「姉さん、起きなよ。お風呂入ったり、着替えたりしないと。そういう生地のスカートって、吊るしてないと皺になるだろ」
「……ん、起きる」
どのくらい寝ていただろうかと慌てて壁の時計を見ると、まだ三十分も経っていなかった。洗い物を終えてすぐに声をかけてくれたらしい。
「ごめん、寝ちゃって」
「いいよ。やっぱ、働いて帰ってくると疲れてるだろ。そんなことより、食後のデザート代わりに美味しい飲み物いれたから」
テーブルの上には、お気に入りだけれど滅多に使わないタンブラーグラスが二つ並んでいた。ひとつはリス、もうひとつはウサギのシルエットが底に近い部分にぐるりと描かれている。可愛くて割りたくなくて、奥にしまっていたのだ。
「カルピス?」
「うん。でも、ちょっと普通のと違うから飲んでみて」
ウサギのグラスを勧められ、私は言われるままそれを口にした。
それはカルピスというよりも、もっと濃厚な、飲むヨーグルトに近い舌触りと味だった。
「美味しい……何これ」
「カルピスの牛乳割り。しかも、ちょっとレモンも入れてる」
「だからちょっとラッシーっぽい味なのか」
私は本格カレー屋さんで頼む、あの飲み物のことを思い出していた。美味しいけれど、飲みすぎるとカロリーが気になってしまう、あの飲み物だ。
「……裕樹にご飯作ってもらってたら、私、きっと太っちゃうな」
「なら、運動すればいいんだよ。食べることは悪いことじゃない。動かないのがいけないんだ」
「う……」
ポツリと口にしたある意味幸せな愚痴を、裕樹は聞き逃さなかったらしい。健康的でしなやかな裕樹に言われてると、動くのが嫌で安易に食事制限をしてしまうことが恥ずかしくなる。
動けばいいのか。そうか、そうですね。
「そういえばさ、この家の食器ってもしかして高いもの?」
飲み終えたグラスをシンクに運びながら、裕樹がちらりと食器棚になっているカラーボックスを見た。三段のカラーボックスを二つ並べて使っているけれど、そのどちらも結構キチキチに食器が並んでいる。
「ううん。ほとんど雑貨屋さんで手に入れたよ。最近はオシャレな百均もあるからね。この食器棚に入ってるほとんどのものが『Kitchen Kitchen』っていう雑貨屋さんで買ったもの。東京にもあるでしょ? 百円で可愛いもの買えるから人気なんだよ」
「うそ! この可愛いコップも? このグラタン皿も? このガラスのティーセットも? 全部百円?」
「あ、そのティーセットは、カップとコースターの二セットが五百円、ポットが五百円の計千円のお品でございます。ちなみにこれは『Salut!』って店で買ったの。ここは北欧雑貨を中心に可愛いものが揃ってていい店よ」
「おお……」
食器棚を前にして、裕樹が細い目を見開いている。もしかしたら、高いものかもと思って緊張しながら洗ったのだろうか。そうなのだとしたら申し訳ないことをした。でも、私の素行を知っていれば、そんな高級品をおけないこともわかるだろうに。
「姉さん、食器とか雑貨とか好きだったんだな」
部屋を見渡して、裕樹がしみじみと言った。
壁には控えめな色と柄のファブリックと、かすれたエッフェル塔がプリントされた時計。テレビ台の上にはブリキのミニバケツに入ったサボテン。そのテレビ台も無垢材を使った柔らかな色味をしているのがこだわりポイントだ。
私の部屋は、全体的に森ガールっぽいテイストに仕上がっている。大学時代からコツコツ集めたものが、この部屋には溢れている。
雑貨屋さんで安く手に入れたものや、ヨーロッパの蚤の市を模したイベントで見つけた掘り出し物もある。少し古臭くて、誰かの温もりを感じるこれらのものは、気に入ったものを長く持ち続けたい私の性分と合っているのだ。
「お母さんと一緒にいた頃は、何かを持ち続けることって、できなかったでしょ?」
「ああ……そうだったね」
私の母は、私の真逆で物に執着のない人だ。今でいうところの断捨離を生活の中に自然と取り入れている人で、何かの節目ごとに潔く、情け容赦なく物を捨ててしまう人だった。
おかげで家はいつも綺麗で整っていたけれど、ある日突然お気に入りのものがなくなる生活は、私にとってはすごく辛かったのだ。
「一人暮らし始めたら、絶対に好きなものに囲まれて生活するって決めてたんだ」
「そうなんだ。……いいね、俺、この部屋好きだ。姉さんの部屋って感じがする」
部屋を眺めるのに飽きたのか、裕樹はキルトラグの上にゴロンと横になった。それはまるで猫が自分のお気に入りの場所を見つけたような仕草で、見ていると何だか私もほっこりした。