「ワンコ、ちゃーんっ」

高い塀を隔てて聞こえてきた、佳子さんの声だった。
きっと佳子さんも硫黄泉の湯気をまといながら湯に浸かっているのだろう。

「ワオーンッ」

暮れなずむ露天の空を切り裂くようにして、僕は、犬のように遠吠えを叫んだ。

それを聞いた佳子さんは「アハハハハ」と声を上げて笑い、
してやったりの顔がこちらにも浮かんでくるようだった。

さて、どんな顔か。あの色白なかわいらしいお顔を少し赤らめていらっしゃるのか。

すると、紺の半纏をまとった初老の男性が、内湯と露天を隔てるドアを開け、
露天の近くに入ってきた。

初老「ようこそ、いらっしゃいました」

深々としたおじきをして、男性はあいさつをした。

僕 「お世話になっております」
初老「いま、熱いですか」
僕は「いえ、ぬるいです」
初老「お顔が赤いので、熱いかとお見受けしました」

そこで僕は初めて「顔が赤くなっている」という事態に気づいた。

初老の男性は「ならば、少し熱くしましょう」と言い、
近くの小さな木戸を開けて、バルブを開いた。

バルブを開いた効果はてきめんで、湧出口のあたりにいた僕の腹に、
いきおいよく熱のこもった温泉が殴りこんできた。

僕 「ありがとうございます」
初老「あまり、興奮なさならないように」
僕 「はあ」
初老「興奮すると、湯あたりをいたしますので」
僕 「ありがとうございます」

僕は気遣いに礼を言った。
その礼に対し、初老の男性は少し相好を崩し、やや小さめの声で僕に言った。

初老「あのう」
僕 「はい」
初老「お嬢様は、大変に、大変な方です。
   どうか、よろしくお願いいたします」
僕 「はあ」

僕はそれしか言えなかった。大変に、大変な方ってなんだろう。
僕がそれを聞こうとすると、初老の男性はきびすを返して立ち去ろうとした。

僕 「あのッ」

僕は、得意技の相手にだけ鋭く聞こえる声で初老の男性をわしづかみにした。

初老「はい。何か、ございますか。」
僕 「あの、佳子さんって、どんな人ですか」

僕は彼氏の役をもらっているのに、そんな変な質問をしてしまった。

初老「そうでございますね」

初老の男性は、少しもったいつけたようにして、言った。

初老「見かけによらない方、でございます」

見かけに、よらない?僕はよく、わからなかった。 
僕は二の矢の質問をしようとした。
しかし、初老の男性はするりと内湯へと去っていった。
「うーん」
僕は、わからないまま、少し熱くなった湯に浸かっていた。

すると佳子さんが、また高い塀越しに
「ワンコちゃーん、お湯加減は、いかがですかーっ」
と大きな声で尋ねてきた。
「いま、湯守の方に、熱いの入れてもらったから、ちょうどいいワン!」
と犬語で答えた。

佳子さんは
「よかった!湯守さんに行ってもらったのよー
 男湯の方が、冷えやすいからねー」
と答えてくれた。

そうか、佳子さんが湯守を差し向けてくれたんだな。
佳子さんの温かさを感じ、僕は、妙に意識してしまった。

佳子さん、今、隣の露天で湯に浸かっているんだよな。
佳子さん、あの白いうなじを白く濁った湯できらやかにさせているはずだな。
どんなふうなのかな。

僕は、高校生みたいにドキドキしていた。

僕は、楽しいけど、なぜかちょっとつらいよ。何だろう、この感覚。
昔、そういえば、こんな感覚があったな。

そうだ、佳子さんに、昔恋していた感覚だ。
それが、今、リアルに戻ってきたんだ。

恋って変と少しだけ違うって誰かが言っていたけれど、ほんとだな。
僕はイヌの真似をさせられているし、高校生みたいになっているし、
本当に変だ。

でも、こんな変なら僕はいいや。
だって、佳子さんも、正しい変態ならいいって言っていたしな。

あれ、でも正しい変態の定義って、ちょっと違うか。
僕は、他人が聞いたらあまりにもどうでもいいことで頭がいっぱいになっていた。
ああ、これも含めて恋の感覚だ。
恋の感覚を思い出した僕は、硫黄泉の中で軽い有頂天になっていた。

すると、僕にイエローカードが出た。

佳子「あんま入っていると、ノボせるから、上がるよ!」
僕 「はあい。ワン!」

僕は従順にも人間とイヌの両方の返事をして、佳子さんの指示に従った。
確かに少しノボせた。
これは、佳子さんが差し向けてくれた湯守さんのおかげなのか。
それとも、僕の恋心が盛り上がっているからなのか。
僕にはわからなかった。

でも、今の僕にできるのは佳子さんに約束した、先に部屋で待っているということだった。
僕は髪を乾かすのもそこそこに、浴衣をいい加減にまとい、脱衣場を後にした。

部屋に戻ると、まだ5時15分だった。約束の時間まで、あと15分ある。
ふと、部屋の様子を見た。

すると、小さな佳子さんのバッグが目に入った。
薄いピンクの、アメリカ生まれのスペードがついたブランドのバッグだった。

佳子さんにスペード。意外な取り合わせに、僕はちょっと驚いた。
そのスペードのついたバッグからは、丸くこんもりとした、
かわいいピンク色の布地がちらりと見えていた。
ひょっとして、佳子さんの、下着?

僕はあわてて目を背けた。佳子さんの下着なんて、見てはいけない。
僕は、うぶな高校生のようだった。

僕が目を背けると、バッグから少し離れた机の上に、スマホが置かれていた。
スマホはケースに覆われていた。
ケースの上3分の2くらいが淡いピンク、下3分の1くらいがクリーム色だった。
近づいてみると、そのケースもスペードがついたブランドものだった。

いけない、と思いつつ、そのケースを少し開けてみたくなった。
これを開けると、また、佳子さんに一歩近づけるかもしれない。
それに、僕は今一日限定とはいえ恋人のふりができるのだから、
もう少し佳子さんのことを知ってもいいのだろう。

ん?なんで下着はダメで、スマホはいいんだ?どっちも、プライバシーの塊じゃないか。
でも、スマホは生身の人間じゃないんだから、まだいいでしょ。

そんな勝手な理屈を思いついた僕は、思い切ってケースのスナップボタンを外してみた。

すると、開けた小さな扉の中にはさらに小さな鏡があり、
鏡の下辺には「smile」と小さく文字が書かれていた。
そしてその文字の横に、白く細いシールが貼られ、「もっと 鼻息」と書かれていた。

「もっと 鼻息」?僕には意味がわからなかった。
佳子さんになぜ鼻息が必要なのだろう。僕には見当もつかなかった。

すると、遠くからパタパタとスリッパと床がついたり離れたりする音が聞こえてきた。
まずい、佳子さんが帰ってきた。
僕はあわててスマホケースのスナップボタンを留めなおし、スマホを机の上に戻した。

戻した瞬間、佳子さんが「ただいまあ」と言って、部屋に入ってきた。

その様子を見て、僕は息を飲んだ。
糊の効いた、ぱりっとした白地に紺の模様の入った浴衣の佳子さん。
その肩を少し追い越した黒髪は、
上手に後頭部にまとめ上げられ、ひとつの楕円のまとまりを作り、
絶壁をうまく隠していた。

そして、黒髪に遮られて見えなかった白く若い首筋が、
きれいな稜線をたたえていることがわかった。

さらにその稜線は、硫黄泉でほどよく暖められ、わずかに薄い桜色をまとっていた。
まるで、後姿という山並みに、山桜が萌えているような風情だった。
僕には、この寒い箱根の峠の宿に、一気に春が訪れたような感じがした。

佳子「こらっ、女の子をジロジロ見ちゃいけないんだよっ」
僕 「あ、すみません・・・」

代々木のバーガーと同じ台詞が、また繰り返された。
僕はどうしても、佳子さんの掌の上に載せられ、時に叱られてしまう。

思えば最近、誰かの掌に載せられたことなんて、なかった。
30代のころからか、周りはみんな
僕をいい大人だと思っているらしく、
つかず離れず、無責任かもしれないと思われるくらいの距離でしか
つきあってもらえなかった。
当然、がっつりと掌の上に載せられることなど、ない。

以前聞いたことがあるが、人は、最初に出会ったときの年齢でずっと人を見続けるという。

だから、生まれたときから見続けている親からすれば、子供はずっとゼロ歳児だ。
逆に、大人になって初めて会った人は、それ相応に対応してもらえる。

佳子さんの場合、初めて会った僕はグレた高校生だったわけだから、
僕はずっと17、18歳。つまり、お子様扱いのままだ、というわけか。

こうした状況に、少し前の僕だったら「お子様扱いするな!」と怒っていたことだろう。

しかし、40になった僕はかえってお子様扱い、
つまり、掌の上に載せてもらっていることが新鮮で
少しばかりのさわやかさすら感じていた。

それは、僕が達観した大人になったということなのか。
それとも、単に恋心に翻弄されているバカな高校生役にすぎないのか。
あるいは、僕にもまだ希望があるということなのか。

僕にはまだ、わからない。僕はわからないため、きょとんとした顔をしていた。

すると、佳子さんはまた、笑ってくれた。

この空気、やっぱり23年前と、
それから、代々木のバーガーで再会したときと、まったく同じだった。

他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。
ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、
僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。

僕はなんて幸運なんだろう。
23年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。

いや、神様が、23年前に戻してくれたんだ。
タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。
タイムマシンって、あるんだな。
ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。

代々木のバーガーで思ったこととまったく同じ思いが
また、繰り返された。

僕をあっちこっちに揺すぶって、何度も前と同じ思いを味わわせて、
引き続き僕を掌の上に載せている。
僕はもはや、佳子さんのペットのようなものだった。

そうか。だから、僕をワンコと名づけたんだな。

しかし、僕はペットで十分だった。これ以上、複雑なことを考えずに、
このまま佳子さんのそばに寄り添っていられれば、心地いい。
僕は今までにない感情を持ち始めていた。

そんなことを考えているうちに、佳子さんは風呂から持ってきた洋服などを
スペードのマークのついたバッグにしまいこんでいた。

「ねえ」

佳子さんがこちらを見ずに話しかけてきた。