僕は少し気になったが、じじが返事をする前に、すぐに食事が運ばれてきた。
それを見て、少し驚いた。山芋料理ばかりだっだ。

オクラ入りのとろろ汁、山芋のたたきの磯辺和え、
水菜と納豆と山芋のサラダ、山芋の豆乳シチュー、山芋のそぼろ煮。
そして大きなどんぶりに並々と山芋がすられていた。

じじ「きょうは箱根名物・山芋フェアじゃからな、存分に食べてな」

こういう、ひとつの食材にこだわった夕食も出しているのか。
僕は遠慮なくいただいた。佳子さんももりもり食べていた。

ひとしきり食べた後、じじは、少し酒を口に含ませてから、口を開いた。

じじ「そういえば、石井君は、気象予報士じゃが、
   大学では、何を勉強していた?」
僕 「あの、法律です」
じじ「法律?すると法学部か」
僕 「はい」
じじ「法学部を出て、気象予報士になるとは珍しいのう」
僕 「ま、それほど珍しいわけではないですが、少ないですね」
じじ「どうして文系を出て、予報士になろうと思ったんじゃ?」
僕 「分野が違うことをやってみたかったから、です」
じじ「分野が、違うこと?」
僕 「はい。法学部を出て、弁護士になったり、検事になったり、
   金融の仕事で法律の知識を生かしたりするっていうのもあると思うんですけど、
   全然違う分野で、法律の勉強で得たものを生かせないかって考えたんです」
じじ「具体的に、何か役に立ったことは、あるか?」
僕 「はい。気象の世界は、気象業務法とか災害対策基本法とか、案外法律が多いですし、
   予報を一般の人に伝えるためには、わかりやすく、伝えないといけないんですけど、
   そのときに、法律を一般の人に伝えるやり方が、役に立っています」
じじ「なるほどな。異世界で、自分の分野を生かしておるわけだな」
僕 「いえ、まだ道半ばです」
じじ「そんなことはないぞ。石井君は立派にいろいろ話せておる。
   佳っちゃんは、ほんとにいい男を見つけてきおったなあ」
佳子「いいでしょう」
じじ「うむ。佳っちゃんも、異世界だからな。よろしく頼むよ」

佳子さんが、異世界。
確かに、一般の人とは違う、たぐいまれな頭の良さをしていると思う。
記憶力も抜群だし。
この異世界を頼むと言われ、僕は少し身震いした。

僕 「いえ、でも、僕には身に余る役で」
じじ「身に余るところを、詰めていくから、力がつくのよ。
   石井君、しっかり頼むぞ。じゃな」

じじはそう言うと、少し足元をふらつかせながら、広間を後にした。

僕 「じじ、ずいぶん早くいなくなっちゃったね」
佳子「たぶん、気を遣ってくれたのよ」
僕 「そっか、ありがたいね」
佳子「そうね」

気がつくと、佳子さんも食べ終わったようだった。

僕たちは、部屋に戻った。

15畳の部屋の中には、前回と同様に、布団が仲良く2つ並べられていた。
僕は、今回は何も言わなかった。佳子さんも、何も言わない。


佳子「じゃあ、温泉行こうか」


佳子さんは、いつものように甘く、しかし、少し高めの声でそう言った。
本当にわずかに、高かった。

ひょっとして、佳子さんが緊張しているのか?
僕はちょっと意外な展開に驚いた。

でも、佳子さんに「緊張してるよね」というのは
なんだかかわいそうだったので、
僕はあえてそこには触れず、「うん、行こう」とだけ言った。

そして僕はいそいそと支度をし、佳子さんと1階にある温泉に向かった。

佳子「何時に、どこ集合?」
僕 「ゆっくりでいいよ。僕の方が、早く上がって、待ってるから」
佳子「ありがと」
僕 「じゃ」

僕はそう言って、脱衣場に入った。


内湯から、露天に抜けると、そこはもう漆黒の世界だった。
いつの間にか、とっぷりと日は暮れている。
この露天からは、近くの山々しか見ることができないため、
日が暮れると、何の目印もない。明かりもない。ただただ、闇が広がっている。
   
闇というのは不思議なもので、奥行きがなくなったような錯覚がする。
本当は何キロか先までの風景が広がっているはずだけど、
闇の中には、それらの風景はすべて黒く溶け合ってしまい、
まるで壁が近くにあるかのような感じさえする。
夕方まで聞こえていた、はるか離れた演習場からの爆音も、
夜になってもう聞こえなくなっていた。

闇と無音が支配する、ぽつねんとした空間に、
ぽっこりと空いた、露天のほんのりとした明かりは、
体だけでなく、心もほっこりと癒すものだった。

闇と無音。
最近、心の中に広がる闇と無音が人々を蝕んでいるような気がする。

もちろん、世の中の見た目は明るい。
スマホは、真夜中でも僕らの顔を明るく照らし出してくれている。
ポータブルオーディオを使えば、いつでも好きな音のある世界に入っていける。

しかし、心の中には逆に闇や無音が広がり、いい知れぬ不安がはびこっていないか。
それは言うまでもなく、人の縁がかなり失われ、
人々の心が、それぞれ孤立するようになったからではないかと思う。

その孤立した世界に何とか生きようとしたのが、みわちゃんではないか。
みわちゃんは、核心部分をズラして僕と付き合うことにより、
財産という、目に見える安心感を手に入れようとしたのだろう。

しかし、それは人間としてあざとかった。
事情を話してくれれば、まだ何か余地はあったのかもしれないが
佳子さんが手を出すまで、みわちゃんは核心をズラし続けてきた。
きっと、めんどくさかったのだろう。

もちろん、僕はみわちゃんを断罪できる立場にはない。
僕も、核心がズレた状態を放置していた責任がある。

それに、僕もめんどくさいと思って、
みわちゃんの話を聞かず、みわちゃんとの縁が深まるような工夫もしなかった。
僕も、罪は似たようなもので、たまたま断罪されなかっただけだと思う。
僕は、たまたま運がよかったのに過ぎない。

それに、みわちゃんは、若くして離婚を経験し、
きっと重荷や引け目、そして焦りというものがあったのだろう。
焦燥した人間は、誰かが声をかけてやらないと、軌道修正がなかなかできない。

昔だったら、変な様子の人を見たら誰かが声をかけていたのだろうが、
今は声をかけるとハラスメントになる場合があるから
みんなリスクをとらずに声をかけないままでいる。

それに、友達同士も顔を合わせるよりかは
スマホを通じて会話している方が気楽なので
深刻な話をする機会は昔より少なくなっていると思う。

みわちゃんも、誰かに諭してもらったことは、きっとないのだろう。
その結果、坂の上に見つけた都合のよい雲をめざして、突進していったのではないか。

もちろん、それは昭和40年代に発表された名作「坂の上の雲」のように、
純粋な、前向きな気持ちで上る有意義な坂ではなく、
自分のことだけをひたすら守ろうとして上る、やましい坂だ。

坂の上の雲がつかめないのを知らずに上っている、という点では同じだが、
双方の心持ちは、かなり異なっている。

ある意味は、みわちゃんは時代の犠牲者なのかもしれない。


時代かあ。
そういえば「坂の上の雲」は明治時代を描いた作品だ。

明治のころは初め前向きな世の中が広がっていたが、
戦争や世界の動乱に巻き込まれて、やがて世の中は変質し、
次の大正時代は、労働争議が激しくなったり、スラムが増えたり、米騒動が起きたりと、
矛盾を抱える状況へとなっていった。そして、関東大震災が起きた。

よく考えたら、矛盾や災害に苛まれる世の中という意味では、
大正と平成は似ているのかもしれない。

一方で、大正は、
今も続く箱根駅伝や高校野球、東京六大学野球が始まったり、
洋食が普及したり、一般向けの文学や映画が生まれるようになったり、
ファッションを楽しめる世の中になった、という。

暗いところもあれば、明るいところもある。

それは、僕の目の前にある闇の中に、ぽっこりとある露天風呂のようなものだ。

みわちゃんを含め、それぞれの人が、
暗闇の中で、自分の明るい露天風呂のようなものを探せれば、
もっと世の中は希望があふれるのではないか。

暗闇の中にも、希望がある。
それを、もっと多くの人に伝えていかないと、いけないな。
僕はそんなことを思っていた。



「ワンコ、ちゃーんっ」

あ、僕の希望さんだ。

「そろそろ、上がるよーっ」

大きな壁を隔てた女湯から、ノボせたのか、少し上ずったような声が聞こえた。
僕もすかさず答える。


「はあい。ワン!」

気のせいか、僕の声も少し上ずった。
いろいろなことを考えて、だいぶ長い時間硫黄泉に浸かっていたから、
僕もノボせたのかもしれない。

僕がいそいそと硫黄泉から上がると、
半纏を身にまとった、初老の男性が露天に入ってきた。
湯守さんだった。

僕 「あ、先日はどうもありがとうございました」

僕は、先日車で箱根湯本まで送ってくれた湯守さんに、礼を言った。

湯守「いえ、とんでもございません。お湯加減は、いかがでしたか」
僕 「ちょうどよかったです。ありがとうございました」
湯守「それは、何よりでございます」

そして僕は湯守さんに会釈をしてすれ違い、露天から立ち去ろうとした。

湯守「あの、」

すると、湯守さんが止めた。

僕 「何ですか?」
湯守「今後どうぞ、よろしくお願いいたします」

何がよろしくなのか、僕にはすぐにわからなかったが
たぶん、彼氏のふりをしているから今後も来てくださいね、という意味なのだと捉えた。

僕 「いえ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」

僕はまた会釈をした。

湯守「これから、ですぞ」

湯守さんは、念押しをするように、一言言った。

僕 「はい」

僕は短く答えて、露天を去った。


浴衣を身にまとって、脱衣場を出た。
すると、意外なことに、ほぼ同じタイミングで
佳子さんも女湯の脱衣場から、飛び出してきた。

僕 「おっ」
佳子「あら」
僕 「同じタイミングだったね」
佳子「うん」


そこで、僕らの間に少し間が生じた。

次に何を言ったらいいのか、
ノボせていたせいなのか、すぐに言葉が出てこなかった。
突っ込みの早い佳子さんも、なぜか何も言わなかった。


僕 「行こうか」
佳子「うん」


僕はあまりにも平凡な一言で会話を再開し、部屋へと向かった。

しかし、この平凡な一言が、かえって僕と佳子さんの間に
言い知れぬ緊張感をもたらした。
なんでまた、緊張してきたのだろう。

その理由は、歩いているうちにわかった。
僕が緊張しているというより、佳子さんが緊張しているからだ。

佳子さんは普通、あごを上げずに話をするが、
このときの佳子さんは完全にあごが上がっていた。

長い廊下に、2人のパタパタという乾いたスリッパの音だけが響く。


そして部屋に着いた。僕は鍵を開けようとした。

しかし、うまく開かない。僕も、なぜか焦っていた。
ガチャガチャ繰り返していると、「貸して」と言って、佳子さんが手を伸ばしてきた。
佳子さんの右手が、僕の右手に、触れた。


「ひやっ」