佳子さんの口調は、熱を帯びた。


僕 「そ、それで」
佳子「もうこれは、あたしがワンコちゃんにほんとのことを言ってあげなきゃ、って
   去年ぐらいから思っていたのよね。
   でも、あたしもやっぱりみわちゃんに遠慮があって、なかなか踏み切れなかったの。
   そしたら、ことし、偶然、ワンコちゃんの手帳をバスで拾ったの。
   ああ、これで始まったなって、思って。
   でも、最初から、みわちゃんに邪魔されたら困るから、みわちゃんがヨガの新年会
   に行ってて確実に家にいない日に、あたし、新年会を早めに失礼して電話したのね。」


そんな始まりだったんですか。
最初の第一声の電話は、みわちゃんがいないのを見計らってかけてきたんですか。
ものすごい話だ。


僕 「ええ、でもそしたら、なんであんなにまだるっこしい展開にしたの?
   最初から、言ってくれればよかったのに」
佳子「最初から言うのは、さすがにためらわれたのよ。
   だって、あたしとワンコちゃん、23年も離れていたじゃない。
   いきなりすごい話をしても、うまくいかないって思ったから、
   だから、場面を作って作って、少しずつ少しずつ近づいて、
   だんだん違和感がなくなるようにしたかったの」
僕 「え、それでロールプレイングゲームみたいなことになったの?」
佳子「そう。もちろん、何か危ないことになったら、すぐやめて
   全部お話しするつもりだったけどね。
   幸い、昨日までは危ない展開にならなかったから、そのままにしてたの」
僕 「え、じゃあ、みわちゃんのお父さんの会社が危ないとわかったのは、いつ?」
佳子「危ないとわかったのは、もうだいぶ前。
   でも、危ないということが世の中に出るとわかったのは、昨日の朝よ」
僕 「え、昨日の朝?」
佳子「そう。朝ごはんを食べ終わったところで、仲居さんから耳打ちが入ったの。
   サンガの件は、明日には新聞に出ますって」


そういえば、確かに、昨日朝食を食べ終え、スリッパを履こうとしたところで、
仲居さんが佳子さんに寄り添っていたな。

あれは、吐き気に配慮して、じゃなくて、佳子さんに情報を突っ込むため、だったのか。
スパイみたいだな、大観光。さすが、大観光。

そして情報が入った佳子さんは、その後すぐに、僕に解散を命じた。
サンガが危ない話が世の中に出るんだから、みわちゃんから何か話があるはず。
早く帰って、まずはみわちゃんに会ってきなさい。そういう意味だったのか。
僕は、佳子さんが僕が思いも寄らない視点から僕のことを気遣ってくれていたことを知り、
驚くと同時に、深い感謝を覚えた。
   

僕 「そうだったんだ」
佳子「そう。でも、みわちゃんからはきょうに至るまで、ワンコちゃんに
   自分が本当に考えていることを話したという報告はなかったし、
   このままワンコちゃんがみわちゃんに押し切られたら、
   ワンコちゃんが本当に不憫だと思うの」
  「だから、今日、ついに直接、手を出しました」


手を出す。本来であれば、やましいことを表す言葉だが、
いま、佳子さんが言わんとしていることは、もちろんそんなことではなくて、
僕のために、ついにみわちゃんとの間に介入してくれた、ということがよくわかった。

     
僕 「いや、ほんとにびっくりだよ」
佳子「ごめんね。本来であれば、あたしなんかが話すことじゃないけど」
僕 「ううん。教えてくれて、本当にありがとう」
  「今、ショックだけど、いつかは知らないといけないことだったと思うし」
佳子「うん」
僕 「じゃあ、これからみわちゃんに話、聞いてくる」
佳子「うん」
  「がんばって」

昨日も佳子さんは別れ際に「がんばって」と言ってくれた。

僕はそのとき、漠然と「仕事をがんばって」くらいのエールだったと思っていたが、
それはまったく違って、
近いうちにこういう展開になることを察知してのエールだったのだろう。
そして、それは実際にそうなった。
きょうは、明確に「みわちゃんとの話、がんばって」というエールだ。


僕はもう一度「うん」と答えて、立ち上がり、ホテルの玄関に向かった。
玄関にはすでに、ホテルのワンボックスカーが用意されていた。
これも、佳子さんが用意してくれたものだろう。


僕 「また車を用意してくれたの?ありがとう」
佳子「急ぐでしょ」
僕 「うん」
佳子「がんばって」
僕 「ありがとう、本当に、ありがとう」


僕は、佳子さんに頭を下げると、車に乗り込ませてもらった。
乗り込むと、すぐに発車した。


「ありがとー」

辺りは、もう薄暗かった。
僕は、見送ってくれる佳子さんの顔を、見えなくなるまで、見つめていた。
車の中で、僕はふいに涙をこぼしてしまった。
あまりにも、知らないことばかりで、僕は、打ちのめされてばっかりだ。
知らなかった事実の大きさと重さにただぼう然とすると同時に、
今までの自分は何だったのだろうという思いがあふれ、涙を流してしまった。


「石井様」


ふと、運転手の男性の声がした。聞き覚えのある声だった。

「湯守でございます」

ああ、あの、おととい、露天風呂に来てくれた湯守さんだ。運転手も兼ねているのか。

「騒動に巻き込まれていると、伺っております」

もう、湯守さんも知っているのか。
ふと、湯守さんがおととい露天風呂で言っていたことを思い出した。

僕 「いえ、あの、先日湯守さんがおっしゃっていたとおり、
   佳子さん、ほんとに見かけによらず、すごい人だなって、思いました」
湯守「そうでございますね。どうしたら、あのようにいろいろできるのか、
   いつも感服しております」
僕 「そうなんですか」
湯守「はい。今の石井様の件では特に、気持ちが入られているようです。
   これは、大事な物語だから、と私も伺っております」
僕 「も、物語?」
湯守「はい。私どもも、物語と言うのが、いったい何を指しているのかはわかりませんが、
   石井様の件で、はっきり、物語とおっしゃっていました」
僕 「そうなんですか」
湯守「はい。ただ、ひとつわかっていることがございます」
僕 「何ですか?」
湯守「涙をこえて行け、ということです」
僕 「涙をこえて行け?」
湯守「はい。ご存知かと思いますが、お嬢様は、先代、つまりお嬢様のお父様から
   常々『涙をこえて』を聞かされてお育ちになりました。
   そして、何か難しいことがあったときは、いつも、
   『歌と同じだ。涙をこえて行け。』と言われていたそうでございます。
   今回も、先ほどぽつりと『涙をこえて行け、ね』とおっしゃっていました」


そうなのか。「涙をこえて行け」か。
僕は、こぼした涙をふいた。


僕 「わかりました。がんばります」

僕が湯守さんにそう伝えると、湯守さんはゆっくりとうなずいた。

湯守「ご武運、お祈りしております」

湯守さんは、そう言って、僕を励ましてくれた。





湯守さんの車は飛ぶように走り、あっという間に箱根湯本の駅に着いた。
あたりはもうかなり暗かった。

僕は湯守さんに丁重に礼を言うと、急いで切符を買って、ロマンスカー乗り場に向かった。

見ると、待っていたロマンスカーは、ラインナップの中で一番古いロマンスカーだった。
まだこのロマンスカー、走っていたのか。僕は少し驚いた。

僕が小学2年生のとき母親と一緒に乗ったあの思い出のロマンスカーは、この型だ。

僕は箱根によく行くが、この型のロマンスカーはもうあまり数がないからか、
大人になってからは乗ったことがなかった。本当に久しぶりだ。

車内に入ると、車端の壁に
「ブルーリボン賞 1981 鉄道友の会」
という丸いエンブレムが飾ってあった。

1981年は、昭和56年。まさに昭和のロマンスカーだ。
平成も終わりが近づいてきているのに、昭和のロマンスカーに乗れる。
僕はなつかしさを胸に、着席した。

ああ、子供のときと同じ風景だ。
もちろん、当時とは違い、車体は汚れ、うやうやしいお姉さんが
よそで淹れたオレンジジュースを持ってきてくれることもない。

しかし、昭和の雰囲気を味わうには十分だった。
僕はその雰囲気を味わいながら、いろいろなことを思い出していた。



僕の母親が、祖母に常にきつい負い目を感じているように見えたのは、
子供が産めずに、僕を養子に迎え入れたからに、違いない。
ようやく母と祖母の関係のなぞが解けた。

母が祖母のご機嫌を伺っていたのも、時に悔し涙を流していたのも、
きっとそこにつながっているのだろう。
 
ひょっとしたら、母が若くして、祖母よりもはるか先に突然亡くなったことと、
身ごもれなかったことに、何か関係はあるのか。これは、わからない。

そういえば、佳子さんに母親の話をしたときに
「お母さん、きっと、すごく苦労してたんだと思うよ。
 生きてたら、よかったのにね。」
と言って、目に涙を浮かべていたのは、
全体像を知っている佳子さんが、
養子を迎え入れた僕の母の立場を慮っていたからだろう。


ここで僕はふと気づいた。
僕の本当の母親って、誰なんだろう。

坂の上テレビの、あの禿げ上がった頭の社長が実の父だというのも
なんだかしっくりこないが、
社長の奥さん、つまり僕の母親であろう人というのは、見たことがない。
ぜひ一度、産みの母に会ってみたい。僕のお母さんは、どこにいるのか?
ひょっとして、佳子さんと同じように、突然どこからか復活してくれるのか?


また、僕は地方のテレビ局を渡り歩いて予報士をしていたけれど、
名古屋のしゃちほこテレビにいたとき、坂の上テレビの人から
「名古屋での活躍見てますよ。来ませんか」
と誘われたのが、東京に帰るきっかけだった。

ひょっとしたら、実の父か母か兄か、誰かが僕を呼んでくれたのか。

僕は高校生のときに母親を、
しゃちほこテレビにいるときに父親を亡くして、一人になった。
養父母が両方ともいなくなったというタイミングで、僕に声をかけてきたのかもしれない。



次に、みわちゃんの件か。