客間に入ると、仲居さんはお茶やお菓子をまったく出さずに、下がった。
おそらく、佳子さんにすぐに下がるように言われているのだろう。
僕はひとつ、大きく息をついた。

僕 「あの、僕」
佳子「びっくりしたでしょ?」

佳子さんは、僕が「びっくりしました」とか「驚きました」というより先に、
僕にびっくりしたであろうということを聞いてきた。
僕は、うなずくしかなかった。

僕 「あ、はい。そうです。」
佳子「ほらまた敬語」

こんな場面でも、佳子さんの突っ込みは健在だ。
佳子さんは、そっと僕の耳に顔を近づけた。

佳子「ここにきたら、彼氏のふりをしてくれないと、あたし困るの」
僕 「ええ、きのうの話、まだ続いてるんですか」
佳子「当たり前でしょ。じじが来たら、どうするの?」
僕 「そっか」

確かに、きのうとおとといの2日間、
じじに、彼氏ができましたという前提で話をしているわけだから、
急に素に戻ったら、おかしいと思われるはずだ。

僕 「そ、そだね」
佳子「じゃ、またワンコちゃんね」

僕は、佳子さんの狛犬に1日で復帰することになった。
こんな状況でなければ、またワンコに復帰できてうれしい、と思うところだが、
今はそれどころではない。

僕 「あの、佳子さん」
佳子「なあに、ワンコちゃん」
僕 「なんで、みわちゃんのこと、知ってたの?」

僕は、全体像を早く知りたかったので、いきなり直球を投げた。
佳子さんは、何も表情を変えずに、言った。

佳子「みわちゃんはね、あたしの教室の生徒さんなの」
僕 「ええっ!」

そんなこと、聞いたことないよ。

僕 「え、でも、みわちゃんがダンスを習っているなんて、聞いたことないなあ」
佳子「ダンスじゃないわよ、ヨガ」
僕 「え、佳子さん、ヨガも教えているの?」
佳子「そうよ。言わなかったっけ?」
僕 「うーん、覚えてないなあ」
佳子「ま、とにかく、みわちゃんはあたしの生徒なわけよ」
僕 「それって、いつごろから?」
佳子「もう、だいぶ前よ。4年位前かなあ」

4年前というと、僕はまだみわちゃんと付き合っていないころだ。
坂の上テレビの近くでヨガを教えているところを探していたら、
佳子さんの教室が見つかった、ということなのだろう。

僕 「わりと前だね」
佳子「うん。あたしがダンスとかヨガとか教え始めたときの最初の生徒さんなの」
僕 「へえー。そうなんだ」
佳子「そう。だから、あたしもみわちゃんには結構思い入れがあって、
   わりと気も合ってたから、わりと早い時期から、レッスンが終わった後、
   一緒に飲みに行ったりして、いろんな話をしていたのよね」
僕 「あ、じゃあプライベートな話もしてたの?」
佳子「そう。ちょうど彼女が前の旦那さんと別れる、別れないみたいな話をしているとき
   だったから、相談に乗ってほしかったんだと思うな」
僕 「で、別れたんだ」
佳子「そう。でもね、彼女かわいそうだった。
   10歳も年上の女に浮気されて、離婚なんてね」

これは、みわちゃんから先日聞いた話とぴったり符合する。
でも、あのかわいい佳子さんの口から「浮気」「離婚」なんて言葉が出てくるなんて、
想像できなかったので、なんだか僕は少しびっくりした。

僕 「僕も、その話、聞いたよ」
佳子「ああ、ワンコちゃんに言ったんだ。ま、普通言うよね。大事なことだから。」

いや、聞いたのはつい先日で、
つきあってから1年3か月も僕は知りませんでした、と
よほど言おうとか思ったけど、
そこまで言う必要はないかと思い、割愛した。

僕 「じゃあ、そのあと僕と付き合いだしたときも、話を聞いていたんだ」
佳子「ううん」

佳子さんは意外な返事をした。
ひょっとして、佳子さんはぼくとみわちゃんがつきあっていることを知らなかったのか?

佳子「付き合いだす前から、ワンコちゃんの話、聞いてたの」
僕 「ええ?それはどういうこと?」
佳子「みわちゃんね、今度は絶対に失敗したくないから、失敗しない男を選ぶって
   言っていたんだよね。
   そしたら、石井さんって人が見つかったって、言いににきたの。
   で、いろいろ話を聞いてみたら、どうも、予備校で会った、
   あの石井くんかもって気がしてきたのよね」 
僕 「それで、どうしたの?」
佳子「まず歳を聞いて、風貌を聞いて、それから、性格を聞いて、いろいろ根掘り葉掘り
   みわちゃんに聞いたの。で、そのたびに、ああ、あの石井くんなんだなって、徐々
   に確信したのよね」
僕 「それで?」
佳子「もちろん、昔、石井くんのこと好きだったことはあるけど、今はもう時代が違うし、
   それに、石井くんも若い子の方がいいんじゃないかなって思ってたから、あたしの
   出る幕じゃないなって思って」


ええ。佳子さん、そこは佳子さんの出る幕ですよ。
どうしてみわちゃんから僕を奪おうとしなかったんですか。
僕はもう少しでこれらの言葉が口から飛び出してしまいそうだった。


しかし、飛び出す前に、佳子さんがまた新たな話を繰り出した。


佳子「でもね、しばらく経って、これってよくないって、あたし思ったの」
僕 「なんで?」
佳子「だってね」


佳子さんはそう言うと、一息ついて、客間のベランダに面した大きな窓に向かった。
その後姿には、言い知れぬ大人びた雰囲気が漂っていた。僕は急に緊張しだした。


佳子「みわちゃんは、ワンコちゃんじゃなくて、
   ワンコちゃんの財産を見ていることが、だんだんわかったの」

ええ?
あの、佳子さん、僕、財産なんて、ないですよ。何を言っているんですか。
父親はいつも家にいない、しがない薬屋さんだったし。
父が亡くなってからも、もらった財産なんて、ないよ。実家ももう処分しちゃったし。
僕がそう言おうとすると、佳子さんは機先を制して、こういった。


佳子「あ、知らないんだ。やっぱり。根本的なこと」


その一言で、僕は、言い知れぬ不安の淵に、突き落とされた。
僕はもう少しで、吐き気がしそうだった。


僕 「あの、な、何が」
佳子「えっとね」
僕 「う、うん」
佳子「坂の上テレビに、副社長さんがいるでしょ」
僕 「うん。あの、土地とか、社内資産を管理してる人、がいるね」
佳子「そう。その人はね」


佳子さんは一回息を吸った。
僕は、息が止まった。


佳子「ワンコちゃんの、お兄さんなんだよ」
僕 「ええ?」


あのう、僕、兄弟はいないんですけど、
そう言おうとすると、佳子さんはまた機先を制した。


佳子「あたしが言うのも何なんだけど、ワンコちゃんは、
   大変残念なんだけど、亡くなったご両親の子じゃないのよね」
僕 「はい?」


佳子さんは、あまりにも衝撃的なことを言った。

僕の父と母は、父や母じゃなかったってこと?
それって、あまりにも歴史を覆しすぎじゃないか?


佳子「ワンコちゃんは、実は、代々、坂の上テレビの社長をしている家に生まれたのよね。
   でも、当時の坂の上グループはお家騒動がひどくて、
   ワンコちゃんの2つ年上のお兄さんが継ぐのか、
   ワンコちゃんが継ぐのかをネタに上層部がもめてね。
   ワンコちゃんの本当のお父さんが争いをやめさせるために
   ワンコちゃんを赤ちゃんのときに養子に出したの」
僕 「よ、養子」
佳子「そう。当時、坂の上の若手だったワンコちゃんの本当のお父さんが、親しくして 
   いた薬屋さんの夫婦になかなか子供ができなくて、そこに預かってもらう、という
   ことになったのよね。それがワンコちゃんというわけ」
僕 「え、じゃあ僕は家を出されたってこと?」
佳子「残念ながら、そういうことね」
僕 「え、それで」
佳子「でもね、社長さんは、お家騒動に巻き込まれたワンコちゃんが不憫で、
   家からは出したんだけど、財産だけは譲ってあげたいと思って、
   遺言に、自分が死んだらワンコちゃんにも財産を渡すって書いてあるんだって」
僕 「ええ!」


早稲田の法律の授業で習ったが、確かに、妻や子への相続とは別に
「遺贈」と言って、第三者に財産を無償で与えることができる制度がある。
おそらく、佳子さんの話は、この遺贈のことを言っているのだろう。

しかし、それにしても。僕が坂の上テレビの社長の息子?財産?
亡くなった父や母は、実は他人?
僕は想像を絶する話が続いていて、もう倒れそうだった。

でも、佳子さんがあまりにも淡々と話すので、僕はなんとかついていくことにした。
また、あまりにも話が大きすぎて、
僕が消化しきれていなかったから、かえってついていけた、というのもあった。


僕 「でも、なんで佳子さんがこんなに詳しく知ってるの?」
佳子「みわちゃんに教えてもらったの」
僕 「みわちゃんに?」 
佳子「そう。みわちゃん、受付をやってて、役員室とか、秘書室とかよく行っているから、
   そこで流れていた噂をつかんでいたのね。
   それで、言い方は悪いけど、ワンコちゃんだったら、財産も将来もらえそうだし、
   悪い人でもなさそうだから、ターゲットに絞った、というわけ。
   ターゲットって言うと、ちょっと変だけど。ごめんね、言い方が悪くて」


ターゲットに絞った。
僕は、みわちゃんが急に遠くなってしまったような気がした。


佳子「もちろん、みわちゃんだって、
   最初は悪気があってそんなことをしたんじゃないと思うよ」
僕 「そうなの?」
佳子「うん、だって、もう二度と結婚で失敗したくないから、財産的にも、性格的にも
   間違いのない人にしたいって言うのは、女だったら、やっぱり考えるのよね。
   まして、みわちゃんの家は不動産屋さんだから、土地の値段によって
   不安定になることがあるわけでしょ。そしたら、財産のない人よりある人の方が
   いいじゃない」


そういうもんなのか。


佳子「でもね、みわちゃんはワンコちゃんと付き合い始めてしばらくしたら、
   ちょっおかしくなって、財産の話ばかり、あたしにしてくるようになったのよね」
僕 「え、なんで」
佳子「あたしに調べてほしかったんでしょ。もらえる財産規模がどれくらいとか」
僕 「でも、佳子さん、そんなことできるの?」
佳子「簡単よ。だって大観光は、坂の上テレビのスポンサーをかなりやってるから、
   いつもうちは坂の上テレビの役員さんと交流があってね。
   みわちゃんも、あたしの家が大観光だって誰かに聞いたみたいで知ってて、
   それで何か情報がないかって聞いてくるようになったの」


みわちゃん、佳子さんにそんなことしてたんだ。


僕 「で、佳子さんはどうしたの?」
佳子「もちろん、答えなかったわ」


佳子さんは、珍しく視線を鋭くした。


佳子「あたし、誰かの力を借りるのは反対じゃないけど、
   その前に、まずワンコちゃんに、自分がどういうつもりでいるのかとか、
   つまびらかにすべきじゃないかって、思うの。
   それに、ワンコちゃんが坂の上の社長の息子だってこと、  
   自分は知っているのに、ワンコちゃんには知らせずにいるわけでしょ。
   もちろん、こんな重い話を簡単には説明できないから、
   説明しなかったっていうことなのかもしれないけどね。   
   でもね、核心部分がズレたままの男女は、絶対そのうち大きくズレて、
   決定的にうまくいかなくなるわ。
   みわちゃんは、それをズラしたまま、過ごそうとしていたから、
   あたし、だんだん許せなくなってきたの。
   それに、大事な人に、核心をきちんと打ち明けられないって、
   あたし、間違っていると思うの!」