みわ 「ほら、チャンネル変えるよ」
僕  「あ、ごめん」

ちょっと放心状態だった僕に、わけのわからないみわちゃんが冷や水を浴びせ、
僕はほんの一瞬の昭和から、正気を取り戻した。



あ。
そういえば、今週の火曜日だったと思うが、朝、竹橋の気象庁に調べ物に行く途中、
急いで乗ったタクシーのFMラジオからも「涙をこえて」が流れていたな。

10時少し前の、夏らしい、みっしりとした濃密な緑色の空気の中。
赤坂見附から竹橋に向かう坂を上りながら、「涙をこえて」を聞いた。

そのときは、ぼんやりとしか聞いてなかったけど、
2回目を聞いた今、ぼんやりがはっきりに変わった。

人間の記憶は、1回だとあいまいで、2回だとはっきりよみがえるのか。
僕は人間の記憶の不思議さを少し感じた。
でも、この久しぶりのメロメロと、少し不思議な感覚が、実はスタートだった。

この日の「涙をこえて」から、
ゆっくりと近づく美しい彗星に、ひそやかに飲み込まれるように、
僕の運命は、動き出していった。














平成28年9月2日、金曜日。

夕方になった。
午後はいつも、3時半くらいから明日の予報の資料が出始めるため、
夕方は忙しいはずだが、きょうはたまたま後輩が予報もコメントもやってくれるという。

予報士の仕事は、世間で思われているほど派手ではなく、地味な作業の繰り返しで、
いま盛んに言われている「働き方改革」にもついていっていない、長時間のつらい仕事だ。

しかし、たまに後輩が仕事を代わってくれることがある。
これだけドライで、自分の範囲の仕事しかやらない人が多い中、
昭和の助け合いみたいな精神がまだ少し残っていることに、僕はありがたさを感じていた。

おかげで今日は早く帰れる。さあ、何しようか。
何か思いつくきっかけになればと思い。
珍しく喫茶コーナーにある、テレビをつけ、ザッピングを始めた。

たまたまBSのNHKがついた。歌番組が始まったところだった。
きょうは新潟からの公開放送だという。
すると司会者が、「青春のさわやかさを称える歌から始めましょう」と言って、
いきなり「涙をこえて」が始まった。

そういえば、先週も2回、「涙をこえて」に出会ったな。
偶然も、3回続くとすごいねえ。

やはり、Bメロでメロメロした。ちょっと明るく、ちょっと暗い。
Bメロのあとにくる弦楽器が僕の心の糸を弾くように、響いてくる。
今の時代にない感覚だ。

そこで、ふと思った。ひょっとしたら、僕は「涙をこえて」の時代、
つまり昭和のよさを求めているんじゃないかな。
いやいや、でも、今の平成みたいに、こんな便利でいい時代ないぞ。

でも、便利だけがすべてなのか?

いやいや、昭和って、連絡とりにくかったらしいぞ。
携帯、今でいえばスマホがない社会なんて、ありえないじゃないか。

そんな意味のないラリーを自分の頭の中で繰り広げながら
「涙をこえて」に、またメロっとした。



その後はしばらく、何もない、一見平和そうな状態が続いた。

しかしまさかこの歌が、運命のカスガイになるなんて
このときの僕には思いもしなかった。

僕が運命に飲み込まれるまで、あと4か月になっていた。













平成29年1月。



新年早々、手帳を落としてしまった。

幸い、年が始まったばかりで中身は何も書いておらず、
書いてあったのは僕の名前と携帯の番号だけだった。

僕は、あまり気にすることもなく、
また気象庁の本屋に行って買えばいいか、と思っていた。



ところが、数日後の夜。家にいたところ、携帯が鳴った。
みわちゃんは、ヨガの教室の新年会だそうで、いない。

携帯を見ると、番号非通知だった。
坂の上テレビは電話交換機が古いか何かで、
いつもかかってくる電話は非通知だ。

「予報、しくじったかな。呼び出しかも。」と思い、電話に出た。

すると、女の人の声がした。

「あのう、石井さんの携帯ですか」というのが、第一声だった。



僕 「はい」
女性「あのう、手帳をバスで拾ったんですけど。」
僕 「あ、そうなんですか。ありがとうございます。」


ずいぶん親切な、でも、変わった人だと思った。

僕だったら、仮に手帳を拾っても、
バスの運転手か交番に届けるくらいしか、しないだろう。
なんでこの人、わざわざ電話かけてきたんだ?
その理由は、ずいぶん後にならないと判明しないので、とりあえず話を続ける。


僕 「そしたら、お手数なんですが、最寄りの交番にでも届けていただけると助かります。
   どちらの交番が近いですか」
女性「えっと、中野坂上ですね」
僕 「ありがとうございます。お時間あるときで結構ですので」


中野坂上だったら、新宿の僕の家から、わりと近い。歩いても行ける。
僕は珍しいことに、ありがたいな、と思って話を聞いていた。

女性に名前を聞くと、田中さん。ありふれた名字だねえ。
めんどくさくなくていいや。

ここまでの僕は、淡々と考えていた。


しかし、次の瞬間、僕は急に、悪寒がするような感じがした。
突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。
記憶のどん底から突然湧き出る、妙な感覚を覚えた。

何だろう。
意外にも、それは、わりとすぐにわかった。


「この人の声、聞いたことある」


少し甘く、かすかにかすれた声。
ひょっとして、もしかして、あの人じゃないか。

いやいや、まさかそんな。そんなことあり得ない。映画じゃないんだから。
それに、名前違うし。

女性「では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。
   失礼しました--」

電話が切られようとした。

まずい!ここで言わないと、僕、また後悔する。
僕は、意を決した。珍しく、めんどくさい方に。



僕 「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください」
女性「…何ですか?」

女性は、不信感をたたえた声で応えた。

私 「あのう、大変失礼ですが、間違っていたら申し訳ないんですが、
   ひょっとして、もしかして、
   田中さんって、池田さんじゃないですか?」

僕は、祈るような気持ちで、話を持ち出した。女性は3秒黙った。
放送事故か?と思えるくらい、長い間だった。

しかし、間があけた後は、事故ではなかった。


女性「…そうですけど。」


僕は声を大にして言った。

僕 「あの、私、予備校でお世話になった、石井です!」




ここで、少し、僕の過去の説明をしなければならない。

僕は、高校受験で早稲田大学の付属校に2つとも落ちて、
東京六大学の別の大学の付属校に通っていた。

でも、早稲田大学にどうしても行きたくて、
高校3年のとき、代々木にある予備校に通っていた。
平成5年のことだった。

そこには、早稲田大学に合格した先輩で、
後輩の高校生の面倒を見るチューターというアルバイトがいた。

そのチューターの1人が、池田佳子さんだった。

佳子さんは、僕に早稲田大学に入るための勉強法をいろいろ教えてくれた。
そして、できの悪かった僕を何とかしようとしてくれた。

ものすごく色白で、肩を少し追い越すくらいの黒髪。きりりとしたまなざし。
凛とした表情で、気品のあるたたずまい。

女子御三家といわれる名門の高校の出だけど、それをあまり感じさせない快活さと
同居するつつましさ。
そして、かわいい笑顔と、細やかな面倒見のよさ。

どれをとっても、落ちこぼれの男子高の生徒だった僕が見たことのない世界の人だった。
僕の中で、最高のプリンセスだった。


「私がなんとかしてあげるから。」


佳子さんのやさしさは、15歳で突然母親を亡くした僕の心に、
深く、深く、染み入った。

そして、佳子さんのことを、すごく好きになった。
僕は、佳子さんと同じ大学に入るためにがんばろう、と思うようになった。
   
予備校に行くのも、やがて佳子さんに会いに行くが目的になり、
一日中佳子さんのことを考えて、「僕、毒されている」と思うほどだった。

でも、それがものすごく心地よかった。

それに僕は、高校3年の途中から学校に全く行かずに、グレていた、
どうしようもない高校生だった。

でも、佳子さんがいてくれたおかげで、偏差値50以下だった僕が
最後には1日18時間勉強した。

あれだけ「勉強しろ、勉強しろ」とうるさく言っていた父親が
「お前は勉強のしすぎだ。おかしいぞ。」と青くなっているのを見て、
僕の方が驚いた。

そして、佳子さんに抱きしめてもらった湯島天神の青いお守りを持って入試に臨み、
ついに、佳子さんと同じ早稲田大学に合格した。

平成6年の春だった。

合格したら告白しようと思っていたので、
佳子さんにいよいよ「好きです」と言おうと思った。

しかし、当時は携帯などない時代で連絡もうまくとれず、
僕もヘタレだったので、せっかく同じ大学に入ったのに、
その後会えたのは、大学1年の5月にすれ違った1回だけで、ほとんど何も話せなかった。

初夏の強い日差しのもと、白っぽいワンピースがかわいかった、佳子さん。
その姿を見て以来、関係はぷっつりと途切れたままだ。


それが、今、23年のときを越えて、電話口の向こうに、佳子さんがいる。
僕は、必死に、笑ってしまうくらい必死に、熱っぽく話しかけた。

「あのう、覚えていますか」

しかし、佳子さんの返事は、とても残酷なものだった。

佳子  「申し訳ないんですけど、覚えていません…」

がーん。悲しくて、胸が落ちる。
うーん、でも、そりゃ、そうだわな。僕が一方的に好きだっただけなんだから。

しかし、僕はあきらない。あきらめてなるものか。
僕は覚えているエピソードを次々と話しはじめた。


粘ること数分間。

僕 「あの、私、一番前の席にいつも座っていて・・・」

そこで、佳子さんが不思議な間合いで黙った。
いまだ、ここだ。僕は、たたみかけるように話した。

僕 「授業前にいつも、僕の隣に座ってくれて、ノート見てくれましたよね!」

僕はいつも、チューターの佳子さんが勉強を見に、
隣の席に座ってくれる瞬間が、ものすごく、ものすごく楽しみだった。

かすかに薫る、ものすごくいい匂い。
その一瞬のために、僕は隣の席に絶対に誰も座らないよう荷物を置いたりしていた。
ほんとに、しょうもない高校生だった。


佳子 「ああー・・・少し思い出した」

僕は、ほっとした。
よかった、佳子さんが思い出してくれた。


それから、ぽつりぽつりと、いろいろな話が出てきた。
まだ、川水からわずかな砂金をすくい出すような、ぽつりぽつりとした話だった。

しかし、どんな川水も、ぽつりぽつりとした雨からすべては始まる。
やがてこれが、大きなうねりをもたらす大河の一滴になるかもしれない。
僕はそう信じて、珍しく、面倒くさくも、丁寧に、熱っぽく話を進めた。


そしてしばらく話すと、佳子さんも少し打ち解けた。
僕は、すっかりうれしくなっていた。

女の子に話をするなんて、聞くなんて、面倒くさいだけだったのにな。
なんでこんなに心地いいのだろう。僕はよくわからなかった。

そんなわからなくなっている僕の、不意を突くように、
佳子さんは、さらにうれしいことを言ってくれた。