佳子 「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」
僕  「ああっ、失礼しましたっ」

そしてまた、佳子さんは笑ってくれた。
この空気、23年前と、まったく同じだった。

他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。
ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、
僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。

僕はなんて幸運なんだろう。23年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。

いや、神様が、23年前に戻してくれたんだ。
タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。
タイムマシンって、あるんだな。
ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。
僕は珍しく、しおらしくなっていた。


そして、さらにうれしかったのは、好きなものが異常なくらい、一致することだった。

佳子さんと一緒に、「好きなもの大全」を並べた結果、
◎ビール◎米◎肉◎スパイス◎にんにく◎ピザ◎オロナミンC
◎昭和歌謡◎大みそか◎紅白歌合戦◎箱根の温泉◎大相撲◎鉄道(首都圏限定)
と、ここに書けるものだけでも、これだけ一致した。

そして、こんなマニアックなことを知っているのは
僕だけだ!と長年思っていたことも、佳子さんは知っていた。

僕  「最近の紅白歌合戦って、若者向けみたいにいわれてますけど、
   それって今に始まったことじゃないんですよね」
佳子 「そうそう。昔はもっと若い人ばかりのことがあったよね」
僕  「え、昔の紅白がもっと若かったって話、知ってるんですか」
佳子 「うん。ひばりさんが司会のときがそうでしょ。
   ひばりさんがそのときの、紅組最年長だったのよね」
僕  「それって、昭和・・・」
佳子 「45年だよね」
僕  「ええ、どうして知っているんですか」
佳子 「それくらい、知っているわよ」
僕  「じゃあ、そのときのひばりさんがいくつだったか、知っていますか」
佳子 「33歳」
僕  「あ、あってます・・・」

最近の紅白は若者向けだ、というのは、最近よく聞く話だが、
実は昔はもっと若かったんですよ、というのは昭和歌謡フリークの僕しか知らない、
秘密事項だったはずだ。

しかも、紅組最年長が美空ひばりさんの33歳というのは、誰に聞いても出てこない、
僕の得意の数字だった。

ひどい相手になると「ひばりさんって誰ですか」なんて言ってくる世の中なのに、
よくこんなことまで知っているな。
僕は、自分の秘密の世界が侵されたような気がした。


でも、その侵され方が、あまりにもきれいですばらしかったため、まったく不快に思わず、
むしろ相手を褒め称えないといけないとさえ思った。

ただ、あまりに正面から褒め称えるのは、僕にはまだ耐えられなかったので、
少し混ぜ返して言った。

僕  「いやー、ここまで知ってるって、はっきり言って変態ですよ」
佳子 「いいじゃない、変態で」
僕  「変態がいいんですか(笑)」
佳子 「変態は変態でも、正しい変態ならいいのよ」
僕  「正しい変態、ですか」
佳子 「そう。人に迷惑をかける変態は絶対ダメだけど、
   迷惑をかけずに楽しんでいるのが、正しい変態だと思うのよね。
   正しい変態同士で親しくなるのが、
   一番、当事者にとって幸せなことなんじゃない?
   だって、いいカップルは、みんなどこか、正しい変態同士だもの。
   私は、正しい変態、大好きなの。」

おおっ、正しい変態、いいな、と思った。

また、お互い髪の毛で隠しているけど、実は超絶絶壁頭だったり
(佳子さんの後頭部が三つ編みなのは絶壁を隠すため・・・初めて知ったよ!)、
長距離走るのが苦手だったり、昭和の上司のように、壊れたテープレコーダーのように、
繰り返し同じことを説教臭く言ったりするのも一緒だった。


そして、何より、言葉をうまく並べて、誰かに伝わったときが最高、
というところも一緒だった。

僕は、放送局に勤める気象予報士として、佳子さんは、元・雑誌の編集者として。

ここまで合う人は、人生で初めてじゃないか。
僕は、感動し始めていた。

それに、僕の知っていた佳子さんに加えて、知らなかった佳子さん、
でも、ものすごく近い佳子さんが、近くにいる。昭和に親しい佳子さんがいる。

僕はますます感動していた。
そして僕は、この信じられないような幸運が終わらないでほしい、とこいねがっていた。



しかし、あっという間に時間は過ぎ、佳子さんの次の予定が迫ってきた。

時計を見た佳子さんは、あっさりと
「じゃ、これで」と言って、席を立とうとした。



そこで僕は、用意していた武器を繰り出した。

「あのっ!」と、小さく、鋭く、相手を確実に鷲づかみにする声を出した。
周りの人には、わからないように。

佳子さんは、驚いた様子だったけれど、かまわず、僕は続けた。
さあ、言うぞ。23年前に言えなかった、あの一言を。





「僕、佳子さんのこと、大好きでした!」


僕は予定通り、勇気をもって、口火を切った。まったく予定通りだった。

そして、佳子さんの反応を気にする間もなく、話を続けた。
僕が伝えたかった、23年間伝えられなかった、ずっとずっと言いたかった、この言葉を。



「早稲田に合格できたのも、母親が亡くなったのを乗り越えられたのも、
全部、全部、佳子さんのおかげです。」

「でも、あのとき、僕が子供で、佳子さんにお礼がちゃんと言えなくて、
 好きであることも、きちんと言えなくて、僕は本当に後悔していました。」

「でも、きょう、代々木に戻ってきて、ここで会えて、
 昔と同じように話せて、同じように笑えて、
 同じ時間が過ごせて、本当にうれしかったです。」

「僕、23年前の忘れ物を、取り戻すことができたみたいで、
僕は、本当に、うれしかったし、楽しかったです。」

「きょうは、本当に、ありがとうございました!」  



頭を下げて、ゆっくり、上げて。
そこで初めて、僕は、佳子さんの顔を、まともに見た。

佳子さんは、目を見開いたままだった。
そして、心なしか、いや、確実に、青ざめていた。

まずい。僕、なんて一方的なことを言ってしまったんだ。
僕の悪い癖だ。
何かに有頂天になってしまったとき、一方的になる。

僕は、ものずこく悔やんだ。何かフォローしなきゃ、と思って、口を開こうとした。
すると、佳子さんが、先に口を開いた。

「あのね」


「あのね」


「わたしも、石井くんのこと、好きだったんだ。」




・・・いま、何て言った?

僕は、目の前が真っ白になった。
比喩ではなく、本当に真っ白になった。

そして、頭の中には、
NHKがめったに放送しない「臨時ニュース」の開始を告げる、
鉄琴のチャイムが繰り返し鳴り響いた。



「わたし、この人のために何かをやってあげたいって思ったのは、
 石井くんが初めてだった」

「それって、好きってことなんだって、あとでわかったんだけど」

「それに、私は女子中、女子高だったから、
 男の子とどうしたらいいか、あのとき、まだ、わからなかった」

「わかっていたら、もうちょっと違っていたかもね」

「私もきょう、23年前が戻ってきて、うれしかった」

「わたし、この人のことを好きだった」

「ありがとう、うれしかった。」



佳子さんの立て続けの言葉に、僕はひるまず、何かを答えようとした。

僕は、昔から、誰かから何か言われて、言い返せないということはなかった。
以前、坂の上テレビに総理大臣が来て毒づかれたときも、言い返した。

しかしこのとき、佳子さんが、あの佳子さんが、
あまりにも大きなことを言ってくれたので、僕は、言うべき言葉が見つからなかった。

どうしよう。どうしよう。

情けないことに、言葉の代わりに出てきたのは、涙だった。
僕は両目から、大粒の涙をボロボロこぼしてしまった。



「あ、あの・・・」

それを見た佳子さんは、気を取り直したように、少しお姉さんらしい笑みを浮かべた。


「ほら、女の子の前で、泣いちゃダメだよ」


そう言って、そっとハンカチを差し出してくれた。

そのハンカチが、強烈だった。
ハンカチからは、予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれたときに薫った
あの、佳子さんの匂いが、これでもか、これでもか、というほど、迫ってきた。

全く同じ匂いだった。なつかしく、やさしい匂いだった。


「絶対にこのハンカチを汚してはいけない」

僕はそう固く心に誓い、涙を拭くふりをして、ハンカチは使わず、下をしばらく向いて
涙が止まるのを待った。

少し経って、ようやく顔を上げた。
すると、驚きの光景が広がっていた。



佳子さんも、滝のように、泣いていた。
僕は、ハンカチをとっさに返した。


僕  「すみません、泣かせてしまって」
佳子 「ううん」
僕  「すみません」
佳子 「・・・」
僕  「あの」
佳子 「わたし、前ね、倒れて、苦しくて、記憶が薄れた時期があったの」
   「というか、正確に言うと、記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、
    思い出せる思い出が少なくなっていたの」
   「それが苦しいの、悲しいの」
   「でも、この前から、石井くん一生懸命話してくれて、
    私も、少しずつ思い出すきっかけをもらって、思い出して、
    さっきの一言で急にパーンと開けて
    予備校での思い出がぐるぐるって巻き戻されてきたの」
   「思い出が少なくなっていく自分が、ディティールしかない自分が
   わたし、自分が死んでいくみたいで、悲しかった」
   「でも、いま、大事なことを思い出せた」
「私にも、こんな大事な時代があったんだなって」
   「人にやさしくしたり、好きだったりしたころがあったんだって」
「私も、生きていたんだなって」
「ありがとう、石井くん」

僕は、息を飲むばかりだった。
佳子さん、やっぱり、めちゃくちゃ苦しかったんだ。
つらい経験をして、若いころの思い出が思い出せず、苦しんでいたんだ。
この、若く、つややかな風貌からは全く想像できない、想像を絶する苦しさがあったんだ。
僕はうなだれるばかりだった。

僕  「そんなにつらい思いをしていたって知らずに、申し訳ありませんでした」
佳子 「ううん。いいの。大事なこと、思い出せたから。ありがとう」
   「あたし、若い頃が、帰ってきたような気がして、うれしい」

ようやく、佳子さんに少し笑顔が戻った。
涙ではらした赤い目と、突き抜けるような色白の微笑みと。
よかった。佳子さんが笑ってくれて、うれしかった。
僕はとても、うれしかった。



その後、僕は佳子さんと、代々木駅に向かった。
僕はなるべく、ゆっくり歩いた。

すると、佳子さんはふと、鋭い質問をしてきた。