佳子「あ、見ちゃダメ」


そう言うと、佳子さんはパッと両手で顔を隠し、少し顔をそむけた。


僕 「え、なんで?」
予期しない台詞がきたので、僕は少し戸惑った。


佳子「だって、すっぴんなんだもん」


ええ。まったく気づきませんでした。どのへんがすっぴんなのですか。
というか、いつからすっぴんなんですか。
3つのうちどれを言おうか、迷った。その末に聞いた。


僕 「いつからすっぴんなの?」
佳子「寝る前から」
僕 「そうなの?全然気づかなかったよ」
佳子「えー、すっぴんって全然違うのよ」
僕 「どこが」
佳子「…まつ毛をとったの」


そう?僕はまったくわからなかった。
さっき涙がにじんだ目を見たけど、全然気づかなかった。

そんなにまつ毛、重要なんですか。
僕は聞こうとと思ったが、重要なんだからこだわっているわけで
あまり聞いても意味がないと思った。そこで、話題を変えた。


僕 「さっきみたいに、吐き気がすることって、よく、あるの?」
佳子「あるの」
僕 「たまに、突然、くるよね」
佳子「そう、私も」
僕 「5分か、かかると10分くらいは続くよね」
佳子「うん。悩みをこなす時間と同じくらいかな」


僕はまた小さな発見をした。
僕も、嘆いたり悩んだりするのは5分まで、と決めているけど、
たまに10分以上かかることがある。

この吐き気・嘆き・悩みスパンも、佳子さんと僕は一緒なのか。
少しまた、うれしかった。


僕 「佳子さんも、悩むの?」
佳子「そりゃ、悩むわよ」
僕 「こんな、頭いいのに?」
佳子「頭なんてよくないよ。記憶のメモリーがちょっと広いだけ」
僕 「ちょっとどころじゃあ、ないよ」
佳子「そんな差はないわよ」


佳子さんは、謙遜していると思った。

そういえば、昔、佳子さんが予備校のチューターだったときに、
あまりにかわいいので予備校のパンフレットで、モデルになっていたな。
もう大学生なのに、高校生の生徒役で。
予備校は佳子さんを何年も使い回した。

その当時の佳子さんと、今の佳子さんは、あまり変わらない。
それはすごいことなんですよ。
僕はよほど佳子さんをほめたかったが、また謙遜するだろうと思ってやめた。


僕 「じゃあ、どんな悩みなの?」
佳子「ええっと」
僕 「うん」
佳子「きょうは、ワンコちゃんに吐くところ見られないようにっていう悩みかな」
僕 「そうなの」
佳子「うん。だって、ワンコちゃんも吐き気あるって知らなかったから」
僕 「そう」
佳子「見せたくないと思ったら、逆にどんどん追い込まれるのよね」
僕 「だよね」
佳子「不思議よね。人間って。見せたくないものは見せることになってしまって、
   本当に見せたいものが、見せられないんだよね」
僕 「そうそう。それを皮肉っていうよね」


僕は、佳子さんより先に、何としても「皮肉」という言葉を言いたかった。


昔、佳子さんが僕に
「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。
皮肉とか、矛盾とか、出てきたら、絶対チェックだからね」
と教えてくれたことを、今ここで実践したかったからだ。


すると手で顔を隠していた佳子さんは、パッと手を放して、僕の方を向いてくれた。


佳子「皮肉。よく出てきました。よくできたね。よく覚えていたね。
   教えた甲斐、あったわあ」

佳子さんはすっぴんを隠さずに、笑ってくれた。

一応確認したが、すっぴんかどうかなんて、まったく、わからない。
このまま外に出ても、おかしくない。そう思った僕は、思わず言ってしまった。

僕 「あの、やっぱり、すっぴんだって、わかんないけど」
佳子「そおお?大違いよ」
僕 「どこが?」
佳子「なんでまた言わせるの?まつ毛が短いの!」

佳子さんは少しいらだったが、僕は落ち着いていた。
それは、違いが全く分からなかったからで、自分の見方が違っているとも思えなかった。

僕 「あのう、佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「佳子さん、気にしすぎじゃないかなあ」
佳子「そお?」
僕 「だって、本当にわかんないもん」
佳子「そんなことないよ」
僕 「いや、わかんない。100人いたら、99人わかんない」
佳子「そうかしら」
僕 「そうだよ」
佳子「うーん」
僕 「だって、寝癖とかもそうじゃん。本人が気にしすぎるくらい気にしても、
   他人は誰も気にしない。本当に、誰も気にしない。
   でも、その数センチにこだわって、みんな無駄な時間を過ごしているんだよね。
   細かな違いは、他人が気にしないんだったらいいんじゃないかなあ」
佳子「そっかあ。でもあたし、目元、ほかの人より弱いからなあ」
僕 「そんな、他人と比べてもあんまり意味ないよ」
  「比べると、まず間違いなく、自分より他人の方が、すばらしく見えるじゃん」
佳子「うん」
僕 「でも、自分と他人の間に、ほんとにどれだけ差があるかは、実は自分ではわかって
   いないことが多いんだよね。
   それに、第三者は、自分と他人の差について、あまり、というか全然気にしていな
   いし」
佳子「そっか」
僕 「僕は、一番いいのは、自分がどれだけ力を伸ばしたかを 気にすることだと思うな。
   他人を上回ることにも意味はあるけど、自分を上回ることに、より大きな意味があ
   るんじゃないかな。目指すのは、自己最高記録なんだよね、僕はいつもそう」
佳子「そうなの?」
僕 「うん。それに、自己最高記録をコツコツ、マニアックなくらいコツコツ更新してい
   くと、結果的に、ほかの人を上回るんだよね」
佳子「ああ、そうかも」
僕 「それに、昨日の続きの今日ではなくてね、明日に続く今日にしないと」
佳子「うん」
僕 「天気予報はいつも、明日があるから」
佳子「あ、明日があるさ、だね」


佳子さんは、昭和の名曲の題名をつぶやいた。
これも、あの「涙をこえて」を作った中村八大先生の作曲だ。
つくづく、縁のあるものが出てくる。おかしなくらいに。


僕 「じゃあ、また横になろうか」
佳子「うん」


僕たちはようやく、洗面所を後にした。
洗面所はすっかり冷え切り、板の間の廊下はさらに冷え切っていた。
僕たちは元日の郵便受けに年賀状をとりに行く人のように、いそいそと歩いた。


部屋に着き、僕たちはまた分厚い布団にもぐりこんだ。
それはまるで、築地市場のラーメンの厚切りチャーシューの下に、
もやしのような具がもぐりこむような感じだった。


佳子「ねえ」
僕 「うん」

もやしたちの会話が、また始まった。

佳子「また、ワンコちゃんに教わったね」
僕 「そんな、大したことないよ」

僕の謙遜は、いつも「大したことないよ」になってしまう。
もっとバリエーションを増やさないと。そう思っていると、佳子さんは続けた。

佳子「なんだか、涙が出ちゃうんだよね」
僕 「なんで?」
佳子「あたし、全部キメキメじゃないと、安心できないんだよね。
   風貌とか、構成とか、展開とか、段取りとか。
   だから、すっぴんだと不安になるし、他人より劣っているような気がするし。
   でも、さっき『自己最高記録』って聞いて、ああ、合点いったって感じ」
僕 「ふうん。構成とか、展開とか、段取りとかも?」
佳子「うん。あたしそういうキメキメ構成とかバッチリやりたくて雑誌の編集やったんだ
   けど、いっくらやっても、終わんないのよね」
僕 「そうだね」
佳子「いっつもそれで時間だけが過ぎて行って、なんでだろって思ってたんだ」
僕 「そりゃ、時間はいくらあっても足りないよ」
佳子「どうして?」
僕 「だって、あそこを直すと、今度はここが見つかる。あそこを直したことで、ここに
   影響が出る、みたいなのの繰り返しだよね」
佳子「うん」
僕 「それに、いま思いついたことを、次の瞬間に忘れたり、いまできたことが、1時間
   後にできなくなったりするじゃない」
佳子「あるある。なんでなのって感じ」
僕 「でも、人間ってそうできているから、むしろそれって当然じゃないかと思うんだよ
   ね」
佳子「そっか」
僕 「だって、生きているんだもの。できないことができるようになることもあるけど、
   できることができなくなることだって、同じくらいあるんだよ、きっと。
   常に最高の状態を保つなんて、なかなかできない」
佳子「できれば、たくさん持っていたいけどね」
僕 「そう?そんなにたくさん持ち続けなくても、いいんじゃない?
   だって、全部持っていても、全部同時に使うわけじゃないんだし。使うときにあれ
   ばいい、と考えた方がいいんだよね」
佳子「そっか」
僕 「それに、佳子さん、お金をたくさん持っていてもしょうがないっていっていたじゃ 
   ん。それと同じだよ」
佳子「そっか」
僕 「だから、涙を流してもいいけど、ないことばかりに探すと、涙あふれちゃうよね。
   あるものを探していかないとね。あるものを必死で探して、見つかって涙するんだ
   ったら、いいんじゃないかな。そしたら、その涙は意味があるし、涙をこえた先に、
   プラスがあると思うんだ。そういうプラスを探すために、涙を流すのはいいんじゃ
   ないかな」
佳子「うん」


佳子さんは、そう言うと、ふっと小さく息をついた。

佳子「あたしも、涙をこえたいな。」
  「ワンコちゃんと。」


佳子さん、それってどういう意味ですか。僕はそれを聞こうと思って佳子さんを見た。
すると、息を飲んだ。


佳子さんは、また目を閉じていた。
柔らかく美しい曲線を描いた、みずみずしい桃色の唇を、僕に向けて、
また、丸く、軽く、わずかにすぼめていた。


でも、僕はまだいけない、と思った。


僕 「まあだ、だよ」
佳子「んふ」


佳子さんは、声にならない声を出した。


僕 「きょうは、やめようね。」


僕は、きょうはまだ、線を引いておかないと、みわちゃんとのことで
混乱しそうだったので、これ以上進むのはいけない、と思った。
でも「きょうは」という留保をつけた自分は何なんだろう。
そう思っていると、佳子さんがぽつりと言った。


佳子「うん。」
  「よく、できました。合格ね。」


合格?それって何の合格ですか?早稲田大学?
そんなはずないな。それは23年前だ。
もっとすごいところの合格であってほしい。どこなのか、佳子さんに聞こうとした。


でも、それを聞く前に、佳子さんは、すうっと息を吐いて、寝ようとしていた。
せっかく佳子さんが寝られるのにようになったのに、邪魔しちゃいけない。
僕は聞くのを自重して、また、枕の上の頭を半回転させて、
佳子さんと反対側に顔を向けた。

こんなかわいい寝顔を見ながらは、寝られない。
僕も目を閉じて、きょうという一日の反芻を始めた。

反芻する内容は、あまりにもたくさんある。どこまで反芻できるだろう。
そう思ったが、僕もふいに睡魔に襲われたので、ここで睡魔にさらわれようと思った。

明日も、ドキドキすることがあるかもしれないから、ちゃんと寝て、体力蓄えないと。
僕は、明日のデートを前にした高校生のようなことを考えながら、眠りに落ちた。