佳子「声に、引き寄せられたような気がする」
僕 「声?」
佳子「そう。ワンコちゃんの声」
僕 「そうなの?」
佳子「うん。なんか、ワンコちゃんの声、響くんだよね、心に」


それを言われて、僕は佳子さんの最初の電話のことを思い出した。
少し甘く、かすかにかすれた声。
それを聞いてしばらくしてから、僕は急に、悪寒がするような感じがした。
突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。

でもそれは悪い悪寒ではなく、あまりにもすごいものを聞いてしまったときに来る、
いわば感動的な悪寒だった。
近い表現に、鳥肌が立つというものもあるが、
鳥肌どころではなく、全身がうち震えるような感覚だった。


僕 「僕も、実は最初の電話で、佳子さんの声だってわかったときに、
   ものすごい震えた」
佳子「そうなの?」
僕 「うん。最初はあまりにも久しぶりでわからなかったけど、
   話しているうちに、急によみがえってね。
   声で佳子さんがよみがえってきたんだ」
佳子「へえー」


坂の上テレビのアナウンサーが言っていたが、
声というのは、体中を隅々までめぐりめぐった血液やリンパなどとからみあった
呼気が発するもので、
人間が普段思っているよりも、はるかに生々しいものであるという。

それはもう、肉体の一部と言っても過言ではなく、
それがたまたま気化しているのに過ぎない。
気化はしているものの、そこには魂が宿っていて、何か不思議な力を発揮するという。
よく「言霊」というが、それはまさに、この不思議な力のことを言うのだろう。
だから歌は感動的になるし、思いもよらない力を発揮することがある。


今回で言えば、佳子さんの声から始まり、
「涙をこえて」という歌の力に引き寄せられ、
縁や思い出が支えになって、
今、新たな人生が始まろうとしている。


佳子「こ、ころーのー、なかでー、あしたがー」


佳子さんが、「涙をこえて」を歌い始めた。
1節目のあと、ちらりと僕を見たので、僕が2節目を歌った。


僕 「か、げりを、知らぬ、若い、こーこーろのなかでー」


それから、一節ずつ、交互に歌った。


そして、最後の節は2人で歌った。


2人「かーがやく、あしたー、みつめてー」


「輝く明日」で2人で大きく手を挙げ、
「見つめて」で下げて、上げて。


そして、お互いを見つめた。


いいなあ、この距離。この間合い。
僕は、幸せだった。
















3か月後。


新聞に「山河不動産 事業継続へ」という記事が載った。

粉飾決算が発覚した後、
一時は会社がつぶれるのではないかと言われていたが
その後、メインバンクのえびす銀行が最低限の融資を続けるなどしたため、
事業はかなり縮小するものの、続けることができるようになったという。

坂の上テレビの関係者に話を聞いたところ、
大観光グループから、えびす銀行に対し、強力に融資の要請があったという。
えびす銀行は当初難色を示していたが、
大観光グループが推すなら、ということで
周辺企業の理解も得られ、最低限ながら融資は続けることになったという。

「大観光グループからの強力な要請」ということは、
佳子さんがかかわっているんじゃないか、と僕は思った。
最低限残すことで、みわちゃんが路頭に迷わないようにしたのではないか。

もしそうなのであれば、すごい話だ。
でも、佳子さんならきっとやる。
僕はいつものことながら、佳子さんに感心していた。



僕は相変わらず、気象予報士の仕事をしている。

一方で最近、たまに母校から講演を頼まれるようになった。

「恋も仕事も、チャンスは一瞬」という題で、学生たちに、僕が経験したことを話す。
目を輝かせて聞いてくれる学生の姿が、とてもうれしい。

「出会って23年も経って、実る恋もあるんだよ」なんて言うと、学生から歓声が上がる。
学生たちにとっては、23年なんて、自分の人生より長いわけだから、驚くのは当然か。

学生諸君、人生において学ぶべきことの多くは人の間にあるからね。
それって、どこにも書いてないし、あまり教えてくれないけれど、
若いうちに、それに気づいてね。
そして、いろいろな人に、直接話をしようね。
そこで初めて学ぶことはいっぱいあるからね。
それと、縁とか、思い出とかっていうのは、大事だよ。
まだみんなわからないと思うけど、人生深まってくると、縁や思い出の力が大事だから、
縁のある人を大事にして、思い出をいっぱい作ろうね、
それが、みんなの人生を豊かにしてくれるはずだから、みたいな話をしている。


そして最後は、ギター一本で「涙をこえて」を歌う。

この歌は、僕を支えてくれた歌だ。
この歌の力で、僕の運命は開けた。歌の力はものすごい。
人は誰しも、こうした歌や、支えになる縁、そして思い出が、どこかにあると思う。
それは、はっきりと目に見えるものではないけれど、
僕たちのことをどこかでそっと、しかし、しっかりと支えてくれている。

人は生きていると、こういう見えないものの力を忘れてしまうことがあるけれど、
見えないものにこそ、目を配るべきではないか。
みんな、こういう目に見えないものを大切にしよう。
みんな、何かに、そして誰かに、きっと支えられているんだから。
支えられていることを忘れずにいると、きっと運が開けるよ。

そんな話をして締めくくる。
中には、涙を流して聞いてくれる子もいる。
「ああ、うれしいな」と僕は思う。





ちなみに、僕は佳子さんと一緒になることになった。



交際期間はかなり短いし、周りはみんな驚いているけれど、
僕たちはあまりにも内容の濃い時間を過ごしたし、
それに、もう20年以上も前から知っているわけだから
これ以上、だらだらとつきあっていても仕方がないと思った。


今後、どうやって生活していくのか。
それを話すために、僕は佳子さんとたびたび会っている。


きょうは赤坂見附のホテルに来た。
このホテルは大きくて素敵なカフェがあり、僕も佳子さんも気に入っている。


オレンジジュースを飲みながら、これからの話からマニアックな話まで
いろいろな話をした。

マニアックな話ができる、正しい変態の時間は
僕にとっても佳子さんにとっても、とても貴重で、
ここでお互いしか知りえないことを交換し合っている。

あっという間に時間が経った。


僕 「じゃ、行こうか」
佳子「うん」



僕と佳子さんは、席を立ち、店を出た。

しかし、少し歩いたところで、足元がふらついた。
佳子さんは、ホテルのふかふかのじゅうたんに、膝をついた。


佳子「うう」


どうやら、吐き気だ。僕はいつものように言った。


僕 「鼻で、息して。すーっと」


しかし、この日の佳子さんは、言うことを聞かなかった。


佳子「いいの」


僕はちょっと困った。


僕 「どうして?」
佳子「これは、いい吐き気なの」


いい吐き気?鈍感な僕はちょっとわからなかった。


佳子「あのね、ワンコちゃん」


そう言うと、佳子さんはそっとみぞおちの下あたりに、手を当てた。


それを見て、僕の頭は、真っ白になった。
これが、涙をこえたということ、なのか。

涙は、心の雨である。
涙をこえたら、虹を見た。

君こそ命。そう、命。
涙をこえて、生まれる命。

僕は、輝く明日を、見つめたくなった。

(終)













この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。



■著者
石井 寿(いしい・ひさし)
昭和51年、東京都生まれ。
平成10年、早稲田大学卒業。
平成14年から、気象予報士。
現在、放送局に勤務。