佳子「遊びっていうけど、これは、すごく真剣な遊びなの」
僕 「真剣な遊び?」
佳子「そう。遊びを遊んでやったらダメ。ワンコちゃんとは、真剣に、ねっ」


佳子さんはいつもの「問題文は最後まで読まないと、ねっ」に似た決め台詞を言うと、
立ち上がって、窓の方へと歩いた。

僕の後ろ姿を見ていた。あの、かわいらしかった後ろ姿が、いつのまにか、
ものすごい大人の後ろ姿に変わったような気がした。
夜叉の後ろ姿のような気さえした。

すると、佳子さんはくるりと僕の方に振り返った。
正面の姿は、やはりいつもの若くてかわいい佳子さんだった。


佳子「ワンコちゃん。きょうはありがとう」
僕 「ううん、僕の方こそ」


佳子さんと僕の間に、少し沈黙が流れた。3秒よりも、長い沈黙だった。
こんなに沈黙が流れたのは、再会してから、初めてだった。
佳子さんが、少し顔を上げた。

佳子「寝ようか」
僕 「うん」

僕は軽くうなずいた。また、僕の中で緊張感が高まってきた。





15畳の和室を照らしていた電灯が消された。

部屋の隅にあるぼんぼりのような照明に、淡く電球色の光が見える。
部屋の中の明かりは、非常灯のようなそれだけだ。

今、僕の心の中も非常灯で照らされている非常事態のようなものだった。
だって、佳子さんが、隣の、というかくっついている布団に横になっている。
そんなこと、信じられない。

まるで、サンタクロースが隣に寝ているようなものだと思った。
僕は今、サンタと背中合わせだ。
このサンタは、一体何を持っているのだろう。
このサンタは、一体どこから僕の心の中に入ってきたのだろう。
このサンタは、一体何を考えているのだろう。
そしてこのサンタは、僕をソリに乗せてどこに連れて行こうとしているのだろう。

僕はまったく寝られない。
ちなみに、みわちゃんとは、毎晩同じベッドで寝ているけど、まったく緊張しない。
あまりに緊張しないためか、僕のいびきはうるさいようで
みわちゃんは、いつのころからか、僕の頭の前にみわちゃんのつま先、
僕のつま先の前にみわちゃんの頭がくるようになってしまった。

今夜は、いびきなんて、かけないぞ。
いや、いびきかく前に、そもそも寝られないぞ。
僕がいらいらとして、限られたスペースの中でもぞもぞ動くと、
たいそうな布団がこんもりと盛り上がった。

そのとき、隣の布団から、寝息のようなかすかな呼吸が聞こえた。
やった。佳子さん、寝てくれたのかな。
僕は緊張感の源泉である佳子さんが寝てくれたようで、少しほっとした。

こんもりともりあがった布団を直そうと、少し、佳子さんの側に体を入れ替えた。
すると、暗闇に、猫のような鋭い瞳がらんらんと輝いていた。

ひゃっ。僕は逃げ出しそうになった。
しかし、鋭い瞳は、僕が逃げ出すことを許さなかった。


佳子「ワンコちゃんっ」
僕 「起きてたの?」
佳子「起きてたよ!」
僕 「寝息みたいなのが聞こえたから、寝たと思った」
佳子「だってワンコちゃんがずっとむこう向いてるから、振り返ってもらおうと思って
   ニセ寝息をたてたの」


ニセ寝息!佳子さん、ずいぶん面白いこと言うなあ。   
と思うのと同時に、僕は、佳子さんが僕に振り返ってもらおうと思って、ニセ寝息を立てた、という言葉がちょっとうれしかった。

女の子が、僕に振り返ってもらおうと何かしてくれるなんて、いつ以来かな。
少なくとも、最近はなかったぞ。僕は少し喜びに浸った。


佳子「ねえ」
僕 「なあに」
佳子「ワンコちゃん、昔に比べて、かっこよくなったよね」

ええ!佳子さん、今なんておっしゃいましたか。

僕 「どこが」
佳子「全体が」

ええ、佳子さん、何言っちゃってくれるんですかあ。
僕はまた鼻血が出そうだった。

僕 「全体がって。どんなところが、いいのか、知りたいなあ」

僕はそんな、高校生みたいな感想を漏らした。


佳子「そうね」

佳子さんは、丸い頭の上に布団を巻きつけて、言った。

佳子「今のワンコちゃんは、あたしにいろんなことを教えてくれるようになったんだよね。
   じじも、感心していたけど、天気予報のことだけじゃなくて、いろんなこと、
   あたしに教えてくれてるんだよね。
   お金をくれるとか、ブランドのバッグをくれるとか、そんな人はいっぱいいるけど
   知恵とか、知識をくれる人って、なかなかいなかったのよね。
   あたし、それがすごく新鮮に見えるの。それが、かっこいいって思うのよね」
僕 「そんな、僕はそんなにたいしたこと言っていないよ」
佳子「ううん、そんなことないよ。だって、知恵とか、知識とかって盗まれないじゃない」
僕 「盗まれない?」
佳子「そう。お金とかブランドのバッグとかは、盗まれることもあるけど、知識とか、
   知恵とか、考え方って、どんな大泥棒がきても、盗まれないのよね。あたしの頭の
   中にちゃあんと残っているの。だから、ワンコちゃんからは、どんな大泥棒がきて
   も、大丈夫な、素敵なプレゼントをもらったんだなあって、思ったんだよね」
僕 「いえ、そんな、僕はそんな佳子さんの役にまだ、立っていないし」
佳子「そんなことないよ。あたしの宝物がきょう、いっぱい増えた。ありがとね、ワンコ
   ちゃん」


佳子さんはそう言うと、暗闇の中で瞳をキラキラと輝かせて、僕を見つめた。
僕はその瞳が、どんなダイヤモンドよりもきれいだと思った。


僕も、佳子さんをじっと見つめた。
佳子さんは、枕の上に載った頭を少し動かし、
暗闇に映える、色白のつややかな顔を少し僕の方に近づけた。

僕も、暗闇の中で、枕の上に載せた頭を少し動かし、佳子さんの方に顔を近づけた。

僕たちの距離は、20センチ足らずに近づいた。
再会するまでにかかった年の数、23よりも、数字は小さくなった。

ここで僕は耳を澄ませた。佳子さんの鼻息が、かすかに聞こえた。
そして、僕の胸の高鳴りが、はっきりと聞こえた。


どく、どく、どく。どりゅん、どりゅん、どりゅん。


体中の血液のめぐる音が、いま、佳子さんの前でうなりをあげて大きくなっていった。
佳子さんは、目を大きく見開いて、僕のことを見てくれていた。
僕も、きっと同じように佳子さんのことを見ていたと思う。

ふいに、佳子さんが、目を閉じた。
柔らかく美しい曲線を描いた、みずみずしい桃色の唇を、
僕に向けて、丸く、軽く、わずかにすぼめた。


僕は息を飲んだ。


こんな瞬間が、僕みたいな人間の人生のさなかに訪れるんだ。
僕は、自分の運のよさが、信じられなかった。僕は、胸がつぶれそうだった。

しかし、ここでつぶれては男がすたる。僕はすぐに気持ちを切り換えた。
気持ちの切り換えには、5秒かかった。僕にしては、ずいぶん時間がかかった。
だって相手があの佳子さんなんだもん。

そんな思いを抱きながら、
僕は、枕の上に載った頭を、佳子さんさらに近づけた。

その瞬間だった。
僕の目の前で、驚くべきことが起きた。