冷たくないのに、なぜかひやっとした、不思議な感覚がした。
まるで、何かに飲み込まれるような感覚だった。体中に、震えるように電流が走った。

佳子さんが鍵を開けると、僕たちは少し離れた場所で背中合わせになり、
無言で服を片付けたりした。
片付け終わると、背中合わせのまま、僕はつぶやいた。


僕 「寝ようか」
佳子「うん」


佳子さんは、短く返事をした。
その返事を受けて僕は、部屋の電気をふっと消した。


非常灯のような行灯のほのかな明かりを残して、部屋はほぼ闇となった。
僕と佳子さんは、大そうな掛け布団の中に、潜り込んだ。

佳子「ねえ」
僕 「うん」

佳子さんは枕の上に頭を載せ、僕の方を向いた。
僕も枕の上に頭を載せ、佳子さんの方を向いた。

僕らの間の距離は、20センチ足らずだったと思う。
再会するまでにかかった年の数よりかは小さくなったが、
それでも、初めてこの部屋に泊まったときとは、同じくらい距離にとどまっていた。


この距離は、今夜さらに縮まるのか。
僕は一瞬そう思ったが、別に今夜でなくてもいい、とすぐに思った。

僕の希望は今夜かもしれないが、佳子さんの希望は今夜でないかもしれないからだ。

相手のことを考えないと、どのみち、ズレていってしまう。
僕はそう思ったので、佳子さんともう少し話をしたいと思った。


僕 「佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「僕、佳子さんにまた会えて、本当によかった」
佳子「あたしも」
僕 「もし、佳子さんに会えてなかったら、僕はダメだったと思う」
佳子「そう?」
僕 「うん。だって、人が生きていくうえで大事な、縁とか思い出とかを
   思い起こさせてくれたから」
佳子「そんな、あたしは大したことしてないわ」
僕 「そんなことないよ。本当にありかどう」
佳子「ふふ。でも、あたしによくついてこれたよね」
僕 「よく?」
佳子「そう。だって『問題文は最後まで読まないと、ねっ』みたいなことを
   何度も言われたら、普通はプライドズタズタなんじゃない?」
僕 「うん。でも、僕のプライドなんて、佳子さんの前では大したことないから」
佳子「まあ」
僕 「こんなに一緒にいられて、うれしい」


僕がそう言うと、佳子さんは黙った。

あれ、何か変なこと言ったかな、と思っていたら
佳子さんが急にきりりと口を開いた。

佳子「じゃ、次の問題です」
僕 「え、次の問題?」
佳子「そう」
僕 「あの、まだあるの?」
佳子「まだ、あるのよ」
僕 「僕、佳子さんっていう問題文、ずいぶん長すぎるよ!難しすぎるよ!
   どこまで奥が深いんだよ!と思ってたんだけど、まだなの?」
佳子「まだよ」


僕は少しがっかりした。
いったいいつになったら、佳子さんに手が届くのだろう。
でも、がっかりしても先に進まないので、僕は前を向くことにした。


僕 「じゃあ、問題出して」
佳子「はい、じゃあ行くね」

そう言うと、佳子さんは頭を少しだけ遠ざけた。


佳子「今の時代、恋愛なんて、面倒くさいだけだという人もいますが、
   どうして人は人を好きになった方がいいのでしょう、か。」


本当に問題文なんですね、と僕は感心してしまったが、
なかなか難しい問題だ。
でも、この問題に答えないと、僕の人生も先には全く進まないと、僕は思った。
僕は、ありったけの思いを込めて、話すことにした。

僕 「人間は、長く生きていると、どんどん過去が増えていきます。
   その分、未来が、少なくなるんです。
   だから、過去を共有できた方が、楽しくていいんじゃないかと思います。
   一緒に過去を共有できる相手がいるかいないかで、
   人生って大きく変わってくると思うんです。
   それに、過去の教訓から、未来につながることがたくさんあります。
   だって、歴史は結構な部分が繰り返しなわけですから。
   今回、僕が気づいた縁の大切さも、きっと歴史の繰り返しの中で指摘されてきたこ
   とだと思います。   
   だから、佳子さんの過去と僕の過去をつないで、ともに未来に進めれば、時には涙
   をするけれど、でも、きっと乗り越えられると思います」


僕としては、結構いい答案を書いたつもりだった。
しかし、佳子さんの採点は、辛かった。

佳子 「それだけ?」

げっ、これだけだとダメなのか。じゃあ、もうひとつ。


僕 「いえ、まだあります。一人で感じる幸せって、僕は限界があると思うんです。
   楽しさは安定的だけど、楽しさの最高記録って、
   たぶん更新されることはないんですよね。
   それはたぶん、自分だけの好みのパターンの中にとどまっているからです。   
   それが、2人でいると、自分だけの好みのパターンでは絶対出会えなかった、
   新たな楽しいパターンに出会えたりすると思うんです。
   もちろんそれでも1人の方が楽しいという人もいるかもしれませんが、
   2人を経験してみてから判断した方が、より選択肢が広がるのではないかと
   思います」


さあ、どうだ。


佳子「それだけ?」


ええ、これでもダメなのか。


僕 「いえ、まだあります。
   愛は将来の保障がない、という点では、今の社会不安と同じみたいに見えますが、
   でも、愛って過去に裏打ちされ、それが将来にも利益をもたらすという点で
   社会不安とはちょっと違う、プラスの要素を持っていると思うんです」


佳子「それだけ?」


うう、だいぶネタが少なくなってきたぞ。


僕 「まだ、ダメですか?」

僕は、すっかり高校生に戻って、チューターの佳子さんに教えを請うていた。
敬語を使わないというルールはもう破られていたが、
佳子さんは問題を出しているというシチュエーションなので、
そこは突っ込んでこなかった。


佳子「いまの3つは、ダメな話じゃないけど、普遍的な話よね。
   あたしが聞きたいのは、どんな話か、わかる?
   もっと、具体的な、世界でひとつしかないような、話」


さらに問題文の難易度が上がった。
どうしよう、どうしよう。僕は心の中でオロオロし始めていた。


しかし、ここでオロオロしても仕方ない。
何を言えば、一番、佳子さんにヒットするのか。
いや、そう考えるから、ダメなんだ。
そうだ、僕と佳子さんだけにわかる話を、しよう。
僕はそう思い、切り出した。


僕 「佳子さんって、紅白歌合戦みたいですよね?」
佳子「紅白?」
僕 「そうです」
佳子「どこが?」
僕 「いまの紅白って、『今』と『昔』と『大事』で構成されているんです。
   昔の紅白は『今』だけで構成されていたけれど
   いまは音楽の歴史が積み重なり、世の中が複雑に多層化したことで、
   『昔』がかすがいになることが、昔より多くなりました。
   そのために、紅白は『昔』という要素を入れて、共感を呼ぶようになりました。
   それはちょうど、昭和から平成に変わった年からです。
   その上で、最近は『大事』という要素も入れて、
   歌を通じて大事なこと、たとえば災害からの復興とか、
   人のつながりの大切さを伝えようとしています」

ここで僕は、少し息を吸った。

僕 「僕にとって佳子さんは『昔』であり『大事』を教えてくれる存在であり、
   そしていま、『今』になりつつあります。
   僕はもともと紅白が大好きで、いつも年神さまを迎えるような気持ちで
   毎年見ているんですけど、佳子さんはまさに紅白、年神さまだと思います。
   僕の大事な、そしてこの世でただひとりの神様です!」


僕は佳子さんに、思い切ってその話をした。


すると、佳子さんは目を丸くした後、「ふふふ」と笑った。
そして「年神さまだなんて、やだなあ」とかわいい拒否反応を示した。


そこで僕は、食い下がった。


僕 「いえ、佳子さんは、やっぱり僕の神様です」


佳子さんは、少し微笑んだ。


佳子「かみさまもいいけど」


  「かみさんの方が、もっと、いいかな」



暗がりの中、色白のお顔のほほが、一瞬にして桜色を帯びた。
そのあざかやかな場面に、僕は胸を焦がした。


すると、佳子さんの目に、少し涙が見えた。


佳子 「よく解けました。これで、入学ね。」


僕は目を丸くして、佳子さんを見つめた。
佳子さんも、ぼくをじっと見つめてくれた。

僕は念のため、確認した。


僕  「きょうは『ダア、シャリヤス!』は、ないの?」
佳子 「ない、よっ」


その一言を合図に、僕らの距離は、ついに、なくなった。

ニアミスを繰り返した末、
神様が不手際で僕にぶつけてしまった佳子さんという彗星。
その美しい、女神のような彗星の核心に、僕はついに到達した。


23年という時の流れは、深い意味に、昇華した。











翌朝の訪れは、ずいぶん遅かった。
僕が目を覚ますと、佳子さんも、目を覚ました。


僕 「おはよう」
佳子「おはよお」


なんだか、恥ずかしい。
すると、佳子さんはもっと恥ずかしい話をした。


佳子「ワンコちゃんって、あたしの匂い、好きでしょ」
僕 「ええっ!」
佳子「しかも、昔から」
僕 「えええっ!」


なんだ、佳子さんに、僕が佳子さんの匂いが好きってこと、見破られていたのか。
しかも、昔、高校生のころから見破られていたのか。


僕 「なんで?」
佳子「そんなの、すぐわかるわよ。だって高校生のときから
   私が近づくと、鼻をひくつかせていたじゃない」
僕 「えっ、そんな」

僕としては、バレないようにやっていたつもりだったが、
佳子さんにはすっかりお見通しだったようだ。


佳子「1月に再会したとき、代々木のバーガーでハンカチを渡したでしょ」
僕 「うん」
佳子「あのときも、ワンコちゃん、泣きながら、鼻をひくつかせていたのよね。
   その様子が、おかしくて、なつかしくて、あと、かわいくて。
   なんでこの人、こんなにあたしに一生懸命なんだろうって。 
   思わずあたしも、泣いちゃった」


ええ、あそこで滝のように泣いたときは、そう思っていたんですか。


佳子「そう、で、それもあって、鼻が利くイヌ、つまり、ワンコと命名したのよ」
僕 「ええーっ」


まったくもう、恥ずかしいったらありゃしない。
僕が布団で顔を隠そうとすると、佳子さんは、すかさずフォローを入れてきた。


佳子「でもね」
僕 「なあに?」
佳子「あたしも、ワンコちゃんの匂い、大好きなんだよ」
僕 「え、そうなの?」
佳子「そう」
僕 「いつごろから?」
佳子「予備校のときから、ずっと」
僕 「ええっ」
佳子「実はあたしも、ワンコちゃんの隣の席で勉強を教えるのが、楽しみでした」


そうなんだ。そう思ってくれていたんだ。僕は急に、うれしくなった。

僕 「そうなの?」
佳子「うん」
僕 「えっと、僕の匂いって、どんな匂い?」
佳子「うふ」
僕 「お父さんに、抱っこされたときの匂いかな」


「お父さん」というのが、亡くなった養父さんのことなのか、
あるいは、じじのことなのかはあえて聞かなかった。
でも、佳子さんが、僕をお父さんになぞらえて思ってくれていたことに、
僕はほんのりとした喜びを感じた。


昔、何かの本で読んだことがあるが、人は遺伝子レベルで
惹かれる異性の匂いというのがインプットされているという。
また、匂いに引き寄せられて、知らず知らずのうちに距離が縮まる男女もいるという。
僕らはやはり、見えない糸で結ばれていたのかもしれない。


佳子「あとね」
僕 「なあに」