みわ「私、跡継ぎをそろそろ、って言われてるの」
僕 「跡継ぎ?」
みわ「そう。赤ちゃん。私ももういい歳だから、そろそろって」

確かに、みわちゃんは今年33歳だ。そろそろ、という気持ちもわかる。

僕 「なるほどね」
みわ「そう。パパとママがね、3人は産みなさいって」
僕 「3人?」
みわ「そう。子供は多い方がいいからって。だからそれを考えると
   そろそろ石井さんに来てほしいなって」
僕 「あれ、でも、去年ご両親に会ったときは、授かりものだから
   いつでもとか、何人でもいいじゃないのって言っていたと思うけど、
   ご両親の考えが、変わったのかな」

僕がそう言うと、みわちゃんは少し急ぎ目に言った

みわ「そうだっけ。でも、きのうはそう言っていたよ」
僕 「そうなんだ」

そこで僕は、みわちゃんの体に何かあったのか、心配になった。

僕 「あの、みわちゃん、例えばなんだけど、体の方に、何かあったとか?」
みわ「え、何で?」
僕 「だって、急にそういう考え方になったってことは、みわちゃんの体に
   何かあったのかと思って、ちょっと心配になったんだよ」
みわ「あ、それは大丈夫。心配ないから。ありがとう」

僕はみわちゃんの体に異変があったわけではないと知り、少しほっとした。

みわ「でね、善は急げで、赤ちゃんもなるべく早くしたいんだけど」
僕 「なるべくって?」
みわ「できれば、早く」
僕 「それって、今年中とか?」
みわ「もっと早くてもいいの」
僕 「ええ、だって仕事もしてるし」
みわ「仕事はもういいのよ」

普段、受付の仕事に対して結構誇りを持っているみわちゃんから、
意外な発言が飛び出した。

仕事での愚痴はよく聞くが、行き詰っているとか、
もうやりたくない、という話は聞いたことがなかったからだ。
いや、ひょっとしたら、離婚した話みたいに、僕がみわちゃんのことを
よく聞いていないから、ひょっとして、
「仕事はもういい」という気持ちを聞き逃していたのかもしれない。
僕はいろいろ考えた。

僕 「じゃあ、ちょっといろいろ考えてみるね」
みわ「ありがとう。じゃあ、土曜日は大丈夫?」
僕 「明日、会社に行って、休めるかどうか調整するから、
   ちょっと待ってもらえると、うれしい」
みわ「わかった」

僕は土曜日にご両親に会う話も含めて、ちょっと時間を置いて考えたかった。

まず、みわちゃんが「善は急げ」と言ったのが気になったからだ。

「善は急げ」というのは、
急がないといけない理由が何かあるときに使う言葉だと思うので
その急がなければならない理由を、もっと知りたかった。
本当にみわちゃんが言ったことだけが理由なのか。

そして、何といっても、僕の心の中に、佳子さんが入ってきてしまった、
というのが大きかった。
佳子さんのことを無視するわけにはいかないという気持ちがあるのは、
正直認めざるを得ない。


僕は、頭の中がごちゃごちゃになりそうだった。


その日の夜、みわちゃんはいびきをかいて、大そうに寝ていた。
一方、僕は、ほとんど寝られなかった。
いったいどうしたら、一番いいのだろう。答えが、見つからなかった。

しかし、答えのヒントは、案外すぐに見つかることになった。



















翌日、僕は休み明けで、坂の上テレビに朝から出勤した。

午前11時の予報をこなした後、少し早目の昼食をとりに、食堂に行った。
込んだ食堂に出くわすのを避けるためだ。

坂の上テレビの社内食堂は、
だだっ広いところに長机が何本も置いてある昔ながらの社内食堂で、
取柄は安いことと、案外うまいということだ。僕も週に3、4回はここで食べている。

ゆうべ、ほとんど寝られなかったこともあって、眠い。
とにかく早くスタミナをつけようと、焼肉定食を注文し、
長机で一人食べていた。

ふと、隣の新聞立てに目を移すと、いま来たばかりの夕刊紙に
「サンガ大ピンチ」という見出しが書かれていた。

サンガって、Jリーグの京都のことか。僕はそう思いながら、食事をしていた。

定食を食べ終え、僕は席を立ち上がり、食器を下膳口に戻した。
しかし、さっきの夕刊紙が気になったので、ちょっと見てみようと思った。

席の近くに戻り、夕刊紙を開く。

すると、驚いた。
記事は、サンガコーポレーションという会社が不渡りを出すという話で、
サンガコーポレーションの親会社は「山河不動産」だった。

みわちゃんのお父さんの会社だ。

記事によると、サンガコーポレーションには粉飾決算の疑いもあり、
さらに、山河不動産がそれに加担していたという疑いももたれ、
現在、捜査が行われているという。

それを察知した資産家たちは、サンガコーポレーションや山河不動産の株を
先月から売りに出し始め、きのう、ついに株価が過去最安値になった。

こうした状況になったため、山河不動産は、
持っている土地の切り売りを始めているが、うまくいっておらず、
そのほかの資産も含み損を抱えていることもわかったという。
このままだと、山河不動産は危ない、という話だった。

僕は、よくないことを考えてしまった。
ひょっとしたら、こういう話が出てきたから、
みわちゃんとご両親は、いろいろ急ごうとしているのか?

僕は、さらによくないことを考えてしまった。
ひょっとしたら、婿養子に来てほしい、という話は、
財産を相続してほしい、だけじゃなくて、
負債も相続してほしい、という意味なのか?

婿養子は、財産を相続する権利はあるが、
同時に、負債も相続する義務も負う。

きのうの話だと、財産を継いでほしいから、ということだったけど、
この記事が本当なら、財産どころじゃくなて、負債だらけなのか?
でも、そんなの僕、払えないぞ。財産なんてないし。
いろいろと、疑心暗鬼になってしまった。

まずは、みわちゃんに真意を聞いてみよう。
記事が世の中に出たわけだから、聞いてみてもいいだろう。
僕はそう思って、スマホに手を伸ばした。


すると、逆に、スマホが鳴った。


みわちゃんか。そう思って、スマホを手に取ると、知らない電話番号だった。
誰だろう。僕は電話に出た。
すると、少し甘く、ややかすれた声がはっきりと聞こえた。



「もしもし。」



佳子さんだった。



「え、佳子さん!?」

僕はびっくりして大きな声を出してしまい、
周りにいた人がみんな振り返ってしまった。


「あ、あの、あの、ちょっと待ってください、このまま」


僕はあわてて声を潜めて食堂を出た。

佳子「今、話せるかな」
僕 「あ、はい」
佳子「ごめんね、平日の昼間に」
僕 「いえ、そんな」
佳子「きのうは、ありがとう」
僕 「いえ、あの、僕の方こそ、とっても、楽しくて」
佳子「うふ、よかった」
僕 「はい」
佳子「あのね、ちょっと今日、話がしたいの」
僕 「ええっ」
佳子「無理かな」
僕 「うーん、あの、きょうはちょっと無理です」
佳子「そうなの」
僕 「はい」


僕がそう言うと、佳子さんは、あまりにもとんでもないことを、平坦な口調で言った。


佳子「無理なのは、みわちゃんのことが、あるからでしょ」
僕 「え!」


佳子さんの口から「みわちゃん」という言葉が、出た。僕は倒れそうだった。
なんで、知っているんですか。
なんで、「みわちゃん」って言うんですか。
どうして、どうして、佳子さんが言うんですか。


すると、佳子さんはさらに続けた。

佳子「きょうの新聞やテレビに出てるよ。みわちゃんのお父さんの会社のこと。」
僕 「えーっ!」

そこまで知っているんですか。でも、なんで知っているんですか。
あまりにも疑問が多かった。まず、みわちゃんに聞かないと。

でも、みわちゃんには悪いけど、
僕の直感で、佳子さんの方が全体像をきちんと話してくれそうな気がした。
みわちゃんは、僕に何かを隠しているような気がしたからだった。
僕は、佳子さんに、心の中で頭を下げた。


僕 「佳子さん、じゃあ、あの、今夜、会っていただけますか」
佳子「今夜?」
僕 「はい。今夜仕事が終わったら」
佳子「何言ってるの。急ぐでしょ」
僕 「あ、はい」
佳子「じゃあ、今すぐね。善は急げだから」
僕 「え、あの、今すぐって」
佳子「どういうことになっているか、すぐに知らなくていいの?」
僕 「いえ、そ、それは困ります」
佳子「じゃあ、今すぐね」


僕はこの後の仕事をどうしようか迷ったが、
僕の選択の余地は、もうないような気がした。


僕 「わ、わかりました」
佳子「じゃ、今すぐ来て」
僕 「あの、佳子さん、いま、どこにいるんですか」
佳子「まだ峠の上よ。だって、手伝っているんだもん」
僕 「ええ、箱根!?」
佳子「そう」
僕 「わ、わかりました。今すぐ、支度します。」


僕は風邪をひいても、他人に仕事を頼むのは極力しない。
だってめんどくさいから。
頼むのもめんどくさいし、仕事の内容を説明するのもめんどくさい。

でも、きょうはめんどくさいなんて言っている場合ではなくなってしまった。
先輩や後輩に「急用ができた」ということを、思い切って話した。
僕が急に仕事をとりやめるなんて、父が亡くなったとき以来だ。
僕は急用の理由をあれこれ聞かれるかと思ってひやひやしたが、
意外なことに、急用の理由は誰にも聞かれなかった。
こんなもんなのだろうか。
というか、僕は普段余計な心配をしているということなのか。

よく考えたら、逆の立場になって、僕が「急用があるから」と言われたら
何も聞かずに代わっていただろう。
だって、他人が聞いてはいけない理由なのかもしれないから。
よく考えたら、それと同じか。
ああ、僕はなんで自分を他人の立場に置き換えて考えることが出来ないんだろう。
40歳にもなって。情けない。


ただ、何はともあれ、仕事の引き継ぎはできたので、僕は急いで坂の上テレビを出て、
新宿駅に向かった。

新宿駅では、ロマンスカーの切符売り場に行く時間も惜しかったので、
僕はICカードで改札を通り、
ホームにあるロマンスカーの自動券売機で指定券を買い、
5分後に発車するブルーのロマンスカーに乗り込んだ。

箱根から帰ってきた翌日に、また箱根に行くなんて、もちろん初めてだ。
箱根駅伝復路の翌日に、また往路があるなんて、普通は誰も考えない。
でも、佳子さんと再会してからは、こうした考えられないことに、よく出会っている。
佳子さんは、つくづく不思議なことを引き寄せる人だと思った。