じじ「思っていることを他人に言う、
   しかも、わかるように言うというのは大事なことじゃ。
   最近は、思っていることを人前で言ったり、書いたりすることができるやつがどん
   どん少なくなってきておる。何かあれば親しい仲間だけにスマホで言っているよう   
   じゃというのを、うちの会社でも報告があがっとる。仲間内だけに言っているうち
   はまだまだなのに、それで自分は一人前じゃと思っておるからおかしいのよ」
僕 「そうなんですか」
じじ「そうじゃ。それに、人間は、出会って、語り合って、触れ合うという段階を踏んで
   仲を深めてきたはずなんじゃが、男同士でも、女同士でも、そして男女間でもこの
   要素がこの十数年で急激に失われておる」
僕 「ああ、ソーシャルネットワークサービスができて、ネットで簡単にコミュニケーシ
   ョンができるようになりましたからね」
じじ「それで、できていると考えるから、甘いのよ!」

おじさんは、いつの間にか追加されていたコップ酒を、また、がぶりとあおった。

じじ「道具としてソーシャルは便利じゃが、それでなんでもかんでも済むものではない。
   本当に大事な話をひざ詰めでする努力が足りない人間が、今多すぎるんじゃない
 か?わしは今はこの箱根の峠の宿も預かっておるけど、この宿という小さな共同体
 ですらもそういうことを感じるのじゃぞ。若者がわんさかいる本社にいると、わ
 しは頭がおかしくなってしまうくらい、人と人のつながりが薄くて、実体がなくて、 
 悲しいんじゃ。わしが本社にあんまり寄り付きくないのもそのせいでのう。ここに
 いた方がまだましなんじゃ」

おじさんの吐露した思いは、僕も普段からなんとなく感じているものだった。
僕が深くうなづくと、おじさんはニカッと笑った。

じじ「石井君。君はなかなか見込みがあるかもしれんな」
僕 「いえ、そんな」
じじ「こんな年寄りの戯言を、うまく引き出す奴に久しぶりに会ったわ。
   佳っちゃん、さすがいい若者を見つけてきたのう」
佳子「えへ、そんな」

見ると、佳子さんは、いつの間にかとろろ飯を3杯も平らげていた。
あの、佳子さん、見かけによらず、結構食べるんですね。
あれ、佳子さん、口元にご飯粒が一つついている。

僕 「あの、口元にご飯粒が」
佳子「え、やだあ」
じじ「おう、石井君、やさしいのう。やっぱり二人は、お似合いじゃあ」
  「だから、早く跡継ぎを、な」
佳子「もう、だから、おじさまったら、やめてよ!」
じじ「はは。今夜はとても楽しい夜じゃあ。ハハハハハ」

おじさんと佳子さんの会話に、僕はひそかに心を赤らめていた。
顔を赤くしたら、恥ずかしいから。
なんとか顔に出ませんように。僕が願っていると、おじさんがつぶやいた。

じじ「そうじゃ。あれ行こうかの」
佳子「え、もう、やるの?」
じじ「そうじゃあ。盛り上がってきたから一気にいくぞ。ホイ!」

そう言って、おじさんがポンと手をたたくと、
15畳くらいある広間の奥にあるふすまがガラリと開いた。
ふすまの開いた先にはもう一間あり、
仲居さんが左側に5人、右側に5人、縦に並んでいる。
そして、奥の中央には、タキシードを着た若い男性が5人、横に並んでいた。

じじ「始め!」

おじさんの合図で、大音響のカラオケの音楽が鳴り始めた。
前奏で、何の曲かすぐにわかった。


「涙をこえて」。


前奏に続いて、奥の中央のタキシードの男性5人が、マイクを持って歌い始めた。
そして、AメロからBメロを経て、
サビの「涙をこえて 行こう」という歌詞が始まった瞬間に、
仲居さん、ではなく、よく見たら和装の女性の踊り子さんがバッと立ち上がり、
両手を高く上げてパキパキと体操のような踊りを始めた。

僕はあ然としていた。
こんな宴会芸みたいなこと、やるんだ。これが、この宿のしきたりなのか。
僕には相場がまったくわからなかった。
でも、宴会芸にしては、歌は抜群にうまいし、踊りも洗練されている。
どういうことなのか。
僕が疑問に思っていると、2番が始まった。

ふと、おじさんと佳子さんを見ると、2人はニコニコしながら大きな手拍子を送っている。
僕もこの場の流れに乗り遅れないように、あわてて手拍子を始めた。

2番は、キーを上げての合唱だった。
カラオケから流れる弦楽器の伴奏が、僕の心の中の琴線をつまびく。
Bメロにメロメロしたのはもちろん、サビにはもう酔わされた。
この曲、なんでこんな感動的なんだろう。

気がつくと、最後に出てくる「アーッ」「アーッ」「アーッ」という
雄叫びのリフレインも終わっていた。
僕はぽかんとしていた。

曲が終わると、間髪入れずに、おじさんと佳子さんが大きな拍手を送る。
僕も負けずに、手をたたく。

3人の、しかし、万雷の拍手が終わると、奥の間のふすまはあっという間に閉ざされた。
一瞬で終わった、にぎやかな、あまりにもにぎやかな、ご開帳のようだった。

僕 「あの、今のはなんですか」
佳子「お客様への、特別サービスです」
僕 「ええ?」
じじ「そうじゃ。うちは大事な客人がくると、歌でもてなすことにしておってな。
   今のはうちの精鋭音楽団じゃ」
僕 「ええ、精鋭?」
じじ「そうじゃ。音楽大学を出ておる奴を歌い手、体育大学を出ておる奴を踊り手に
   してな」
僕 「そうなんですか。でも、なんで『涙をこえて』なんですか?」
佳子「あたしが頼んだのよ。彼が好きなのは『涙をこえて』だから、って」


そういえば、代々木のバーガーで、佳子さんと好きなもの大全の話をしたときに、
「涙をこえて」が僕も死ぬほど好きですって、言ったな。
佳子さん、そのこと覚えていてくれたんだ。僕はうれしかった。

僕 「ええ、佳子さんが頼んでくれたんですか」
じじ「そうじゃ。佳っちゃんから『彼氏は涙をこえてが好き』と聞いて、
   わしは涙が出そうじゃった」
僕 「え、どうしてですか」
じじ「この歌は、うちの兄貴、つまり佳っちゃんのお父さんの大学の後輩が作った歌での。
   兄貴はこの歌をテレビで見て、好きになって、佳っちゃんによう教え込んでいたん
   じゃ。この広間でも、よう歌った。兄貴が死んだときに、葬式で流すよう遺言に書
   いてあったのも『涙をこえて』じゃった。明るく、生きるのが好きだった人だから
   のう。なのになあ、急に死んじまって。」

おじさんは、そう言うと、涙を目に浮かべた。
見ると、佳子さんも、目頭が熱くなっている。

そうか、佳子さんのお父さんも早稲田だったんだ。
お父さんの後輩が、「涙をこえて」を作った中村八大先生。そんなつながりがあったんだ。
そしてこの歌に惹かれていた僕も、早稲田に入った。
歌を知ったときは、早稲田の人が作った歌だなんて、意識してなかった。
結果的に、僕と早稲田とこの歌はつながった。

そして、大学を卒業して23年も経った今、
今度は、佳子さんや佳子さんのお父さん、この宿とも
「涙をこえて」を通じて、つながった。
僕は人間の縁の持つ不思議さ、そして昭和の歌がひきつけた力に、驚いていた。

僕は、しんみりとなった空気の中、切り出した。

僕 「そうですね。人はいつか別れがくるものですけど、
   こうやって、歌を通じて、僕も佳子さんのお父さまとつながるところがあったこと
   がわかって、本当にうれしいです。できれば、お元気なうちにお会いしたかったで
   す」
じじ「そうじゃの。歌は、つながりを作って、そして、何年もたって、また思いがけない
   つながりを作る。いいもんじゃな。最近の世の中が、つながりが薄くてさびしく感
   じるようになったのは、こういう力を持った歌が少なくなって、歌のもたらすつな
   がりも少なくなったからかも知れんな」

おじさんは、そう言うと、また少しさみしそうな顔をした。
それに対し、僕は少し冷静なことを言ってしまった。

僕 「でも、もうそういう時代ではないのかもしれません。
   歌が人のつながりを作ったり、思い出のよすがになる時代はいい時代だと思います
   けど、これだけ好きなものが選べる時代に、歌のつながりを多分に求めるのは難し
   いのかもしれません」

そういうと、少しおじさんは反論した。

じじ「そうかもしれぬ。じゃが、人と人のつながりは、もう少し見直せると思うぞ」
  「歌がなくとも、人のつながり、どう生きるかはもっと今の時代見直せるはずじゃ。
   便利なわりに、さみしいことが多すぎる」

おじさんは、そういうと、鼻で息をした。

じじ「そこで、石井君。君ががんばるんじゃ。佳っちゃんのこと、頼んだぞ」
僕 「あの、僕、まだ」

僕はあわてて火消しに走った。