平日の午前。

坂の上テレビを出て、新宿駅に向かう。
仕事に向かう人とは逆流して観光地に向かうのはなんだか得した気分だ。

新宿駅で、箱根湯本行きの切符を買い、僕はロマンスカーに乗り込んだ。

昔、小学2年生のときに、母親と一緒に初めて乗ったロマンスカー。

ロマンスカーには、客席まで飲み物を持ってきてくれるサービスがあり、
母親が、オレンジジュースを買ってくれた。
僕はロマンスカーに乗ると、いつもそのことを思い出す。

僕の家は、父親がいつも仕事に行って、留守だった。

母親は、いつも同居していた祖母、つまり姑の目を気にして、
僕と2人で一緒に出かけることなんて、なかった。

出かけるときにはいつも姑がついてくるので、
母親はそのご機嫌伺いに精一杯だった。
時にはうまくいかず、悔し涙を流していた。

ところが、ある日、姑が別の旅行に出かけたため、
母親が、急きょ僕を箱根に日帰り旅行に連れ出した。

そのときに買ってくれたオレンジジュース。
華やかな服のお姉さんが、よそで淹れて、うやうやしく持ってきてくれた。
母親も、すごくおいしそうに飲んでいた。

「おばあちゃんには、内緒だからね」

そう言っていたのが、今も記憶に残っている。
それが、最初で最後の、母親と僕の旅行だった。

15歳のときに、母親は突然亡くなった。
突然の、心筋梗塞。48歳だった。

普通に生きていてくれたら、今、旅行くらい連れて行ったのにな。
普通に生きるって、難しいんだな。

母親の年齢にかなり近づいてきた僕は、
そんなことをきょうも思い、ロマンスカーに乗った。

海外からの観光客が多いためか、平日の午前にしては珍しく満席だった。

中国語や韓国語が入り混じる車内。日本にいるはずなのに、なぜかアウェー感満載だ。
僕は、切符で指定された窓側の席に座った。

するとほどなくして、白く輝くロマンスカーはミュージックホーンを鳴らして、
新宿駅を出発した。

新宿を出てすぐ、僕の思い出の代々木の予備校があるそばを
ロマンスカーは縫うように一瞬で通り過ぎていく。

そして、代々木八幡の急カーブを通過するころ、
僕の隣の通路側の席の若い女性が
ひとつ前の通路側の席の若い男性とお弁当を分け合いながら食べ始めた。

ひとつ前の席の通路側の男性が、首をこちらに向けて、
後ろにいる若い女性に鶏肉を食べさせていた。

そうか、満席で切符が横並びでとれなかったから、前後にこの2人は座っているんだな。
前後でも一生懸命コミュニケーションしようとしているんだな。

いいなあ、昭和の新婚旅行みたいだ。


少し感激した僕は、
「もしよければ、僕、席、替わりますよ。せっかく一緒なんだから、前後じゃなくて、
 隣同士の方がいいでしょう」
と言った。

男性が「え、いいんですか」といい、女性も「ありがとうございます」と言ってくれた。

僕は喜んで席を変わることにし、荷物を持って、
窓側の席から、ひとつ前の通路側の席に移動した。




ひとつ前の通路側の席に入ったその瞬間、僕は凍りついた。


ひとつ前の窓側の席には、寝息を立てて窓に寄り添うように寝ている
サングラス姿で淡い瑠璃色のワンピースを着た、色白の女性がいた。

サングラスはかけているけれど、
明らかに、明らかに、どう見ても。
あの、これって冗談ですよねと自分に問いかけなければならないくらい
明らかなお姿が、そこにあった。


あの、佳子さんだった。


あの、なぜ、ここにいらっしゃるのですか。
僕にはそれくらいしか頭に言葉が浮かばなかった。
楽しかったはずの箱根旅行は、一気に緊張感満載旅行に変わってしまった。

アウェー感あふれる車内で、緊張感も満載かよ!
僕は、珍しく、大好きなロマンスカーをうらんでしまった。

普通、好きだった女性がいたり、偶然再会した人がいたりすると、
喜びにあふれるものではないかと思う。

しかし、このときの僕には緊張感しかなかった。

この前、代々木で佳子さんに再会したときは、緊張感はたしかにあったものの、
「かわいい」とか「変わらない」とか感激していたのに、
なんでこんなに緊張感ばかりになってしまったのだろう。

僕は、また自分がわからなくなっていた。

もう、降りた方がいいのかも。ちょっと苦しいよ。
ロマンスカーは、次、町田に止まるはずだし。


だいぶ長い時間が経って、ロマンスカーは町田に到着した。
佳子さんは、寝息を立ててままだ。

僕は意を決して立ち上がろうとしたところ、
ひざ掛け代わりにしていた自分の黒いダウンの袖を思い切り踏んでしまい、
その場に転びそうになってしまった。

「あっ」

少し大きな声を出してしまった。
その瞬間、佳子さんが、目を覚ました。
そして、目を丸くしていた。きっと、お互いに。

佳子 「石井くん?」

まずい、見つかっちゃった。

佳子 「どうしてここにいるの?」

それ、こっちの台詞なんですけど。

僕 「あの、泊まり明けでロマンスカーに乗ったら、佳子さんいて、驚いていました」
佳子「ああ、来てくれたのね。よかった」

佳子さん、何を言っているんですか。きっと寝ぼけているのだろう。

僕 「あの、偶然なんです。僕、最初後ろの席にいて、席を代わったら佳子さんいて」

僕がそこまで言うと、ロマンスカーは、軽やかに町田を出発した。

うお、降りられなかった。
少しあわてる僕を見て、佳子さんは、目をぱちくりさせた。
クリーム色のショールで、少し口をふさぐようにしてから、また、僕を見て、笑った。

佳子 「ま、いいじゃない。こんなこともあるのね」
僕  「はい。」
佳子 「のど渇いちゃった。あ、車内販売きた。」

後ろを振り返ると、ちょうど販売員の女性がワゴンを押して訪ねてくるところだった。

昔のロマンスカーは、別の場所で淹れたオレンジジュースを、
お姉さんがうやうやしく持ってきてくれていたけれど、
つい最近、それが廃止されてワゴンサービスに変わった。

昭和のころにはできていたことも、
今はいろいろな事情の変化でできなくなっているのかもしれない、と思った。

佳子 「すみません、オレンジジュース2つ」

え、オレンジジュース?しかも2つ?

佳子 「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました。」

おどけるように丁寧に言う、佳子さん。

佳子 「私、ロマンスカーのオレンジジュース、昔から好きなのよね。
    パパが昔よく買ってくれたの。
    パパはジュース買わない人だったのに、ここでだけ、買ってくれたの」
僕  「そうなんですか」


僕はまた、驚いた。
母親と一緒に飲んだ、僕にとって思い出のオレンジジュースが、
佳子さんにとっても、思い出のオレンジジュースだなんて。

僕は思わず、母親と飲んだオレンジジュースの話をした。
すると、佳子さんはまた目を丸くして、「そうなの。似てるね。」と言ってくれた。

テーブルの上に置かれたキラキラとしたぶ厚いグラスに入ったオレンジジュースに、 
佳子さんとほぼ同時に、ストローをするりとさして、きゅっと一口飲んだ。

佳子 「あー、おいしいね。」
僕  「はい。」

僕も一口飲んだ。ものすごく、おいしかった。
母親と飲んだ昔の日のことが、なぜか急に思い出されてきた。

佳子 「お母さん、きっと、すごく苦労してたんだと思うよ。
    生きてたら、よかったのにね。」

そう言うと、佳子さんは、少し目に涙を浮かべていた。

僕  「そうですね。ありがとうございます。」

僕は、そう言うのが精一杯だった。

窓の外を見ると、ロマンスカーは海老名と厚木を結ぶ相模大橋のあたりを通過していた。
桜の木が、寒々とした曇り空の下に立っていた。
いきものがかりの「SAKURA」という歌に
小田急線の窓に映る桜、とあったけど、あれかな。
あの歌も切ないよな。

そして、今ここでまた佳子さんに再会してしまった僕も、切ない。
しかも、佳子さんが家族の話をすると、さらに切ない。

そんなことを思っていると、僕も泣きそうになってしまった。
すると、佳子さんは、その雰囲気を察知したようで

佳子 「そういえば、石井くん、どこ行くの?」

と努めて明るく聞いてきた。

僕  「あの、箱根です」
佳子 「あらあ」
   「私も箱根よ」
僕  「箱根好きって、言ってましたよね」
佳子 「そうそう。箱根のてっぺんまで行くのよ。硫黄泉好きで」
僕  「え!箱根のてっぺん? あの、ひょっとして、峠の上ですか?」
佳子 「そうそう、峠の上のホテル。あそこ、私好きなのよ」

好きなものが一致しているというのは、恐ろしいもので、
こんなことがあるのか、と僕は思った。
僕は、もう仕方ないと思い、白状した。

僕  「僕も、峠の上のホテルに行くところなんです」
佳子 「え、そうなの?」
   「ふふ、よかった。」

佳子さんは、ちょっとほっとしたような笑みを浮かべていた。
僕にはそれがよくわからなかった。

僕  「え、よかった?」

僕がそう言うと、佳子さんはわずかに考えるような間を空けた後、
切り返すようにこう言った。

佳子 「だって私、地図が読めない女だから、あそこにバスで行くの苦手でね、
    いつも別のバスに乗っちゃうのよ。石井くんいれば安心ね」

確かに、峠の上のホテルに行くには
箱根湯本からバスを選んで、そして時には乗り換えていかないといけないから、
人によっては、迷うと思う。

僕は、そこにまで行く案内人として喜ばれたことに、
なぜか少し釈然としない思いがあったものの、まあ、喜ばれないよりかはいいかと思い、
「僕も、うれしいです。」とひとまず答えた。

すると佳子さんは「私も」と言って、まるで少女のような純情あふれる笑顔を
きらりと横顔で見せた。


僕の胸に、その横顔がきゅきゅっと刺さった。
佳子さんの横顔は、僕が初めて見る横顔で、甘酸っぱい香りがした。
僕の心の中にも、オレンジジュースが注がれたようだった。
そんなふうに、心に染み入ってくる佳子さんを前に、僕の話せる言葉は、限られていた。

僕 「それにしても、偶然ですね」

そんなありふれた一言を言ってしまった僕に、佳子さんは少し冷たい返事をした。

佳子 「あら、そう?」

僕はその返事が少し冷たかったことと、
かなり意外だったこともあって、少しあわてて言い返した。

僕 「だって、同じ日に、同じ電車で、同じ箱根の、同じホテルに行くなんて、
   おかしいじゃないですか。ありえないって、普通思いますよ」
佳子「そうかな」

佳子さんは、なおも冷たかった。