街灯が灯り始めた道路をふらふらと歩き、家になんとか帰る。
まず、雨でびしょびしょになったセーターを選択かごに突っ込み、制服から部屋着に着替えた。
ベッドの上に座って、ビニール袋からバイオリンを出した。
その四本の弦のうち、G弦だけが浮き出ているかのように見える。
張り替えたばかりの柔らかい弦を一度撫でて、段ボールで出来た簡易防音室で、タイスの瞑想曲の練習を始めた。
気のせいかもしれないけれど、いつもより音の響きがいいような気がする。
もっと、もっと上手な演奏がしたい。
満足するまで弾いていたら、時計の針は九時を回っていた。
「お母さん、おかえり」
リビングに降りると、母がいた。
「みんな帰ってきてないけど、ご飯にしよう」
「うん」
今日の夜ご飯はカレーだ。
久しぶりの母と二人の食卓。
「修学旅行どこいくんだっけ?」
娘の行事の二週間前になるまで行き先を知らないとは、まったく適当な親である。
「広島と山口」
でも、私にはこのお母さんがちょうどいいみたい。
「うわあいいなぁ。
修学旅行って絶対告白する人とかいるよね」
女学生のように目を輝かせた母を見て、思わず笑ってしまう。
「あはは。お母さんのときからそうだったんだ」
「そうよ〜! 私も告白されたのよ? しかもお相手はサッカー部の男の子。
今思い出しても格好よかったなぁ」
「それで? 付き合ったの?」
「もちろん」
母の青春話を面白いと思う自分を、客観的に見ているもうひとりの自分がいるような気がした。
その夜、私はいつもより早く布団に入った。
寝る前に考えたのは、もちろん、奏汰さんのこと。
何を食べたのかな、とか、いま何を考えてるのかな、とか。
出窓の外に見える、むなしいくらいに透き通った空に浮かぶ丸い月。
会えない寂しさよりも、同じ空を見上げられない悲しさが募った。
今君は何をしているのだろう。
何を思っているのだろう。
ーーー第四楽章ーーー
翌朝、私は寝坊した。
家を出る二十分前に起きて、朝ごはんも食べずに家を飛び出した。
「寒い」
学校指定のセーターは昨日の雨で濡れてしまったので、ブレザーの下にはベストを着ているが、ものすごく寒い。
早歩きをして、駅に着いたのは、電車発車の三分前。
急いで階段をかけ登る。
スーツを着たサラリーマンや、制服姿の学生たちの隙間を通り抜けて改札をくぐり、ホームに降りた。
ちょうど東京方面、小田原方面ともに電車が来たところで、ものすごく混んでいる。
優希葉たちが乗っている八両目へ向かおうとしたとき、私は目を見張った。
通勤通学ラッシュの人混みの中に、いるはずのない君を見つけたから。
目と目が合う。
声をかけたかった。
そばに行きたかった。
だけど、朝のざわめきがそうはさせてくれなくて。
おじさんと肩がぶつかり、視線を逸らした隙に、奏汰さんの姿は見えなくなっていた。
悔しくて、悲しくて、虚しくて、地面を蹴飛ばしたい気分だった。
発車ベルの『希望の轍』が流れて、背中を押されるようにして電車に飛び乗る。
「花奏、おはよ!」
「おはよう〜」
相変わらず元気な優希葉と、眠たそうな目をした陽菜が挨拶をしてくれた。
「おはよ!」
二人に笑顔で返事をしたら、なぜか、すっきりとした気分になった。
やがて、電車は動きはじめた。
橋の上から見えた相模川は、朝の光を受けてさんさんと輝きを放っている。
この世界は、美しい。
たとえ、悪口星人がたくさんいたとしても、美しい。
それはきっと、たくさんの犠牲と愛があるからこその世界だからだ。
かつての大戦で命を落とした若者が見ることが出来なかった景色を、私は今、当たり前のように、何気なく眺めている。
できるかぎり、この美しい世界を、必死に生きようと思った。
その日の休み時間、教室にみほはいなかった。
ほかのクラスに逃げているらしい。
志水も理穂もほかのクラスメイトも、ずるいといって彼女を責めているけれど、私はこれでよかったのではないかと思う。
このクラスに川村みほがいても、火薬庫に火をつけるだけだ。
クラスにとっても、みほにとってもあとから思いかえしたらいい判断だったと思うはず。
クラスが今よりも良くなったらいいな、と素直に思った。
奏汰さんと離れてから、しばらく経った。
いつの間にか金木犀は香らなくなっていて、教室の窓から見えるメタセコイアは紅葉を始めていた。
暖かい日差しが午後のふわふわな空気に溶けていく。
金曜日の六時間目の社会。
先生は、大嫌いな担任の西山だけど、眠らないで聞いていた。
配られたプリントの端に、八木奏汰、と書いてしまって、急いで消す。
シャーペンの芯でできた凹みが目立たないように、さらにそこを塗りつぶした。
今日の授業は、『第二次世界大戦の終結』というタイトルだ。
「一九四五年八月十五日に日本はポツダム宣言を受諾して、戦争が終わりました」
カリカリと板書を写す音が教室に響く。
「この戦争で、アジアで約二千万人の人がなくなりましたが、そのうちの千万人は中国人です。
日本は原爆が落とされたこともあって、被害者意識が多いですが、実は約三百十万人しか死んでないんですね。
私たちはもう少し加害者意識を持つべきだと思います」
三百十万人"しか"死んでない?
加害者意識?
なにそれ。
「しかも特攻とかは美化されてるけど、あれだって単なる人殺しだからね?」
単なる人殺し。
その言葉を聞いた瞬間、私は西山を思い切り睨みつけてしまった。
そして、黙っていることも、出来なかった。
「その言い方はひどいと思います」
クラス中の視線が集まる。
そんなことは、気にならない。
「そもそも戦争に被害者だの加害者だの言うのもおかしいと思うし、三百十万人"しか"亡くなってないって、人の命をどれだけ甘く見てるんですか」
奏汰さんはもう生きられないと決まっていたのに、生きようとしていた。
そんな人たちのことを悪く言われてしまっては腹が立つ。
「それに、特攻はただの人殺しなんて、そういう風にしか感じられないんですか?
特攻隊の人がどんな思いで覚悟を決めたのか知らないくせに偉そうに言わないで!」
最後の方は、叫んでいたかもしれない。
だって、くやしい。
「藤井さんみたいに思っている人なんてあんまりいないからそういう考え方はやめた方がいいよ」
西山が言った言葉は、私の心にさらに油を注いだ。
「たくさんの人が思ってることしか言っちゃいけないんですか?
そんなのっておかしいと思います」
社会教師は一瞬だまり、無視して授業を始めた。
奏汰さんは、「未来と日本国民を守りたい」と言っていたのに、こんな言われ方はあんまりだ。