近くにある温度計はよく晴れた昼下がりなのに
「-4℃」という厳しい数字を示していた。

佳子 「予報士さん、寒いねー!」
僕  「はい」
佳子 「なんでこんな寒いの?」
僕  「きょうは放射冷却が朝強まった上に、昼になっても
    冷たい空気が山の上から離れていかないからです」
佳子 「よくできましたー!キャー!」

峠の上を吹き抜ける突風に、佳子さんは髪を振り乱して黄色い声を上げていた。

そこから歩いて、20分ほどさらに山道を登り、
佳子さんと僕は、峠の上のホテルに着いた。
もう、鼻水も凍る寒さだ。

佳子さん、よく来るな。よほど硫黄泉が好きなのか。

やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。
そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性5人、女性5人。
ずらりと10人。玄関の前に並んでいる。

これから団体でも来るのかな。
そう思っていると、バッとみんな、頭を下げた。

「おつかれさまでございますーっ」

へ?
何か変なものを見てしまったような気がした。

佳子 「こんにちは」

佳子さんがそう言うと、一番年のいった、やや頭が禿げ上がった
番頭と思われる男性がさらに深々と頭を下げた。

「お嬢様、ようこそおいでくださいました」

お嬢様?僕は事情がよくわからなかった。

佳子「もう、やめてよ。きょうは彼が来ているんだから。大事なの、彼。」

彼って、誰?大事なの、彼?
僕はますます事情がわからなかった。

番頭「これは、失礼いたしました。寒いので、どうぞ中へお入りくださいませ」

ホテルに番頭なんていないはずだけど、あまりにも番頭らしかったので、
この男性は番頭さんとさせていただく。
番頭さんに促されるように、僕は佳子さんと一緒に玄関に入った。

すると、玄関の中には、さらに頭の禿げ上がった男性がいた。

男性「佳っちゃん、よく来たの」
佳子「おじさま。ありがとうございます」
男性「むむ、この御仁は」
佳子「あ、彼です。連れてきちゃった」
男性「おお、これが。いい人そうじゃのお」
佳子「まあね(笑)」
男性「まあまあ、入んなさい」

どういう会話なのか、僕にはますますわからなかった。
ただ、佳子さんは、僕に悪びれずもせずに、どんどん話を進めているように見えた。
なんだか流れに取り残されているような気がして、
僕はあわてて会話に割って入った。

僕 「あのう、私」
男性「まあまあ、話はあとでゆっくり聞かせてもらうから、とりあえず入んなさい」
僕 「ええ?」
佳子「石井くん、遠慮しなくていいから」
僕 「ええ?」
男性「おお、石井くんというのか。どうかこれからしっかりよろしく」
僕 「あの、しっかりといわれましても」
佳子「い・い・か・ら! とにかく、入りましょう」

佳子さんは、見たことのない強引さで、僕を自分の世界に引きずり込んだ。

僕はちらりと、悪びれず強引になった佳子さんの顔を、少しの不信感をたたえてから見た。
すると、佳子さんは、何か哀願する目をしていた。
しかも、何かを頼み込むような目だった。

僕はその瞬間、つい
「あ、はい。わかりました」
と答えていた。

すると佳子さんはほっとしたように笑って、
「だよね」
と言って、ホテルの人たちと建物の中へと入っていった。

いったいどういうことなのだろう。僕の頭の中は、整理できないままだった。

ホテルの人たちと佳子さんに導かれたのは、ホテルの一番てっぺん、
つまり、箱根の中でも一番てっぺんと思われる展望室だった。
めちゃくちゃ、広い部屋だった。

ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、
ひとしきり挨拶がすむまで30分くらいかかった。

その間、僕はかなり居づらい思いをした。
敵方に囲まれた、心細い足軽のように。

やがて、半纏を来た最も年増な感じの女性が
「それでは、お嬢様。これで。ごゆっくり」
と言って、ようやく敵方の全員が去った。

僕はため息をついた。
そして、足軽はキッと姫様の顔を見た。


僕 「どういうことなんですか!わけわかんないですよ!」
佳子「ごめんね」
僕 「あの、一から説明してください」
佳子「一から説明すると長くなるんだけど」
僕 「じゃあ、十からでもいいです!」
佳子「あは(笑)面白いね。じゃあ、十からいこうか」
僕 「ふざけないでください!だって、どういう状況なのか、
   僕だけ全然わかってないじゃないですか!」
佳子「ごめんね。」
僕 「どうしてなんですかあ」

佳子「じゃあ、十から話すね」
僕 「やっぱり、一からお願いします」
佳子「それだと長くなる」
僕 「でも、一からがいいです」
佳子「しょうがないな、わかったよ」

そう言うと、佳子さんは、少し申し訳なさそうに、座り直した。
僕はその様子を見て、ガンガン責めてしまった自分を、少し恥じた。

佳子「私の父親がね、このホテルやってる会社の経営者だったの」
僕 「お父さんが」
佳子「そう」
僕 「あの、このホテルって、あの大観光のじゃないですか」
佳子「そう」

僕はそこで、ふいに、さっきのロマンスカーでのオレンジジュースの話を思い出した。
オレンジジュースを買ってくれたお父さんって、
あの「大観光会社」の社長だったってことか?
ということはつまり、佳子さんは大会社の社長の娘ってことか?

僕は、佳子さんが御三家とよばれる名門の女子高を出ていたことは知っていたけれど、
お父さんがどんな仕事をしていたのかは、知らなかった。

大観光は、日本を代表する、大会社だ。
経営者一家は、皇室とも縁があると聞いたことがある。
佳子さん、ほんとに本物のお嬢様だったのか。ニア・プリンセスだったのか。
僕は、とんでもない話を聞いてしまった気がした。

僕 「そんな、知りませんでした」
佳子「ごめんね、言ってなかった」
僕 「いえ、そんな、今まで聞く機会がなかったから、仕方ないです」
佳子「人生いろいろ、あるのよねえ」
僕 「そうですね。いろんな人がいますよね」

僕は少しまともな答えをした。
しかし、次の話は、僕には聞き捨てならないものだった。

佳子「あたし、ずっと独り者だけど、それでもいろいろあるからね」

何を言っているんですか。僕はすかさず異論をはさんだ。

僕 「じゃ、旦那さんにはなんて言っているんですか」
佳子「え?旦那さん?」
僕 「はい。」
佳子「旦那さんなんて、いないよ」

はい?

僕 「あの、佳子さんは、昔池田さんで、今田中さんですよね。
   結婚して名前が変わったって」
佳子「そんなこと、誰が言った?」

僕は、絶句してしまった。しかし、絶句したままだと、話は進まない。

僕 「あの、最初に手帳拾ったときに電話かけてきてくれたときに
   田中ですって言っていたじゃないですか」
佳子「うん」
僕 「それって、結婚して名字が変わったって」
佳子「だから、それって、誰が言った?」

僕は、また絶句してしまった。
そういえば、誰からも「佳子さんは結婚しました」とは聞いていない。
よく考えたら、僕が知っているのは、「佳子さんの名字が変わった」ということだけだ。

僕 「あの、誰も、そういえば、言っていません」
佳子「だよね(笑)」
僕 「あの、じゃあ、どうして名字が変わってるんですか」
佳子「田中は、お師匠さんの名字なの。
   踊りは、お師匠の名前でやるものだから、いつもは田中で活動しているの。
   あとは、池田って言うと、どうしても大観光のことをいつも言われるから、
   なんとなく、いやで、ダンスを始めてからは、田中って名乗っているの」
僕 「ええ、ええ!?」
佳子「華の独身、ですう(笑)」


はああ。なんてことだ。ここにも、僕の知らない佳子さんがいた。
というか、かなり大事なところで、知らない佳子さんがいた。
どうなっているんだ。

結婚してたなんて知らなかったみわちゃんが結婚してるのに、
結婚してると思った佳子さんが、独り身とは。

でも、よく考えたら、僕が悪い。
自分の想像や不確かな状況をもとに、
断片的な情報で勝手に判断していたのはほかならぬ、僕だ。

きちんと、いやそこまでしなくても、さりげなくでもいいから、
結婚しているかどうか聞けばよかったのに、
自分の世界と相手の世界を侵すようで聞かなかった僕が単なるバカだったのだ。

そんなことが頭によぎった瞬間、佳子さんは僕を追い込みにかかった。

佳子 「予備校でも言ったでしょ、問題文は最後まで読まないと、ねっ(笑)」

また言われたよ、この台詞!
そういえば、最初に佳子さんに会ったときも、
佳子さんのブログを途中までしか読まずに行って、
かなり取り越し苦労をして、意外な思いをした。

ああ、僕はこんな大事な佳子さんのことを、本当に理解しようとしていたのか?

大事な話も聞かない、肝心の情報を知らない、いや、知ろうという努力が足りない、
こんなことをしている僕はいったい、
これまで大事な人にどういう接し方をしてきたのだろう。
僕はますます恥ずかしくなった。

でも、それにしても、この佳子さんという問題文、長すぎるよ!難しすぎるよ!
どこまで奥が深いんだよ!

僕はそこまで考えをめぐらしたが、
それでも、自分の力が足りていないことに変わりはないと思った。

仕方ないと思った僕は
「わかりました。これから精一杯、勉強させていただきます。
 なので、もう少し、教えてもらえませんか」
と、梅雨時のてるてる坊主のように、しおらしく言った。

すると佳子さんは少し笑って「やったね」と言った。

ああ、僕はこの人に勝てないな。そう思った瞬間だった。




窓の外は、少しずつ日が傾き始めていた。
晩冬のやわらかい日差しの中、外はかすかに湯煙がたなびいていた。

それを背景に、僕は佳子さんにこうなった訳を聞いた。

佳子 「実は、月に一回くらいここに手伝いに来ているんだけど、
    最近、結婚しろってうるさいのよ」
僕  「そりゃ、まあ、佳子さんみたいな人が一人でいたら、
    みんな心配するんじゃないですか」
佳子 「よけいな心配よ。あたしは面倒なだけ。」
僕  「そうなんですか」
佳子 「そう」
僕  「でも肉親だったら、みんな心配するんじゃないですか」
佳子 「そうかなあ。だってパパは死ぬまで心配してなかったもん」

そこで僕は初めて、佳子さんのお父さんが亡くなっていることを知った。

僕  「お父さん、亡くなられたんですか」
佳子 「うん、少し前にね」
僕  「それで」
佳子 「あたしの弟は、大観光なんて継ぐつもりないから、
    とりあえず、じじ、あの、おじさんが継いだんだけど、じじだってもう年だか
    ら早く誰かに継ぎたいんだって」
僕  「はあ」
佳子 「で、あたしに継げと言ったわけよ」
僕  「継げばいいんじゃないですか」
佳子 「そんな面倒くさいじゃない。あたしは気楽に踊っている方が好きなの」
僕  「えー、でもここを継げば将来安泰なんじゃないですか」

僕は気軽に「安泰」と言ってしまった。
すると、佳子さんは眉毛の角度をわずかに上げた。