オフィスをツカツカと歩きデスクにバッグを置くと、それまでイヤホンをしてスマホゲームをしていた社長が顔を上げた。
そして、ゲームが一区切りついたのかイヤホンを外すと、口の端を吊り上げ私を見る。
「ほっぺ殴られたんだって? 大丈夫か?」
弾んで聞こえる声は、楽しんでいるようにしか思えず、眉を潜めて社長を見る。
茶色い髪を軽く後ろに流している社長は、強面だ。ガッチリしている体型も手伝って、その筋の人にしか見えない。
いくら眼鏡をかけていたって無駄な抵抗だと思うんだけど、本人いわく、眼鏡があったほうがまだ人相が柔らかく見えるらしい。
『いつもは俺見ると逃げる近所の猫が、眼鏡かけたら逃げなかったから』という理由に、耐え切れず笑ってしまったのは、四ヶ月前のことだ。
「結構な衝撃でした。爪が長い人じゃなくてよかったです」
「あー、爪長い女に引っぱたかれると、下手するとひっかき傷できるもんなぁ。あれ、地味に痛いんだよなー」
身に覚えがあるような苦笑いをこぼす社長に、そういえば、と思い出す。
「社長、こないだつけてましたもんね。ほっぺにひっかき傷」
「あれは、猫にやられたヤツ。調子に乗って撫でようとしたらすげー勢いで引っ掻いて逃げてった。まったく、猫は気性が荒いよな」
そんなことを言いながらも、傷のあったあたりを指先で撫でる社長の顔は笑っている。
こんなに猫好きなのに怖がられちゃって可哀想だな、と思いながら「眼鏡意味ないじゃないですか」と失笑した。
「俺、生まれ変わったら猫に警戒されないようなじいさんになりたいわ」
「たぶん、生まれ変わらなくてもそのうちなれますよ」
バッグのなかをゴソゴソと探っていると、「で、気性の荒い彼女は無事別れてくれたか?」と返ってきたから、社長のデスクの前に立ち、依頼人から受け取った封筒を差し出した。
「たぶん。プライドが高そうだったので、そこをくすぐるようなことを言ったら〝いらない〟って怒鳴って帰っていきました。
落ち着いたあと、またヨリを戻したいとか言ってきたりしないか、ちょっと心配ですけど」
今は興奮しているから、あんな風に言ったかもしれないけれど、時間が経てば気持ちも変わるんじゃないかな。
それを心配していると、社長は封筒の中からお金を取り出しながら答える。
「まぁ、可能性はなくはないけど、そこまで考えてやることもないだろ。頼まれたのは、別れを受け入れさせて欲しいってことだけだし。契約終了だ」
お札を数えながら言う社長の口元には笑みが浮かんでいる。
「しっかし、一時間三千五百円って設定、最初は高すぎたかと思ったけど、案外、依頼してくるヤツはいるもんだよなぁ」
「レンタル彼氏が一時間五千円からって話ですからね。それに比べたら……まぁ、やってる内容も違いますけど」
レンタル彼氏や彼女がしてくれるようなことは、何ひとつしない。
頼まれれば、買い物ぐらいなら付き合うかもしれないけれど、接触は断ると社長に厳しく伝えてあるし、社長からも『法律的に色々面倒だから、たとえ相手がどんなにタイプだろうがやるなよ』と下品な言葉で止められている。
『依頼人相手にそんな感情が生まれた時はタダでやれ。完全なプライベートとして。いいな』なんて重々言われたときにはセクハラだと思ったけれど。
こういう仕事上、そのへんの線引きは最初にきちんとしておかないとマズイんだろう。
「相談料として千円、今日二時間の同行費用として七千円、成功報酬として一万。……で、平手打ち分として一万か」
一万円札をピンと弾きながら社長が笑う。
「やっぱり、佐和を雇ってよかった。女手が欲しかったんだよなぁ。派手じゃなくて見るからに普通って感じのヤツが。
彼氏役依頼されても吉井がこなすけど、さすがに彼女役させるのは無理があったから。あのとき、ハローワーク前で肩落としてるおまえ拾ってよかった」
『派手じゃなくて見るからに普通って感じ』と『拾って』という表現に引っかかりつつも、否定はできずにいると。
「もっと言えば、佐和が、元彼に退職に追いやられた上、金持って逃げられてよかったよ」
まだまだついて日の浅いキズをえぐるような言葉を言われて、苦笑いがもれた。