僕 「あのう、佳子さん」
佳子「なあに、ワンコちゃん」
僕 「あのう、この間代々木で会ったとき、若いころの記憶をたどるきっかけを次々忘れ
   てしまって、思い出せる思い出が少なくなっていたって言ってたよね」
佳子「うん」
僕 「それなのに、こんなに事細かに昔のことをすらすら言えるって、おかしくない?」


僕はわりと、決定的なことを言ったつもりだった。
しかし、佳子さんは、またしても、にべもなかった。

佳子「別に。おかしくないと思うけど」
僕 「ええ、だってずいぶん記憶が鮮明だと思うけど」
佳子「そうかなあ。あたし、だいぶ記憶をたどるきっかけを失ったんだよ」
僕 「じゃ、なんでこんなすらすら出てくるの」
佳子「えー、これでもたどたどしい方よ」

僕は何を言っているんだと思った。

僕 「全然たどたどしくないじゃん」
佳子「あら、そう?昔に比べるとかなりたどたどしくなったのよ」
僕 「じゃ、昔はどんだけだったの?」
佳子「昔?ああ、世界史の本は、全部覚えたわ。一晩で。」

僕は一瞬言葉に詰まった。さらに佳子さんは続けた。

佳子「あと、英語の単語帳もだいたい一晩ね。
   高校3年のとき、英語で弁論大会があったけど、これも一晩で台詞覚えたの」

はい?どれだけ記憶力が抜群だったんだ?


そういえば、チューターとしての佳子さんのキャッチコピーは
「偏差値78の歌姫」だった。
模試では平均で偏差値78をとってたって予備校の先生が言っていたな。
その上、歌がうまいという触れ込みだった。
実際に歌ってくれたことはなかったけど。
そんな思い出話を思い出している僕を尻目に、佳子さんはさらに続ける。

佳子「あと、円周率も1万桁くらいまで覚えたなあ」

ずいぶんすごい話をさらりとする。

佳子「それと、予備校の生徒の顔と名前はみんな一致するんだよ」

僕と佳子さんが通っていた予備校は、当時ものすごく生徒が多くて、
同じ学年だけで500人はいた。その顔と名前を全部覚えていたなんて、すごい。


ん?
でも、全部覚えていたはずなのに、なんで僕は「覚えていない」と言われたんだ?
この疑問は答えによってはまずい疑問なので、できればそのままにしておきたかったが、
そのままにしておくと僕の心の中で腐って異臭を放ってしまいそうだったので、
思い切って聞いてみた。


僕 「あの、そうすると、僕はどうして、記憶から抜け落ちてたの?」
佳子「んふ」

んふ、というのはコメントではなく、
口を閉じたまま、笑いが噴き出るのをこらえたときに発した音だ。

佳子「ワンコちゃん、わかんないかなあ」
僕には、わかんなかった。

佳子「覚えていたに、決まっているでしょ」
佳子さん、それって、どういうことですか。


僕 「じゃあなんで、記憶がよみがえって泣いた、みたいな展開になったの?」
僕は少し怒り始めていた。すると、佳子さんは、結構冷徹に言った。

佳子「そしたら、盛り上がらないじゃん」
僕 「ええ!」

盛り上がらないから、忘れたふりをしていた?そういうこと?
僕の中では、佳子さんとの代々木のバーガーの感動の名場面のページがビリビリと
音を立て破れていった。
僕は次に疑問に思ったことを聞いた。

僕 「あの、いつから僕のことに気づいていたの?」
佳子「最初から」

佳子さんは、また悪びれずにからりと答えた。

僕 「最初って、いつ?」
佳子「手帳を拾ったときよ」
僕 「ええ!」

僕はまたびっくりしてしまった。
ちょっと、ちょっと、僕がありったけの勇気を出して、
めんどくさいのも必死の思いで乗り越えて、なんとかかんとか、ひょっとしたら、
この人が佳子さんなんじゃないかって全力で聞いた話は、
全部、全部、全部、佳子さんは僕の素性を知った上ではぐらかしていたのか!


僕は、頭にきた。


僕 「ちょっと!それって、おかしいじゃん!」
佳子「何が?」

佳子さんは、まったく表情を変えない。

僕 「だって、僕が最初の電話のとき、『ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください』って
   言ったときに『…何ですか?』って不信感ありありの返事をしてたよね。
   あと、僕が、必死に、笑っちゃうくらい熱っぽく『あのう、覚えていますか』
   って言ったら、残酷に『申し訳ないんですけど、覚えていません…』とか言ってた
   よね。それってものすごく失礼じゃない?」
佳子「そうかなあ」

佳子さん、それは失礼ですよ。僕はもう断定するしかなかった。

僕 「失礼だ!」
佳子「そんなこと、ないと思うよ」

熱くなる僕を尻目に、佳子さんはなおも冷静さを崩さない。

僕 「なんで?」

僕のありったけの熱意をこめた抗議をした。しかし、佳子さんは無表情で反撃した。

佳子「だって、盛り上がったから、いいじゃん」
僕 「盛り上がったら、いいの?」
佳子「うん」

あまりにも簡潔にうなずく佳子さんを見て、
僕は、代々木で会った時のひとつの出来事を思い出した。

僕 「そしたら、もしかしたら、あの白いワンピースを着てきてくれたのも、
   盛り上げるためだったの?」
佳子「うん。だって、ワンコちゃん見事にびっくりしてくれていたじゃない。
   真冬になんでこんな真っ白な服来てるんだって、顔に書いてあったわよねえ。
   もうあたし笑っちゃいそうだった。狙い通りで。」


僕は佳子さんの仕掛けにまんまとはまったということか。
真っ白な服の裏話を聞いて、僕の頭が真っ白だった。

佳子「下手な映画見るより、よっぽど面白いし、すごい展開だったよ、私たち。
   あの様子、ずっと撮影しておきたかったくらい」

佳子さん、なんてこと言うんですか。
僕たちの素敵なはずのプライベートストーリーは、単なる映像素材なんですか。
僕はそう言ってさらに抵抗を試みようとしたが、
さらに戦意を失わせる一言を先に言った。

佳子「これくらい、面白いことにならないと、あたし、ノラないのよね」

ノリですか。僕と佳子さんはノリの関係ですか。

佳子「だって、恋愛とか出会いの話って、最近ほんっとつまんないじゃない。
   ていうか、昔から、あたしはすごいつまんない恋愛とか出会いしか、なかった」

そういうと、佳子さんは、机の上で結露して汗をかきまくっていた
2本目の缶ビールにさっと手を伸ばした。
プシュッという音が、佳子さんの長く細い指の先から、小さく響く。

僕 「恋愛とか、出会いとかが、つまらない、の?」
佳子「そうなのよ」

一言いうと、佳子さんは、ビールを勢いよく、先客の泡で曇ったカットグラスに注いだ。
間髪入れずに、がぶりと飲んだ。
さっき日本酒をあおっていたおじさんに、飲み方が似ている。このとき初めてそう思った。

佳子「だって小さいころから、パパの金目当てで言い寄ってくる人は
   本当にたくさんいたし、男の人だって、あたしそのもののことじゃなくて、
   大観光のことだったり、あたしの顔とかだったりをチヤホヤチヤホヤして、
   ほんとにあたし、ウ・ン・ザ・リ・なの。」
「だから、仕事に熱中したんだけど、うまくいかなくて、病気になっちゃってね。
 うら若き時代が失われて、つらかったわあ」

あの、佳子さん、今でも僕よりうんと若く見えるんですけど。
そんな突っ込みを入れる隙も見せずに、佳子さんはしゃべり続けた。

佳子「だから、あたしは、なんだかドキドキするような話とかにあこがれて、
   それで雑誌の仕事を始めたわけ。でも、ドキドキする前に雑用が死ぬほどあって、
   本当に徹夜続きで死にそうになって、病気になっちゃったんだけどね。世の中って
   なんなのよねえ」 

佳子さんの話は半分愚痴になっていた。

僕 「あの、それで何か面白いことをって、思った、というわけ?」
佳子「そう!」

佳子さんは力強く言うと、乾かしたグラスをカタン!と机に置いた。

佳子「ワンコちゃんの手帳を拾ったのは、本当にたまたまだったのよ。
   でもね、ピーンときたの。これって何かの物語の始まりじゃないかなって。
   初めて電話するときにはいつも震えるっていうけど、あのときは緊張したのよ」

ニア・プリンセスの佳子さんが、プリンセスプリンセスの代表曲の歌詞を引用して、
物語の始まりのときの自分の心境を力説した。
そんな関係に気づいた僕は、ようやく、少し冷静になって話ができるような気がした。

僕 「うーん、でも、それってリスクがある話だよね」
佳子「リスク?何が?」
僕 「だって、僕が最初の電話を受けた時に
   『では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。失礼しました--』
   って言って、わりとすぐに電話を切ろうとした、よね。
   もし僕が『ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください』って言わずに、
   あっさり電話を切ったらどうするつもりだったの?」
佳子「ああ、そしたら、しょうがないじゃない」

僕は少しがっかりした。

僕 「ええ、だってそうしたら、僕たちもう会えなかったんだよ!」
佳子「そんなことないわよ」
僕 「なんで」
佳子「もしそうなっちゃっていたら、違う手を考えていました」
僕 「違う手?」
佳子「そう。違う手」
僕 「どんな手?」
佳子「それは、言えないなあ」
僕 「なんで?」
佳子「だってまだ、どこかで使う手かもしれないじゃん」

僕は息を飲んだ。
この人、ロールプレイングゲームでもやっているつもりなんじゃないか?
少し僕は不信感を持った。

僕 「そんなのロールプレイングゲームみたいで、いやだ」
佳子「何言ってるの。人生ってロールプレイングゲームみたいなもんよ」
僕 「なんだか遊ばれているみたいで、いやなんだ」
佳子「なんで遊ばれるのが、いやなの?」
僕 「だって、僕」

そこまで言って、僕は次の言葉をどうしようか、迷った。
「だって、僕、佳子さんのこと、本気で好きだから」というのが言いたいことだった。

でも、それを言ってしまうと、みわちゃんに悪いし、
それに、よく考えたらも少し違うので、
「佳子さんにはいつも圧倒されているため、好きとはちょっと違う感情があって、
緊張するし、そこによくわからない感情もあるから」というのを言いたかった。

しかし僕は、次のような言い回しをしてしまった。

僕 「だって、僕、佳子さんといると緊張するから」

これは、正確な表現ではない。緊張するのなら、社長の前に行けば緊張できる。
それと同等に伝わってしまわないか。
僕が心配してすぐに訂正を入れようとしたところ、すかさず佳子さんが先にコメントした。


佳子「あら、よかったわ」
僕 「何がよかったの」
佳子「あたし、緊張する人って好きなのよ」
僕 「ええ、なんで」
佳子「だって、緊張っていいことじゃない」
僕 「ええ、だからなんで」
佳子「昔の紅白とかそうだったじゃない。
歌手が思いっきり緊張して、キーが少し上がって、バンドも緊張して、
少しテンポアップしたりして、紅白独特の世界があるでしょ。
   あの緊張感が、すごく生々しくて、人間らしくて、熱があって、パワーがあって、
   あたし大好きなの。何度でも見たくなっちゃうのよね、ああいう真剣勝負。
ワンコちゃんがあたしのこと見て緊張するって言ってくれるってことは、
あたしとも紅白みたいな関係だってことよね。素敵だわ。
   あたしに言い寄る男ってなんだかみん自信があるか空威張りかどっちかで、
   緊張感がなかったのよねえ。なんだかワンコちゃんって、新鮮!」

そういって、佳子さんは、少しビールで赤くした顔で微笑んだ。

僕 「あのう、でも、遊びだったら、やだなあ」

僕はなおもつぶやいた。すると、佳子さんは、顔をまじめに切り換えて、言った。