僕 「そしたら、あの、じじ、おじさんが、
佳子さんの本当のお父さんなんですか?」
佳子「そう。実はね。
でもね、あたしもワンコちゃんと同じように
赤ちゃんのころにもらわれていったから、
あたしは知らないことになっているの。いまだにね。
でも、あたしはパパとの間に何か違和感を感じてて、
それで、大人になってから雑誌の仕事で役所に行ったときに
戸籍謄本を見て、事実を知ったのよね。
今だったら、妊娠しましたとかみんなツイッターとかで発信できるから
こんなことできないけど、
昔は妊娠とか出産とかの情報ってそんなに出回らなかったから、
あまり知られることもなく、できたみたいなのよね」
そうか、それでじじは佳子さんに早く結婚しろとか
そのほかセクハラチックな発言もするわけか。
でも、本心では、それは早く孫の顔が見たい、ということなのか。
僕 「でも、じじが本当のお父さんだって、
知ってて言えないのって、つらくないですか」
佳子「そりゃ、つらいわよ。
でも、それを言っても仕方ないの。
そういう設定で生きているんだもん」
僕は、佳子さんの人に言えない寂しさを、初めて知った。
僕 「そうだったんですか」
佳子「そう。しかも、私が養子が来てしばらくして社長の家に
男の子が続けて生まれてね。
あたしは結構疎まれたの。
大観光は、弟たちの誰かが継ぐって決まったのよね。
でも、弟たちが大人になってからは大観光を継ぐのがいやだって言ったから
話はややこしくなって、結局あたしが継がないか、みたいな話になったのね。
でも、何をいまさらって感じだから、今も断ってるのよ」
それもまたつらい話だ。養子に来たとたんに、実子ができて、疎まれて、
でも、実子が継がないとわかったら、継いでくれと言われ、断る。
佳子さんの人生は、このかわいらしい顔とは裏腹に、
とんでもない運命を背負っている、と感じた。
と同時に、もうひとつ、気づいたことがあった。
僕 「あの、佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「あの、ひょっとして、佳子さんは、自分が養子でつらい思いをしたから、
今回、養子である僕のことを守ろうとしてくれたんですか」
佳子「うん、それはね。そうなの。すごくある」
僕 「やっぱり、そうだったんですか」
佳子「うん。これも縁だと思うよ。同じ境遇の下にいるワンコちゃんを助けたいって思っ
たのよね」
そして、佳子さんは、なつかしい一言を言った。
佳子「私がなんとかしてあげるからって、思ったの。」
僕が代々木の予備校で、早稲田を目指していたときに、
佳子さんがかけてくれた言葉と、同じ言葉だった。
その言葉を、20年以上たって、また言ってもらえた。
しかも、違う状況で。
まさに、これが縁だと思う。
僕は、佳子さんに、心から感謝していた。
オレンジジュースを飲み終え、一息つくと、
ロマンスカーは相模大橋のあたりを通過していた。
前回、寒々としていた桜の木は、少しばかり、色づき始めていた。
それは、孤独だった僕の心が色づくのに似ているような気がした。
第1回の芥川賞を受賞した石川達三の「私ひとりの私」の中に、
「私を知っているものは私だけで、
人間は他人から完全に理解されるということはありえない」
というようなくだりがあった。
確かに、完全に理解されることはないだろうし、
理解してくれたところで、孤独が消えるわけでもない。
でも、それは仕方のないことで、
理解したり共有したりできる、縁がある人と一緒にいるのがよりましなのではないか。
僕はそんなふうに思い始めていた。
ロマンスカーは、無事に箱根湯本に到着した。
1回目の往路と同じように、僕は行き先を確かめて、バスに間違いなく乗った。
佳子 「ガイドさんがいると、助かります」
僕 「いえいえ」
これも前回と同じやりとりだ。
でも、前回と同じだけど、前回とちょっと違って、僕を小馬鹿にするのではなく、
本当に頼っているような言い方だったので、僕はちょっと自分が成長したような気がした。
40にもなって成長するのも変な話だが、僕は足りていない人間なので、仕方ない。
バスはほどなくして出発した。しばらく進むと、また、車窓から硫黄の香りが漂ってきた。
硫黄の香りに「おかえり」と言ってもらえたような気がした。
そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの香りも、
感じることができた。
この香りが、僕の昔からの楽しみだ。
でも、もうひとつの上の香りを、僕は知ってしまった。
佳子さんが宿の洗面所で具合が悪くなり、支えたときに感じた、あの香りだ。
その香りにも、また会えるかな。僕は少し期待していた。どうせ、緊張するくせに。
すると、佳子さんは、にやついた僕の顔を見逃さずに、言った。
佳子「こらっ、変なこと考えちゃいけないんだよ」
また怒られた。どうして佳子さんは僕の考えていることをわかるのだろう。
僕はやっぱり佳子さんの掌の上に乗る狛犬なんだな。
そう思っていると、佳子さんはぽつりと小さな声で、追加の一言を言った。
佳子「ここではね。」
ん?ここではね?じゃあ、どこだったらいいんですか!
僕はまたドキドキしていた。
すると今度は、また違う話を佳子さんは始めた。
佳子「あたしたち、23年ぶりに再会したんだよね」
僕 「はい。そうです」
佳子「長かったのかなあ、短かったのかなあ」
僕 「僕は長かったと思いますけど」
佳子「そうかな。そりゃあ、これから23年っていうと
すごく長いような気がするけど、過ぎた23年っていうのは
案外あっという間のような気がするのよね」
僕 「そうか、そうですね」
佳子「あと、23年ってまだまだ甘いのよ。
織井茂子さんとか、高橋真梨子さんは、
紅白歌合戦に返り咲くまで、29年かかったんだからね」
織井さんは、NHKのラジオドラマ「君の名は」の主題歌のレコードを出した女性だ。
なかなかめぐり合えない恋仲の男女のストーリーが空前の人気を博した。
僕 「ああ、そういえば、あみんは25年ぶりの返り咲きでしたね」
佳子「そうそう。返り咲く前も後も、歌った歌は?」
2人「せーの、」
「待つわー」
あまりにも細かい知識から生まれる、しょうもないユニゾンを、
しかもバスの中でしてしまう、アラフォー男女。
まったく世の中の大勢に影響はないが、でも、これがまさに正しい変態だと思う。
きっと誰にも迷惑をかけていないし、本人たちは楽しいのだから、それが一番幸せだろう。
僕は、言い知れぬ幸せを感じていた。
バスはきょうも、ぐいぐいと急な山道を登り、やがて峠のてっぺんに着き、
僕たちはバスを降りた。
1回目の往路ほどではなかったが、風はまだ冷たかった。
道路の端にある温度を示す電光掲示板には「0℃」と表示されていた。
佳子「氷点下じゃないだけ、まだましよね」
佳子さんは、強く冷たい風に黒髪をなびかせながら、僕に話しかけた。
僕 「いえ、氷点下ですよ」
佳子「え、だって0度じゃない」
僕 「0度は、氷点下なんですよ、実は」
佳子「え、そうなの?」
僕 「そうです。氷点って、氷が水になる温度ですけど、0.002519度なんです。
だから、0度は氷点よりわずかに下で、氷の温度なんです」
佳子「そうなんだ、知らなかった!」
僕 「実は僕も、予報士になってからこのことを知って、びっくりしました。
大人になっても学ぶことって、多いですよね」
佳子「ほんとに。また、ワンコちゃんから、教わっちゃった!」
そんなに大した話ではないのに、佳子さんは、うれしそうだった。
佳子さんを見ていると、人間はつくづく、新たな発見とか、新しい見方ができることが
大事なんだなと、僕は思った。
やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。
そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性5人、女性5人。
ずらりと10人。玄関の前に並んでいる。1回目の往路と、まったく同じだ。
「おつかれさまでございますーっ」
これも同じだ。
すかさず、佳子さんが僕に耳打ちする。
佳子「じゃ、ここからワンコちゃんは、彼氏ね」
僕 「うん」
宿での彼氏役も、なんだか慣れてきたような気がする。
玄関を入ると、じじが待っていた。
じじ「おう、よく来たの」
佳子「おじさま、またお世話になります」
おじさま、と言いつつ、実の父親なんだ。
僕はそのことを知ってしまった。佳子さんは健気におじさまと言っている。
なんだか切ない。
じじ「おう、石井君」
僕 「あ、ご無沙汰しております」
じじ「もう、自分の家だと思って使ってくれていいんじゃよ」
僕 「はい。ありがとうございます」
佳子さんと僕は、また、ホテルの一番てっぺんの展望室に通された。
ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、
ひとしきり挨拶がすむまで、やはり今回も30分くらいかかった。
しかし、前回この部屋に来たときと違ったのは
その間、僕はかなりゆったりとした心持ちでいられた。
心細い足軽ではなくなっていた。いろいろ、全体像が見えたからだろう。
さて、まずは硫黄泉か。
僕がそんなふうに思っていたが、佳子さんは意外なことを言った。
佳子「温泉は、あとね。きょうはまず食事から」
あら、温泉ではないんですか。でもまあ、人の家に来ているわけだから、
佳子さんの言うとおりにしないと、申し訳ない。
そこで僕は食事に向かう支度をして、鍵と財布とスマホを持った。
一方、佳子さんは、何も持たない。
あれ、先日は名刺入れのような何かのケースだけ持っていたけど、それもないのか。
僕は念のため、聞いた。
僕 「佳子さん、何も持っていかなくて、いいの?」
佳子「うん、いいの」
僕は佳子さんがいいと言ったので、それ以上は気にしなかった。
前回と同じように、薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、
まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。
いいタイミングで開けるなあ。
きょうもさすが大観光。
中に入ると、30畳ほどのだだっ広い広間に
お膳が3つだけ、並べられていた。
これも前回と同じだった。ほどなくして、じじが入ってきた。
じじ「おう、待たせたな」
僕 「いえ、今来たばかりです」
じじ「どうじゃ、仲良くしとるか?」
じじはまた、直球を投げてきた。恒例だ。
すかさず、佳子さんが返した。
佳子「はい。仲良くさせていただきます」
前回と同じような答えをして、話は終わった。
あれ?「いただきます」ってなんだ?
「いただいています」だったらわかるけど、なんで未来形?
佳子さんの本当のお父さんなんですか?」
佳子「そう。実はね。
でもね、あたしもワンコちゃんと同じように
赤ちゃんのころにもらわれていったから、
あたしは知らないことになっているの。いまだにね。
でも、あたしはパパとの間に何か違和感を感じてて、
それで、大人になってから雑誌の仕事で役所に行ったときに
戸籍謄本を見て、事実を知ったのよね。
今だったら、妊娠しましたとかみんなツイッターとかで発信できるから
こんなことできないけど、
昔は妊娠とか出産とかの情報ってそんなに出回らなかったから、
あまり知られることもなく、できたみたいなのよね」
そうか、それでじじは佳子さんに早く結婚しろとか
そのほかセクハラチックな発言もするわけか。
でも、本心では、それは早く孫の顔が見たい、ということなのか。
僕 「でも、じじが本当のお父さんだって、
知ってて言えないのって、つらくないですか」
佳子「そりゃ、つらいわよ。
でも、それを言っても仕方ないの。
そういう設定で生きているんだもん」
僕は、佳子さんの人に言えない寂しさを、初めて知った。
僕 「そうだったんですか」
佳子「そう。しかも、私が養子が来てしばらくして社長の家に
男の子が続けて生まれてね。
あたしは結構疎まれたの。
大観光は、弟たちの誰かが継ぐって決まったのよね。
でも、弟たちが大人になってからは大観光を継ぐのがいやだって言ったから
話はややこしくなって、結局あたしが継がないか、みたいな話になったのね。
でも、何をいまさらって感じだから、今も断ってるのよ」
それもまたつらい話だ。養子に来たとたんに、実子ができて、疎まれて、
でも、実子が継がないとわかったら、継いでくれと言われ、断る。
佳子さんの人生は、このかわいらしい顔とは裏腹に、
とんでもない運命を背負っている、と感じた。
と同時に、もうひとつ、気づいたことがあった。
僕 「あの、佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「あの、ひょっとして、佳子さんは、自分が養子でつらい思いをしたから、
今回、養子である僕のことを守ろうとしてくれたんですか」
佳子「うん、それはね。そうなの。すごくある」
僕 「やっぱり、そうだったんですか」
佳子「うん。これも縁だと思うよ。同じ境遇の下にいるワンコちゃんを助けたいって思っ
たのよね」
そして、佳子さんは、なつかしい一言を言った。
佳子「私がなんとかしてあげるからって、思ったの。」
僕が代々木の予備校で、早稲田を目指していたときに、
佳子さんがかけてくれた言葉と、同じ言葉だった。
その言葉を、20年以上たって、また言ってもらえた。
しかも、違う状況で。
まさに、これが縁だと思う。
僕は、佳子さんに、心から感謝していた。
オレンジジュースを飲み終え、一息つくと、
ロマンスカーは相模大橋のあたりを通過していた。
前回、寒々としていた桜の木は、少しばかり、色づき始めていた。
それは、孤独だった僕の心が色づくのに似ているような気がした。
第1回の芥川賞を受賞した石川達三の「私ひとりの私」の中に、
「私を知っているものは私だけで、
人間は他人から完全に理解されるということはありえない」
というようなくだりがあった。
確かに、完全に理解されることはないだろうし、
理解してくれたところで、孤独が消えるわけでもない。
でも、それは仕方のないことで、
理解したり共有したりできる、縁がある人と一緒にいるのがよりましなのではないか。
僕はそんなふうに思い始めていた。
ロマンスカーは、無事に箱根湯本に到着した。
1回目の往路と同じように、僕は行き先を確かめて、バスに間違いなく乗った。
佳子 「ガイドさんがいると、助かります」
僕 「いえいえ」
これも前回と同じやりとりだ。
でも、前回と同じだけど、前回とちょっと違って、僕を小馬鹿にするのではなく、
本当に頼っているような言い方だったので、僕はちょっと自分が成長したような気がした。
40にもなって成長するのも変な話だが、僕は足りていない人間なので、仕方ない。
バスはほどなくして出発した。しばらく進むと、また、車窓から硫黄の香りが漂ってきた。
硫黄の香りに「おかえり」と言ってもらえたような気がした。
そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの香りも、
感じることができた。
この香りが、僕の昔からの楽しみだ。
でも、もうひとつの上の香りを、僕は知ってしまった。
佳子さんが宿の洗面所で具合が悪くなり、支えたときに感じた、あの香りだ。
その香りにも、また会えるかな。僕は少し期待していた。どうせ、緊張するくせに。
すると、佳子さんは、にやついた僕の顔を見逃さずに、言った。
佳子「こらっ、変なこと考えちゃいけないんだよ」
また怒られた。どうして佳子さんは僕の考えていることをわかるのだろう。
僕はやっぱり佳子さんの掌の上に乗る狛犬なんだな。
そう思っていると、佳子さんはぽつりと小さな声で、追加の一言を言った。
佳子「ここではね。」
ん?ここではね?じゃあ、どこだったらいいんですか!
僕はまたドキドキしていた。
すると今度は、また違う話を佳子さんは始めた。
佳子「あたしたち、23年ぶりに再会したんだよね」
僕 「はい。そうです」
佳子「長かったのかなあ、短かったのかなあ」
僕 「僕は長かったと思いますけど」
佳子「そうかな。そりゃあ、これから23年っていうと
すごく長いような気がするけど、過ぎた23年っていうのは
案外あっという間のような気がするのよね」
僕 「そうか、そうですね」
佳子「あと、23年ってまだまだ甘いのよ。
織井茂子さんとか、高橋真梨子さんは、
紅白歌合戦に返り咲くまで、29年かかったんだからね」
織井さんは、NHKのラジオドラマ「君の名は」の主題歌のレコードを出した女性だ。
なかなかめぐり合えない恋仲の男女のストーリーが空前の人気を博した。
僕 「ああ、そういえば、あみんは25年ぶりの返り咲きでしたね」
佳子「そうそう。返り咲く前も後も、歌った歌は?」
2人「せーの、」
「待つわー」
あまりにも細かい知識から生まれる、しょうもないユニゾンを、
しかもバスの中でしてしまう、アラフォー男女。
まったく世の中の大勢に影響はないが、でも、これがまさに正しい変態だと思う。
きっと誰にも迷惑をかけていないし、本人たちは楽しいのだから、それが一番幸せだろう。
僕は、言い知れぬ幸せを感じていた。
バスはきょうも、ぐいぐいと急な山道を登り、やがて峠のてっぺんに着き、
僕たちはバスを降りた。
1回目の往路ほどではなかったが、風はまだ冷たかった。
道路の端にある温度を示す電光掲示板には「0℃」と表示されていた。
佳子「氷点下じゃないだけ、まだましよね」
佳子さんは、強く冷たい風に黒髪をなびかせながら、僕に話しかけた。
僕 「いえ、氷点下ですよ」
佳子「え、だって0度じゃない」
僕 「0度は、氷点下なんですよ、実は」
佳子「え、そうなの?」
僕 「そうです。氷点って、氷が水になる温度ですけど、0.002519度なんです。
だから、0度は氷点よりわずかに下で、氷の温度なんです」
佳子「そうなんだ、知らなかった!」
僕 「実は僕も、予報士になってからこのことを知って、びっくりしました。
大人になっても学ぶことって、多いですよね」
佳子「ほんとに。また、ワンコちゃんから、教わっちゃった!」
そんなに大した話ではないのに、佳子さんは、うれしそうだった。
佳子さんを見ていると、人間はつくづく、新たな発見とか、新しい見方ができることが
大事なんだなと、僕は思った。
やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。
そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性5人、女性5人。
ずらりと10人。玄関の前に並んでいる。1回目の往路と、まったく同じだ。
「おつかれさまでございますーっ」
これも同じだ。
すかさず、佳子さんが僕に耳打ちする。
佳子「じゃ、ここからワンコちゃんは、彼氏ね」
僕 「うん」
宿での彼氏役も、なんだか慣れてきたような気がする。
玄関を入ると、じじが待っていた。
じじ「おう、よく来たの」
佳子「おじさま、またお世話になります」
おじさま、と言いつつ、実の父親なんだ。
僕はそのことを知ってしまった。佳子さんは健気におじさまと言っている。
なんだか切ない。
じじ「おう、石井君」
僕 「あ、ご無沙汰しております」
じじ「もう、自分の家だと思って使ってくれていいんじゃよ」
僕 「はい。ありがとうございます」
佳子さんと僕は、また、ホテルの一番てっぺんの展望室に通された。
ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、
ひとしきり挨拶がすむまで、やはり今回も30分くらいかかった。
しかし、前回この部屋に来たときと違ったのは
その間、僕はかなりゆったりとした心持ちでいられた。
心細い足軽ではなくなっていた。いろいろ、全体像が見えたからだろう。
さて、まずは硫黄泉か。
僕がそんなふうに思っていたが、佳子さんは意外なことを言った。
佳子「温泉は、あとね。きょうはまず食事から」
あら、温泉ではないんですか。でもまあ、人の家に来ているわけだから、
佳子さんの言うとおりにしないと、申し訳ない。
そこで僕は食事に向かう支度をして、鍵と財布とスマホを持った。
一方、佳子さんは、何も持たない。
あれ、先日は名刺入れのような何かのケースだけ持っていたけど、それもないのか。
僕は念のため、聞いた。
僕 「佳子さん、何も持っていかなくて、いいの?」
佳子「うん、いいの」
僕は佳子さんがいいと言ったので、それ以上は気にしなかった。
前回と同じように、薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、
まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。
いいタイミングで開けるなあ。
きょうもさすが大観光。
中に入ると、30畳ほどのだだっ広い広間に
お膳が3つだけ、並べられていた。
これも前回と同じだった。ほどなくして、じじが入ってきた。
じじ「おう、待たせたな」
僕 「いえ、今来たばかりです」
じじ「どうじゃ、仲良くしとるか?」
じじはまた、直球を投げてきた。恒例だ。
すかさず、佳子さんが返した。
佳子「はい。仲良くさせていただきます」
前回と同じような答えをして、話は終わった。
あれ?「いただきます」ってなんだ?
「いただいています」だったらわかるけど、なんで未来形?