私は、恋をした。
金木犀の季節に、私の全てをかけて。
ちっぽけな自分も受け入れてくれたあの音を、心のどこかで探している。
今日も、相模の海は風に揺れていて、空は高く透き通っています。
奏汰さん、そちらはどうですか。
思う存分、音楽はできていますか。
あなたのことですから、その美しい音楽でたくさんの人を喜ばせているのでしょう。
楽しそうにバイオリンを弾く姿が目に浮かびます。
駆け足だったあなたのこれからが、アンダンテでありますように。
それでは、また会う日まで。
ーー第一楽章ーー
教室の外のメタセコイアが風に揺れていた。
葉が落ち始めたその木の向こう側の空は虚しいくらいに青い。
十月もほとんど終わりに差し掛かった火曜日のお昼すぎ。
修学旅行を二週間後に控え、学年中が浮き足立っているような気がする。
……もちろん、私も含めて。
花奏、と声をかけられてはっとした。
「あ、理穂。どうしたの?」
「ねえ、見て。今日みほちゃん化粧してる」
理穂がそう言うと、
「ほんとだ。男でもできたのかな?」
「なわけ。あれに男ができたとしたらまじギャグだわ」
私が返事をするよりも早く同じグループの子が言葉を交わす。
よくもまあ、こんなに悪口が素早く思い浮かぶものだ。
このグループは仲良しにみせかけて、実は二つに割れている。
私と陽菜と優希葉(ゆきは)の三人と、理穂が率いる三人。
ちなみに、理穂たちは誰かの悪口になると活き活きし始めるから、心の中で「悪口星人」なんていうあだ名をつけてしまった。
こんなにギスギスしているのなら一緒にいなければいいのに、と思うかもしれないが、それではダメなのだ。
悪口星人たちは、それなりの女の子と数人でつるむことによって、いわゆる「一軍系女子」というステータスが欲しいらしいから。
正直に言うと、私は逢坂理穂という人間が嫌いだ。
彼女について説明させてもらおう。
自己紹介で、好きなものはスタバのフラペチーノというが、本当は何よりも悪口と男が好き。
そして嫌いなものは自分よりも目立つもの。
「一軍系男子」とはなすときは、明らかに声のトーンが変わる。
こういう女をぶりっ子と呼ぶのだろう。
ここだけの話、理穂はそこまで可愛いわけではない。
だからこそ、あの猫なで声を聞くたび、私の心の中の黒い部分が動き始め、やがて誰にも聞こえないところで叫び出す。
「ぶりっ子する前に鏡を見ろ」
と。
しかし、ここまで言っておきながら、理穂との友達ごっこをやめられないのは、怖いから。
きっと、この人を捨てたとしたら、周りからの目はがらりと変わる。
ひとりになりたくないから、私は今の関係を保つことしかできない。
たとえ、自分自身に嘘をついても。
放課後はバイオリンのレッスンだった。
今までに他にもいろいろな習い事をさせてもらったけれど、どれもすぐにやめてしまった。
しかし、バイオリンだけは四歳の頃から続けて、気がつけば今年で十一年目だ。
実際、小学校高学年になって一度はプロを志した。
しかし、コンクールで結果は出ないし、勉強が中心の中高一貫校に入ってしまったことを理由にして諦めた。
「もっと流れるように!
テクニックだけを考えないで心を込めて!」
先生にこのようなことを言われたのは今日だけで三回目。
当たり前だ。
コンクール一か月前のレッスンだというのに、不思議なくらい集中出来なかったのだから。
「弾きたいときに弾きたいだけ弾けばいい」
そんな先生のモットーにより、今日は家に早く帰された。
防災無線のチャイムが海沿いの田舎町に午後五時を告げる。
思わず私はその音色に合わせて口ずさんだ。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われてみたのはいつの日か」
この曲を聴くとどんな時でもほっとする。
バイオリンケースを片手に、夕暮れの喧騒から少し離れた一車線の道をゆっくり歩く。
同じ景色を見ているはずなのに、行きと帰りでは感じ方が全く違うなんて。
人間は面白いなあ。
風が吹いて、すぐそこに見える相模湾の水面が揺れたとき、思わず足を止めた。
どこからか、マスネ作曲の『タイスの瞑想曲』が聞こえてきたからだ。
優しいバイオリンの音色が茜空に音符を並べて楽譜を描く。
その金色(こんじき)の五線譜に促され、自然と体が動いた。
振り返ってすぐの錆びた階段を駆け上ってたどり着いた高台の、その向こう。
どんな人が弾いているのだろう。
何を思って弾いているのだろう。
音が大きくなるにつれて、胸の鼓動は早まるばかり。
満開の金木犀の中にひとり。
激しく、されど華のように弓を操る演奏家がいた。
彼の演奏に包まれたとき、私は時が止まったかのように感じた。
夢と錯覚してしまうくらい綺麗な音。
そのひとつひとつが心の琴線に触れて、眩暈さえ憶えた。
これが、「感情のこもった心に響く音」なんだ。
「どうしたらこんなに綺麗な音が出るんですか?」
思ったことがそのまま言葉になって思わず口を噤む。
「ごめんなさい。いきなり図々しいですよね」
目と目が合う。
彼の瞳に、涙のようなものが一筋、輝いているように見えた。
しかし、そんなことを思わせないほどの爽やかな声と笑顔が背の高いところから降ってきた。
「君も提琴を弾くのか?」
やがて彼の視線は私のバイオリンケースへと注がれる。
その様子をみて、提琴というのが何を指すのかわかった。
「はい。そんなにうまくはないんですけど」
あんなにも素敵な演奏をする人に自分のことを話すのは少し恥ずかしい。
「君の演奏が聞きたい」
日に焼けた端正な顔がぎゅっと近づいてきて、思ったよりも頬が熱い。
「ダメかな?」
はじめは断る気が満々だったのに、断れなくなって頷いた。