佳子「遠足は、家に帰るところまでが遠足です。
   最後まできちんとしないと、ねっ(笑)」

遠足?ずいぶんと子供じみた話をしてくれるなあ。
僕はちょっと馬鹿にされた思いがした。
しかし、僕が次の言葉を告げる前に、車は発車してしまった。

僕 「あっ」

僕がそういって振り返ると、佳子さんは赤いスカートをひらつかせて、言った。

佳子「がんばって、ねー!」

何をがんばるのだろう。仕事のことか?ずいぶん最後は月並みだなあ。

しかし、ここの「がんばって」というのは、
実は仕事とかではなく、全く違うことに対するエールであることを
僕はしばらくして知ることになった。

もちろん、このときの僕はまだ全く何も知らない。
峠の上からものすごい勢いで下る車の中で、僕はまだ、寂しさだけを抱えていた。



あ。

また、今回も連絡先を聞かなかった。
華の独身なんだから、聞いてもいいのに。
僕は、自分の段取りの悪さを悔やんで、帰途に就いた。












帰りは、ロマンスカーには乗らず、
各駅停車と快速急行を乗り継いで、新宿まで帰った。

ロマンスカーに乗ると、往路の佳子さんとのことが思い出されてしまい、
切ないからだ。

往路は、オロオロもしたけど、よく考えたら最高だった。
だって、偶然にも佳子さんと隣同士の席になり、そのあと一晩一緒に過ごせたんだから。

しかし、きょうの復路は、最低だ。
追い出されるように帰ることになってしまい、僕の心は袋だたきにあったような気がする。

箱根駅伝でいうと、往路優勝したのに、復路でがくんとシード落ち、みたいなものか。
なんて浮き沈みが激しいんだ。すごいことだ。

そんなことを思って、マンションの近くまで来た。


しかしこのとき、僕は箱根で起きた「すごいこと」に心を奪われていた。

「すごいこと」というのは実は厄介で、
「もっとすごいこと」の前ぶれであることが、まれにある。

大きめの地震があって「すごいことだ」とびっくりしたけれども、
実はそれは前震で
「もっとすごい」本震がそのあと来た、というのは
大変残念ながら、近年、繰り返しあった。

本当は「すごいこと」が起きた段階で
「もっとすごいこと」が起きるかもしれないと準備しておくことが、大事だ。


人間は「すごいこと」が起きると、
ついその「すごいこと」を振り返ることに集中してしまい、
次に「もっとすごいこと」が起きる可能性に思いを致すことをやめてしまう。


このときの僕も、そうだった。
箱根での「すごいこと」ばかり考えて、帰ってきた。


平日の昼間なので、のんびりと家の鍵を開けた。
すると、意外なことに、中からみわちゃんが飛び出してきた。

僕 「みわちゃん?」
みわ「おかえり」

その声のトーンの低さに、驚いた。
みわちゃんと言えば、いつもかわいらしい、丸ゴシックのような声をしていたが、
このときはどう聞いても明朝体の声をしていた。
何があったのだろう。

僕 「どうしたの?会社は?」
みわ「きょう、休んだの」

みわちゃんが会社を休むのは極めて珍しい。
僕と付き合い始めてから、風邪を引いたことはあったが、
インフルエンザじゃない、人にはうつらない、と言って
38度の熱があるときも会社に行ったみわちゃんだ。

そのみわちゃんが休んだ、と聞いて僕はちょっと怖くなった。

僕 「どうしたの?休むなんて」
みわ「石井さんに、話がしたかったから」
僕 「話?」
みわ「そう」

いったい何の話なんだろう。僕は思いつくフシがなかった。

僕 「何の話?」

僕がそう言うと、修羅場が始まった。
みわちゃんの顔はみるみる赤くなり、夜叉のような表情になった。
そして、みわちゃんはクッションを、思い切り床に叩きつけた。
クッションの中の白い羽毛が飛び出してきて、華やかに乾いた空気の部屋に散る。

僕 「ええ、どうしたの?」
みわ「ゆうべ、LINEくれなかったでしょ!」


僕はそこで初めて「しまった」と思った。
毎朝毎晩「おはよう・おやすみなさいLINE」を、僕たちは欠かさず交換してきた。
同じ家の中で、隣にいるときも送りあっていた。

しかし、今朝僕が気付いたように、
ゆうべから、みわちゃんにはまったくLINEを送っていない。
これは、付き合い始めてから、初めてのことだった。

みわ「なんで送ってくれなかったのよ!すごい心配したのよ!」
僕 「いや、ごめん。本当にごめん。」

僕は必死で謝った。
実は、今までも、LINEを忘れそうになったことはあったが、
エレベーターに乗ったときとか、隙間隙間の時間でスマホを見てばかりだったので、
スマホを見て思い出す、ということで危機は救われてきた。

ところが今回の箱根では、ロマンスカーで佳子さんに会って以来、
実はまったくスマホを見ていない。佳子さんの方ばかり見ていた。
帰りの電車の中では落胆して、スマホを見る気力がなかった。
それに、なんだか腑抜けてしまって、眠かった。
こんなに長い時間スマホを見なかったのは、6年前にスマホを買ってから初めてだ。

みわ「すごい心配して、いっぱい送ったのに!」
僕 「いや、ほんとごめん」

僕があわててポケットの中からスマホを取り出し見ると、画面は通知の嵐だった。
LINEの通知が30件、電話の着信通知が5件あった。

僕 「あの、電話もしてくれたんだ」
みわ「そうよ!メールもいっぱい送ったんだからね」

見ると、みわちゃんからのメールは10通来ていた。

僕 「いや、いや、ほんとごめんなさい」

僕は誠心誠意謝った。しかし、みわちゃんは許してくれなかった。

みわ「だって、約束したでしょ。おはようLINEとおやすみLINEは必ず送るって!
   約束破る人、キライ!」

みわちゃんは、僕が今まで見たことなかったような、怒り方をしていた。
僕はさらに謝った。

僕 「本当にごめんなさい。僕が悪かったです」

スマホを見るヒマがなかった、というのは言い訳になるし、
実際にはヒマはあったので、それを言うのはやめた。

僕 「みわちゃんを心配させて、本当に悪かったです」
みわ「本当にそう思ってるの?」
僕 「うん。思ってる」

僕は本当にみわちゃんを心配させて申し訳ないと思っていた。

みわちゃんは、小学生のときはポケベル、中学生のときはPHS、
高校生・大学生のときは携帯、社会人になってからはスマホと、
物心ついた時から、誰かと個別につながった道具をつかって生きてきた。

特にみわちゃんは、こういう道具が大好き、というか
ないと生きていけないと思っているようで、
主要な人から連絡がないと、耐えられない、ということは前から知っていた。

だから僕も連絡は絶やさないようにやってきたけど、それは結構負担のかかる行為で、
たとえば同じ家の同じ部屋で、コタツに一緒に入っているのに
なんでLINEを送らせようとするのか、など疑問に思うところはあった。

ただ、そんなみわちゃん相手に連絡を1日以上絶やしてしまった僕は、確かに悪い。
僕はなおも謝った。

僕 「いや、ほんとにごめんなさい。申し訳ないです」
みわ「じゃ、なんで連絡くれなかったの?」
  「変でしょ」
  「変態!」

そう言われて、僕は少しひっかかった。いや、確かに1日以上連絡を絶やした僕は悪い。
でも、「変態」とまで言われる筋合いはあるのか。僕はちょっといらっとした。
そこで、みわちゃんに対抗するために、あえて嘘を混ぜた。

僕 「すみません。実は、箱根の峠の上にいて、電波が届きにくかったんだよ」
  「でも、箱根を降りたら、そのことの説明も含めて、
   すぐ連絡しないといけなかったね。すみません」

実際には、峠の上でも携帯の電波は十分届くはずだが、
まさか、佳子さんへの対応に精いっぱいで連絡するのを忘れていました、とか、
気づいてはいたけど、後回しになっていました、などと言うと、
火に油どころか、火にガソリンを注ぐことになってしまうので、
和平を優先する意味でも、嘘を混ぜた。

するとみわちゃんは、案外簡単に矛を収めた。

みわ「あ、そうなの?うーん、なら、仕方ないかも、なあー」
僕 「いやごめん。帰り道すぐに連絡すべきだった。ごめんね」

僕がそういうと、みわちゃんは少し落ち着いた。

嘘も方便で、これで結果的にはいいのかもしれないが、僕はあまりいい気分ではなかった。
なんでLINEが来ないことに、そこまで怒るのか。僕にはよくわからなかった。
送らなかった僕は確かに悪いけど、無事に帰ってきて、対面できたことに対して、
何も言ってくれないことについて、僕は多少の疑問があった。

みわ「今度から、気をつけてね」
僕 「うん。ごめんね」

僕はそう言って、頭を下げた。

それを見ると、みわちゃんは、ベランダに通じる窓のところまで歩き、外を見た。


みわ「あのね」
僕 「うん」


みわちゃんは、こちらを向いた。

みわ「土曜日、パパとママに会ってほしいんだ」
僕 「え?」

僕は、突然の申し出に驚いた。
みわちゃんのご両親には、実はすでに同棲前から会っていて、
同棲するときもご両親に許しを得た上で同棲している。
なんで、今また?僕はまた疑問に思ってしまった。

僕 「あの、ご両親には、何回かお会いしているよね」
みわ「うん」
僕 「何かお話したいこととか、あるってこと?」
みわ「うん」
僕 「何だろう」

すると、みわちゃんは一息ついて、こう言った。

みわ「パパとママがね、石井さんに、婿養子に来てほしいって、言いたいって」
僕 「婿養子?」
みわ「うち、去年、妹がお婿をとらずにお嫁に行ったでしょ」
僕 「うん」
みわ「それから実は、あなたが婿養子をとりなさいって、猛烈に言われていたの」
僕 「え、そうなの?」
みわ「そう。で、何度も石井さんに頼めって言われていたの」
僕 「そうなの?」
みわ「でも、まだだからって言って、防いできたんだけど、
   最近、それなら家に帰ってこいって言いだして、大変なの。
   それできのう、実家に帰っていろいろ話したのよ」
僕 「そうだったんだ。それで?」
みわ「何度も言ったんだけど、だめで、もう連れて来なさいって話になっちゃった」
僕 「そうなんだ・・・でも、どうしてそんなに婿養子にこだわるの?」
みわ「財産よ」
僕 「財産?」
みわ「そう。うちはパパがおじいちゃんの資産をたくさん受け継いだんだけど、
   このままだとママと私と妹しか相続できないから、石井さんにもぜひって」
僕 「ええ、僕にも」
みわ「そう。いい話でしょ」


みわちゃんのお父さんは資産家で
「山河不動産」という会社を営んでいると聞いたことがある。
僕に財産をくれようとしているのか。それは確かにいい話だし、
みわちゃんを大事にしたい気持ちはあるけれど、
財産をもらうために婿養子に行くというのは、なんだか釈然としない。

僕 「でも、ずいぶん急だね。この間までは、結婚はいつでも、とか言っていたのに」

僕は、去年ご両親に会った時に、そう言われた。
みわちゃん自身も、急いでいなかったはずだ。それなのに、なぜ?

みわ「うん。確かに去年はそう言ってたんだけどね」

そう言うと、みわちゃんは少し話題を変えた。