佳子 「ねえ、もし、私たち、つきあっていたら、どうなってたと思う?」
僕  「うーん…」
   「申し訳ないんですけど、うまくいってなかったと思います。
   僕は子供だったから、どう進めていいかわからなかったと思うし」
佳子 「うん。そうだよね。私も子供だったから、きっとうまくいかないよね」
僕  「でも、恋ってうまくいかないことがあってもいいって、
    きょう、思うことができました。」
   「あと、何年も経って、ようやく日の目を見る恋もあるって、知りました」
佳子 「そうそう。恋は愛とちょっと違うからね」
   「愛にならない恋って、たーくさんあるけど、
それがきっとどこかで役に立ってるから、
人生っていいんじゃないかなあって、思う」
僕  「そうなんですか」
佳子 「うん、恋にはだいぶ鍛えられたからね」

僕は、少し考えた上で、少しおどけて言った。

僕  「え、すると佳子さん、そんなにたくさん恋をされたんですか!?」
佳子 「さあーね(笑) 広報を通して聞いてくださーい(笑)」

また、笑った。しかも、私をありったけの上目遣いで見ながら。
僕の身長、178センチなので、佳子さんとの背の差は23センチ。
近くもない、遠くもないこの間。ここに、すばらしい時間が流れていた。

くしくも、再会するまでにかかった年の数と同じ、23。
いいなあ、この距離、この間合い。

すると、佳子さんはちょっと真面目な顔になって、言った。

佳子 「実は私、就職のときに、坂の上テレビが第一志望だったんだよ」
僕  「え、そうだったんですか」
佳子 「でも、1次であっさり落ちて。ミーハーだけだったからね。
    それで志望してない会社に行って転職の繰り返しになったんだけど、
    石井くんが坂の上にいるってわかって、よかった」
僕  「そんな、僕の場合は、たまたま入れただけです」
佳子 「人生って、その、たまたまが大事なんじゃない?」
   「だから、石井くんは、私みたいに
    入りたくて入れなかった人の代わり、なんだよね」
    「代表なんだって思って、がんばってね。」
僕  「はいっ」


こんな話をしていると、すぐ代々木駅のホームに着いてしまった。

僕はここで、佳子さんに連絡先を聞こうかと思った。最初の電話も、非通知だったし。

でもすぐに、「聞いてはいけない」と思った。

これ以上、親しくなってはいけない、と思ったからだ。
僕には、みわちゃんがいるし。佳子さんには、旦那さんがいるし。

すぐに電車は来てしまった。

僕  「きょうはほんとに、ありがとうございました」
佳子 「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございました」
僕  「代々木で出会って、代々木でお別れですね」

僕は、格好つけようとして、そんなことを言ってしまった。
すると、佳子さんは目を伏せた。
僕は、その場を取り繕うようにして言った。

僕  「あ、代々木駅で場面作るなんて、映画の、あの、『君の名は。』みたいですね」
佳子 「あは、うん、かっこいいね、あの、」

佳子さんは、何か言いたそうな感じだったけど、僕が先に次の言葉を言ってしまった。

僕  「これからも、がんばってください」
佳子 「石井くんも」
   「石井くんは私のいきたかった道を生きてるから、がんばってね」
僕  「はいっ」

僕が高校生のように返事をすると、佳子さんを乗せた電車は、ドアが閉まった。

ゆっくりと滑り出す、ステンレスの車体。
僕は代々木駅の長いホームの端まで、佳子さんの電車を追いかけた。

そして、赤いテールランプが見えなくなるまで、ずっとホームから、電車を見つめていた。




僕、また、泣いてしまう。
いや、泣いちゃいけない。

そういえば、さっき、好きなもの大全を並べたとき、こんな会話があった。


僕  「一番好きな歌って、何ですか」
佳子 「昭和歌謡だから、石井くん知らないよ」
僕  「そんなことないですよ。僕も、昭和歌謡フリークです」
佳子 「へー、じゃあ、知ってる?『涙をこえて』。」
僕  「え!ほんとですか!僕、死ぬほど好きです!」
佳子 「ほんとに?すごーい」


涙をこえていこう、なくした過去に泣くよりは。つらいことがあっても、涙をこえて。

だから、涙をこえていく。あの歌のとおりじゃないか。
この歌、なんだか最近縁があるなあ。
ああ、昭和ってなんていいんだろう。

そして、僕はまた目を閉じて、夜空を見上げた。
涙をこえて。涙をこえて。

僕は、歩き始めた。










その後、僕はどうやって帰ったのかよく覚えていない。
やや放心状態のまま、家に帰った。

それが、まずかった。

みわちゃんが、気づいた。

僕  「ただいま」
みわ 「お帰りなさい」
みわ 「誰と、会ってた?」
僕  「ああ、高校時代の先輩にね」
みわ 「女性、でしょ」
僕  「…そうだけど」

そこで変な沈黙が流れた。

みわ 「最近、なんか流れが違うのよね」
僕  「流れ?」
みわ 「そう。絶対違う」
僕  「何の流れ?」
みわ 「その女性に、影響されている流れなんじゃない?」

みわちゃんが、真を突いた。

僕  「たしかに、その女性に影響されてるかもね」
みわ 「どんな人なの」
僕  「…話すと長くなる」
みわ 「やましくないの」
僕  「やましくない」
みわ 「ほんとに?」
僕  「ほんとに」
みわ 「…お風呂行ってくるね」


そこで話は終わった。

まあ、いいじゃないか。僕はやましくないんだから。
でも、ちゃんと説明しとくべきかだったかな。いやいや、でもそれって面倒くさいし。

そこで僕は気づいた。
佳子さんには、面倒くさいことをやるのに、みわちゃんには、面倒くさいことをしない。
これ、なんでだろう。僕には、まだわからなかった。
やがて、みわちゃんが風呂から上がった。
珍しく、冷蔵庫を開けて、缶ビールを持ってきた。
やくざにプルタブを開けて、ビールを飲んだ。
缶を持ったみわちゃんは、僕におもむろに近づいてきて、言った。


みわ 「石井さんに、話してないことがある」
僕  「何?」


石井さんと呼ばれたのも、久しぶりだった。
そして、話してないことがあるという言葉が刺さってきた。僕の心は急にざわついた。

みわ 「あたし、結婚していたことがあるんだよね」

は?
今、なんていった?
みわちゃん、そんな話聞いていないよ。

つきあって1年3か月も経つのに、聞いていないよ。
なんでそんな大事な話、黙っていたんだよ。

僕はよほどその言葉を口にしようとしたが、面倒なので、飲み込んだ。
代わりに、最初に頭に浮かんだ言葉を、言った。

僕  「今、なんていった?」
みわ 「だから、結婚していたことがあるんだよねって、言ったの」
僕  「・・・そうなんだ」
みわ 「そう」

僕は次の質問をどうしようか、迷った。
でも、定番のような質問を、した。

僕  「どんな人と、結婚していたの?」
みわ 「高校時代の後輩」
僕  「え、年下?」
みわ 「そう。1学年下。」
僕  「みわちゃんって、年上好きだとばかり思ってたよ」
みわ 「その1学年下の人と別れたから、年下NGになったの」
僕  「そうなんだ」
僕  「いつごろ結婚していたの?」
みわ 「3年前まで」
僕  「え、じゃあ結婚したのは?」
みわ 「7年前」
僕  「じゃあ、20代で結婚して、20代で離婚したってこと?」
みわ 「そう」
僕  「・・・なんで別れたの」
みわ 「向こうが浮気したの。10歳も年上の女とね」


僕には、みわちゃんにそんな波乱万丈の歴史があったなんて、
まったく想像していなかった。

僕  「でも、なんで急に話そうと思ったの?」
みわ 「石井さんが、高校時代の先輩と会っていたって聞いて、
    言わざるを得なくなったなって、思ったの」

そうか。みわちゃんは、自分の歴史と重ね合わせて、
僕が似たような状況になっているのを見て、秘密を明かすトリガーを引いてしまったのか。
秘密のままにしておいてくれればよかったのに。
僕は勝手なことを思っていた。

みわ  「ごめんね」
僕   「いや、そんな。」

それから、しばらく沈黙が流れた。

みわ  「じゃ、もうきょうは寝るね。おやすみ」

そういって、みわちゃんは立ち上がり、寝室に消えた。



それからというものの、僕とみわちゃんの間には微妙な空気が流れた。
みわちゃんは、佳子さんのことをそれ以上聞いてこなかった。
でも、それがかえって恐かった。
ああ、もう佳子さんのことは忘れよう。そう思っていた。
よかった。佳子さんに連絡先聞かないで。そのときは、そう思っていた。


しかし、僕の思いとは別のところで、話は進行していた。
僕の運命は、ゆっくりと近づいた彗星に、もう、飲み込まれるところだった。














平成29年2月。


みわちゃんとの微妙な日々は、まだ続いている。

別に別れを切り出されるわけではないが、
かといって、居心地のよいことはまったくなく、
僕の世界は、かなり狭くなってしまったような気がした。

みわちゃんは淡々と、そして僕も淡々と生活していた。
お互い、めんどくさくならないように。


さて、きょうは泊まり勤務だ。
天気予報は、こんなにワークライフバランス、
働き方改革を重視する世の中にあっても
やっぱり24時間営業なので、僕は月に1回くらい坂の上テレビに泊まる。

でも、泊まりの後は、気分を切り換えたくなるので、プチ旅行に出かける。
僕のお気に入りは、だんぜん箱根だ。
新宿がホームグラウンドで、箱根はサブグラウンド。
それくらい、箱根にはよく行っている。

子供のころ、父親のやっていた薬屋の組合の保養所に行ったころから
家族ドライブで通い始めた箱根。

それから、大学のときからは、正月に駅伝を見に行くようになった。
天下のケンと呼ぶのにふさわしい、急峻な地形と、美しい場所の数々。
社会人になってからも、箱根好きは変わらない。

特に、硫黄泉が出るところは最高だ。
硫黄のにおいがすると、なぜだか不思議にテンションが上がる。
においに引き寄せられるように、僕は箱根によく行っている。

ちなみに、きょうのみわちゃんは、仕事が終わったら実家に帰ってお泊りだという。
だいぶ前に通告された。
今、みわちゃんにはちょっと会いたくないが、いないとちょっとさみしい。
泊まり明けで眠い目をこじあけて一人で家にいても仕方がない。

そこで僕は、箱根の峠のてっぺんにある、硫黄泉のあるところに出かけることにした。
僕はここにたまに行っている。

翌日は休みだから、一泊してのんびり帰ってくることにしよう。
僕はみわちゃんの通告のあとすぐに、てっぺんの硫黄泉の宿に予約を入れた。