朝は、たいそうなカラスの鳴き声から始まった。

本当は、小鳥のさえずりくらいがちょうどよいのだろうけど、
峠の上までやってくる勇ましい鳥は、カラスくらいしかいないらしい。

カラスというのは不思議な鳥で、頭がよく、目がよく、物おじしない。
人が近づいていっても、平然としているカラスが多い。

カラスのように生きていられればいい、と思うこともあるけれど、
そんなカラスは真っ黒だ。
すべての色のペンキをかぶってしまったから、黒いという話を童話で読んだ。
業を背負わないと、カラスのようには、なれないのか。
黒くならないと、カラスのようには、なれないのか。
カラスたちから、一度じっくりと聞いてみたい。


そんなカラスの大合唱で、僕は目を覚ました。

遮光カーテンの隙間から、はっきりとした日差しが見えた。
きょうは朝曇るはずだったが、早めに寒気が抜けて、青空が広がったのだろう。

僕は佳子さんの方をちらりと見た。まだ、寝ている。
ああ、ゆうべのあれこれは、夢じゃなかったんだ。
今、何時かな。でも、今日は休みだからいいか。

ここで、僕は
昨夜、みわちゃんに「おやすみなさいLINE」を送るのを忘れていたことに気づいた。
別々にいるときは、「必ずおやすみなさいLINEをしてね」って、
みわちゃんにはきつく言われている。

みわちゃん、昨夜はそれどころじゃなかったんだ。ごめんね。
今朝のLINEで謝るか。どうやって謝ろうかなあ。
そんなことを考えていると、隣の布団から、もやもやした声が聞こえた。


佳子「起きたのお?」
僕 「うん」
佳子「おはよお」
僕 「うん、おはよう」


佳子さんは、なおも眠たそうだった。
僕は自分の布団をはがし、日差しが筋のように差し込むカーテンに向かい、
そこで少しだけカーテンを開けて、表の様子を見ようとした。

朝、どんな空模様になっているか。湿り気はどれくらいか。気温はどうか。
その3つを確認しないと、僕の予報士としての一日が始まらない。
これは、仕事をしている日はもちろんだけれど、仕事をしていない日も必修科目だ。
別にこれをやったらからと言って給料をもらえるわけではないけれど、
毎日連続して感じることが、違いを感じることにつながるので、予報の仕事には不可欠で、
それは僕が休みであるかどうかは関係ない。
自分の仕事を伸ばすために、
休みでも不可欠なルーティンをこなすのは必要だと僕は思っている。


きょうもそのルーティンだ。

カーテンをちらりと開ける。窓をそっと開く。
開いたとたんに、ぶわりとした重たい寒気が、窓の下の方から攻め入るように入ってきた。

氷点下5度はあるだろう。さすが箱根。
しかし、空気は案外乾いていて、ぶわりと入ってきた後は、
さらりと抜けていくような感じだった。

このさらりが、きょうの青空をもたらしている。
上空を見上げると、水色の鮮やかな天空に、
綿あめのような雲が3つくらいお邪魔していた。
この綿あめは、きょうの乾き具合からすると、このあと早めに溶けてなくなるのだろう。

僕がルーティンをこなして、ふと下界に目を移すと、
ホテルの裏の広場に、ジャージやウインドブレーカーを着た従業員と思われる人たちが
10人ほど、わらわらと集まり始めていた。

これから、ラジオ体操でもするのか。
朝といえば、宿にとってはずいぶん忙しい時間のはずなのに、
余裕があるんだな、と思った。

すると、スピーカーから音楽が流れた。ちょっとヨーロピアンな感じの曲だ。
続けて、八神純子さんの伸びやかな声が聞こえた。


「こーころーのー」

あ、「涙をこえて」か。
ずいぶんスタイリッシュな「涙をこえて」だ。
こんな「涙をこえて」もあるんだな。

僕がそんな発見をしていると、ジャージを着た人たちがパキパキと踊り始めた。

あ、きのう踊ってくれた精鋭音楽団の人たちか。朝から体を動かすんだな。
そう思っていると、後ろから眠たい声が聞こえた。


佳子「ああ、踊り始まった?」
僕 「うん」
佳子「毎朝踊るのが、大事なのよねえ」
僕 「毎朝?」
佳子「そう。毎朝」
僕 「なんで、毎朝?」
佳子「踊りって、繰り返すことが大事なのよね」


佳子さんはそう言うと、もぞもぞと起き上がり、
敷き布団の上に、足を斜めに折りたたんで、座った。

佳子「ある動きを覚えたら、 ただひたすら繰り返すの。
   次に、どうしたらもっと滑らかになるか、きれいにできるか、繰り返し、
   やってみるのよね」
「そしたら、だんだん力が抜けていって、 ゆったりと、しかも、呼吸しながら   
するっと動ける瞬間がくるの」
僕 「へえ」
佳子「『踊りがするり』って、たぶんそういうことなのね」
僕 「するりって、踊りが、なんかこう、体に入ってくるってこと?」
佳子「うん。でも、不思議でね。 入ったと思った途端にできなくなったり、
   ちょっと間が空くだけで、まったく分からなくなったりもするの。
   でもずっと後になって、自分でも無意識のうちに、繰り返していたことが
   突然できるようになったりもするから、 踊りが入るのは段階として大事なのよね。
   繰り返すって、一見単純作業だけど、とても複雑で、緊張感あるのよね。
   いつ、自分がいい踊りができるかなんて、わからないから」
僕 「ふーん」  
佳子「繰り返して、繰り返して、この世でたった一度、めぐり会える瞬間を信じてやるっ
   てことが、大事なのよね」


僕はそこでピンときた。
今の「この世でたった一度、めぐり会える」というのは、「涙をこえて」の一節だ。


僕 「ああ、だから『涙をこえて』をかけて練習してるんだ」
佳子「そう。いつ、この世でたった一度めぐり会える瞬間が来るのかはわからないけど、
   踊りって、それを信じてやるのよね」

佳子さんの、ダンスの先生らしい言葉を聞いた。
僕は外をのぞくのをやめて、布団のところに戻ってきた。

僕 「八神さんの歌、かっこいいよね」
佳子「うん。あたし好きなの」
僕 「いいよね」
佳子「前、名古屋でコンサートがあったとき、行ったなあ」

そういえば、八神さんは名古屋の出身だ。

僕 「ああ、名古屋。」

僕はなつかしい地名を聞いた。

僕 「僕も、3年くらい名古屋の放送局にいてね。楽しかったなあ」

僕は6年前から3年前まで、名古屋のしゃちほこテレビで仕事をしていた。
おいしいものがたくさんあって、楽しかった。

佳子「そうなんだ。いつごろ?」
僕 「6年前から3年前まで」
佳子「ああ、じゃあちょうどその頃ね。あたしが行ったのも。
   平成25年の6月16日だったと思うわ」
僕 「そうなんだ」
佳子「そうそう、コンサートの前に、NHKとかしゃちほこテレビで公開トークがあって
   それも見に行ったんだよ。追っかけみたいに」


僕は、驚いた。


僕 「え、じゃあ、しゃちほこにも来てたの?」
佳子「うん」


僕は当時、しゃちほこの公開番組の気象情報の担当で、スタジオに毎日いた。
ということは、佳子さんはそのスタジオの観覧者の中にいたということか。


僕 「僕、しゃちほこにいたんだよ。しかも、公開番組に」
佳子「へえー」
僕 「ひょっとしたら僕たち、そのときに会っていたのかもしれないね」
佳子「うん、そうだね」
僕 「不思議だねえ」
佳子「不思議ね」


ということは、そこで見つけていればもっと早く出会えたのかもしれないな。
みわちゃんと出会ったのはその次の年、
僕が東京の坂の上テレビに移ってからのことだからな。
そんな、みわちゃんにとって失礼なことを考えてしまっていた。


佳子「彗星みたいだね」
僕 「彗星?」
佳子「そう。彗星って、惑星にぶつかりそうで、ぶつからないじゃない」
僕 「ああ、ニアミスするよね」
佳子「あたしたちも、ニアミスしてるんだねって、思った」


佳子さん、朝からうれしいことを言ってくれる。
確かに、僕たちはニアミスをしてきたのだろう。
しゃちほこテレビの公開番組のときは、ひょっとしたら
10メートルくらいの距離まで近づいた、すごいニアミスだったのかもしれない。

東京に移ってきてからも、近くに住んで、職場も近くて、
通勤に同じバスを使っているのだから、
一本違いのバスに乗ったり、あるいは同じバスに乗ったりしたのだろう。

神様はそんなニアミスで僕たちを近づけて面白がっているうちに、
ついにぶつけてしまった。
僕たちは神様の不手際で再会してしまったのかもしれない。
こんな不手際なら、僕は大歓迎だ。


僕 「ニアミスしているうちに、ぶつかったね」
佳子「そうだね」
僕 「去年、彗星が町にぶつかるっていう映画を見たからかな」
佳子「あ、それって『君の名は。』でしょ。あたしも見たよ」
僕 「ああ、それで彗星みたいって言ったんだ」
佳子「そう。ワンコちゃん、代々木の駅でお別れするときに『君の名は。』のこと
   言ってたでしょ。あたしそのとき、ニアミスしていた彗星がついにぶつかったって 
   思ったのよね」

僕は、そう言えば、あのとき、佳子さんが口ごもっていたのを思い出した。

ニアミスの彗星の話をしたかったのを、僕が遮って、
「これからもがんばって」みたいなことを言ってしまったんだな。僕は少し後悔した。

僕 「ああ、それがあのとき言いたかったんだ。ごめんね」
佳子「ううん、いいの。今言えたから」
僕 「うん。あの映画、よかったよね」
佳子「よかったよね。なんだか、究極の共感みたいな感じで」
僕 「究極の共感?」
佳子「うん。人間には誰しも、忘れられない名場面があると思うんだけど、
   でも、それって頭の中でいつもひっそりと眠ってて、なかなか思い出せないのよね。
   でも、あの映画にはなんかそういう見た人の名場面を呼び覚ます力があるんだなあ
   って気がしたの」
  「それで、見た人それぞれの『君の名は。』がその場で生まれて、見た人の頭や心の中
   で生き生きと展開していくのよね」
僕 「そっか、だからみんないいと思うんだ」
佳子「そうそう。何度も見たくなるっていうのも、その生き生きとした展開にまた浸って
   みたくなるからじゃないかなあって、思う」
僕 「うん」
佳子「だからあたしも、共感してもらえる、何度も見たくなるようなダンスがしたいのよ 
   ね。見た人それぞれの頭の中に、何か、その人だけの花を咲かせられるといいなっ  
   て」


佳子さんのダンスの夢は大きかった。
見た人それぞれの中で展開する。素晴らしいことだと、僕も思った。

そういえば昔、紅白歌合戦をラジオで聞いたとき、
実況のアナウンサーが冒頭でこんなことを言っていた。

「お仕事中の方、病院に入院している方、車の中にいる方。
みなさん一人一人の、紅白歌合戦です」

そうか、いいコンテンツって、一人一人の中に生きるんだな。僕はそのときそう思った。
今の話も、きっとこの話につながるものがある。
そして僕は、ひそやかな願いを佳子さんに思い切って打ち明けた。


僕 「できたら、『君の名は。』の主人公たちみたいに、なれたらいいな」
佳子「うふ」


佳子さんは、はっきりした返事をしなかった。
時をこえて出会うという設定は、一緒なんですけど。
そう思っていると、佳子さんは、話題を変えた。