じじ「まあまあ、みなまで言うな。君なら、佳っちゃんを背負える。楽しみじゃ。
   ほれ、そろそろお開きにするか」

おじさんは僕の言葉をほとんど無視して、席を立った。
そして、仲居さんにつかまるようにして、足元をややふらつかせながら、
部屋を後にしようとした。

僕 「あ、あの、きょうはありがとうございました!」

僕はあわててお礼を言った。

じじ「おう、楽しかったぞ。あとはよろしくな」

じじはそう言って、姿を消した。
僕は冷めた残り飯を前に、佳子さんと向き合った。

佳子 「ありがとう、ワンコちゃん」
僕  「いえ、あんな話で、よかったのかなあ」
佳子 「満点よ。じじを納得させられる男って、いないんだからね。
    さすがあたしの、カ・レ・シ・サ・マ!」
僕  「えへ、そんな」

僕は佳子さんにカレシサマと言われて、赤くなるのを隠せなかった。

佳子 「なーんてね」

佳子さんは、すぐ混ぜっ返す。植木等みたいだ。こんなところにも、昭和が香っている。

佳子 「でも、本当にありがとう。これで、じじも納得よ」
僕  「そうかなあ」
佳子 「そうよ。今夜はこれで気が楽ですっ」

佳子さんは、そう言って、伸びをした。

佳子 「じゃあ、あたしたちもお開きにしようか」
僕  「うん」

僕がそう言うと、仲居さんがものすごい勢いで近づいてきて、お膳を下げていった。
よく見たら、佳子さんの方が僕より食べていた。
すごいなあ、佳子さん。こんなスリムなのに。僕は小さく驚いた。

そして、広間を後にした。
長い廊下を歩き切ると、僕は佳子さんに部屋の鍵を渡した。

僕 「じゃあ、おやすみなさい」
佳子「え、もう寝るの?」

佳子さんは、けげんそうに聞き返した。

僕 「あの、すぐ寝るわけじゃないけど、僕は部屋が別だと思うからここで」

そう言うと、佳子さんは吹き出した。

佳子「何言ってるのよ、同じ部屋に決まってるじゃない」

僕はフリーズした。この人、なにを言っているんだろう。
おかしいと思って、僕は反論した。

僕 「あの、何言っちゃってるんですか。一緒の部屋なわけないでしょ」
佳子「あら、一緒の部屋なわけですけど」

佳子さんは、またまた混ぜっ返す。

僕 「あの、誰が決めたの」
佳子「あたし。悪い?」
佳子さんは悪びれた様子がまったくなかった。僕はそれが少し面白くなかった。

僕 「悪いです」
佳子「ほらまた敬語」

いちいち僕の言葉に突っ込んでくる。

僕 「…悪いよ!」
佳子「あら、そうかしら?」
  「だって、今夜は彼氏役をやってくれるって、約束したじゃない。
   約束破るの?」

佳子さんは、有無を言わせぬ口調だった。

僕 「え、そんなつもりはないけれど」
佳子「じゃあ、いいじゃん」
僕 「うーん」
佳子「え、あたしと一緒の部屋じゃ、いやなの?」
僕 「そ、そ、そ、そんなことないよ!」
佳子「じゃあ、いいじゃん」
僕 「だって」

そこで僕は赤くなってしまった。
すると佳子さんは、僕の言ってほしくなかったことを言った。

佳子「あ、ワンコちゃん、ひょっとして、あたしと夜どうなるか、考えてるの?」
  「やらしー」
  「エロワンコだよね」

僕はエロワンコだなんて言われるとは、思わなかった。
あの、佳子さんの口からエロワンコだなんて!
僕は、佳子さんの清純さが破れたところが許せなかった。

僕 「そ、そんな、失礼だ!」

僕はとりあえずそう言ってみた。
本当はこの後に
「いやらしいことを考えたわけではありません。一緒にいるとただでさえ緊張感満載なの   
 に、一晩一緒の部屋にいるなんてことになったら、寝られないから困るんです」
というような回答を用意すべきだった。

しかし僕は、情けないことに、
やらしいと言われて、かえってやらしいことを考慮に入ってきてしまった。
それを除外するための言い訳を考えていたところ、二の句が告げられず、
佳子さんに付け入る隙を与えてしまった。


佳子「あら、ごめんね」
  「でも、文句はないんでしょ」
  「それに、ワンコちゃんが事前に頼んだ部屋は、もうキャンセルしておいたからね」
「もし、この部屋で一晩過ごすのがいやだったら、
 お外で待っていることになるんだよ」

え、お外で待つ?そう言われて、僕はふと窓の外を見た。
あたりはもうすっかり真っ暗になっている。窓の枠に取り付けられている温度計を見た。

「氷点下9度」。
宵のうちでこの寒さだから、世が更けたら、氷点下10度は軽く下回るだろう。
一晩外にいたら、確実に凍えてしまう。さすが箱根の峠の上だ。
予報士であってもなくても、この寒さが命にかかわることは、明白だった。

僕 「お外で待つのは、できないよ」

僕が弱音を吐くと、佳子さんは待ってましたとばかりに笑った。

佳子「じゃ、入ろうね(笑)」
僕 「う、うん」

僕は小さな声でうなづくしかなかった。
どうしよう。今夜は緊張して寝られないよ。
緊張して鼻血出して、布団につけたらはずかしいなあ。

僕は修学旅行に行った男子高校生のような心配をしていた。

僕のそんな心配をよそに、佳子さんは部屋に軽やな足取りで入っていく。
部屋の中のふすまが開いた。


中の様子を見て、僕は唖然とした。
15畳の部屋の中に、なんと、布団が仲良く2つ並べられている。しかもくっつけて。
僕は早速鼻血が出そうだった。

僕 「あのう、これは布団が近いんじゃないかなあ」
佳子「そう?ごく普通だと思うけど」

佳子さんは、にべもない。

僕 「あの、だって、これだけ近いと、手が触れちゃうかもしれないし」

僕は抵抗した。

佳子「手が触れると、何かまずいの?」

相変わらず、佳子さんは、にべもない。

僕 「まずいよ」
佳子「なんで?」
僕 「だって」

僕はそう言うと、さて、次にどんな言葉を言おうか、迷った。
もし、「手が触れると興奮しそうでまずいです」なんていうと、
また「エロワンコ」と言われて、佳子さんの清純さが失われてしまうし、
「つきあっている彼女がいます」というと、それもまずいし。

ん?
ここで僕は気づいた。
そういえば、僕に彼女が、しかも同棲している彼女がいるって、
佳子さんには言ってなかったな。
そろそろ、みわちゃんのこと、言わないといけないんじゃないかな。
それを言えば、ストッパーになるだろうし。
何のストッパーなんだかよくわからないけど。

でも、佳子さんにみわちゃんの話だけはしたくないのも事実だ。
佳子さん、みわちゃんの話なんて聞いたら悲しむかもしれないし。
それに、きょうはちょうど僕は佳子さんの彼氏役を任されていることもあるし。
そうか、きょうは言うのをやめよう。

僕はそんなことをグルグル考えていたため、「だって」の次の言葉が出てこなかった。

すると佳子さんはすかさず「だって、何よ」と強気の発言をしてきた。

僕 「えっと、その」

僕は言うべきコメントがまとまっていなかった。

佳子「『えっと、その』では、回答になっていません。
   ですので、ここは布団の距離は変えないことにします」

まずい、判定が出ちゃった。
また押し切られたよ。
僕はどうしていつも佳子さんに押し切られているんだ。
僕の中では、この押し切られるというのが、おなじみの悩みになろうとしていた。

僕 「でも、まだ寝るの早いよね」

僕は少しでも抵抗しようとした。
すると佳子さんは別になんでもないという風な顔をして、言った。

佳子「そうね。じゃ、ちょっと飲もうか」

佳子さんはそう言って、部屋の隅にあるやや大きめの冷蔵庫を開けた。

僕はびっくりした。
その冷蔵庫の中には、宿の冷蔵庫とは思えないほどにびっしりと缶ビールが入っていた。
確かに、代々木のバーガーで好きなもの大全をやったときに、
ビールが冒頭に出てきたけど、
ここまでびっしりと缶ビールを宿に並べさせるとは、思わなかった。

佳子「いくらでもあるから、飲んでね」

佳子さんは缶ビールのロング缶を2本左手につかむと、
次に、冷蔵庫の上にあった棚から彫りの深いカットグラスを2個取り出し、
右手の指の間にきれいにはさんだ。

指、長いなあ。
僕は初めてそのことに気づいた。
そして、佳子さんは、缶ビールとグラスを丁寧に机の上に置いた。
そのとき、僕は初めて佳子さんの指先に目がいった。
細長い爪に、きらきらとした銀河のような金銀のラメが入っていた。

僕 「ネイル、いいね」
佳子「あらあ」

佳子さんは、口をアヒルのように開けて、ほほえんだ。

佳子「ありがとう。見てくれて、うれしい」
僕 「いえ、そんな」
佳子「ネイルを口に出してほめてくれる男性って、案外いないのよ」
僕 「そうなの」
佳子「そう。ちゃんと見てないと、見えないネイルだしね。
   ワンコちゃん、よく気づきました。さすが、カ・レ・シ!」

さっき、広間で食事をしていたときは「カレシサマ」だったのが、
今度は「カレシ」に変わった。
「サマ」がとれたのはなんでだろう。僕はその細部が気になった。
ひょっとして、本物の彼氏に近づいてしまったとか?僕はまた勝手なことを考えていた。


佳子「どうしたの?飲むよ」

気づいたら、僕のグラスにも、佳子さんのグラスにも、
あっという間にビールが注がれていた。

佳子さん、動きが早いなあ。僕が注いで上げなくて、申し訳ないなあ。僕は少し後悔した。

佳子「じゃ、おつかれさまでした。カンパーイ」
僕 「カンパーイ」

僕がビールを一口だけ飲んだ。
すると、ビールに柔らかい唇をつけていた佳子さんが、ビールから唇を話した。

佳子「あ、ワンコちゃん、カンパイだよ」
僕 「え、カンパイ、したけど」
佳子「カンパイっていうのは、杯を乾かすんでしょ。一気に飲まないとだめなのよ」
僕 「ええ」

僕はまた驚いた。
大学のコンパで、先輩が後輩に言うような他愛もない台詞を、ここで佳子さんに言われた。

佳子「早慶戦の後のコンパでも言っていたでしょ。
   カンパイは杯を乾かすまで飲まないと、ねっ(笑)」

また、言われたよ、この手の台詞!僕はそれについて突っ込もうと思った。

しかし、その瞬間、ふとおかしなことに気づいた。
いま、佳子さん、早慶戦の後のコンパって言っていたな。
どこのコンパだか知らないけど、昔のこと、よく覚えているな。

待てよ。
佳子さんは、昔のことを思い出せなくて大変だったんじゃないかな。
その割には、昔の話が結構ここまで出てきているな。

きょう聞いた話だけでも、
「お父さんがロマンスカーで買ってくれたオレンジジュースの話」
「大学のマイナーな応援歌の『いざ青春の生命のしるし』の話」
そして
「お父さんに教えてもらった『涙をこえて』の話」
今の
「早慶戦の後のコンパの話」
これだけある。

どうして、昔の話が結構出てきているんだ?
僕のなかに、突如として疑問がわきあがってきた。

ぼくはその疑問を、佳子さんに聞かずには先に進めない、と思った。
そこで僕は、杯を一気に乾かして、佳子さんの方を向いた。

佳子「わあ、ほんとに乾かした。すごーい」

佳子さんはそういうと、自分も杯を乾かした。
ふっと軽くアルコールを帯びた息をついた姿が、大人なのに大人びていた。

佳子「あたし、高校3年のとき、こっそりビール飲んだことあるんだよね。
   そのとき、パパが怒って」


ほら、今度は高校のときの話が出てきたよ。おかしいじゃん。
僕は、切り込んでいこうと決意した。