スマホのアラームで目が覚めた。午前六時ジャスト。今日は一回目のアラームで起きられた。
昨日遅くまで裕樹と話をしていたから起きられるか心配だったのだけれど、誰かが家に泊まっているというのはいい緊張感があったらしい。
昨日は、たくさんのとりとめもない話で盛り上がった。私が大学に進学するのを機に離れて暮らすようになってそれきりだから、私たちには話すことがたくさんあるのだ。
両親の離婚のこと、私の大学時代の話、裕樹が高校時代に頑張ったこと、私の就活の苦労話などなど。
お酒の買い置きがなかったから代わりに炭酸飲料を飲みながら、日付が変わるまで話し続けた。
一時を回ったところで、慌てて順番にお風呂を済ませて、それから布団に入った。私の部屋は三十平米の2Kで、奥の部屋を私は寝室に使っている。だから、裕樹にはキッチンと続きになっているほうの部屋に布団を敷いて寝てもらった。
「昔は一緒に寝たのに……俺のこと、男だって意識してるの?」なんてことを裕樹は言ったが、それは記憶の捏造だ。私たちが姉弟になったとき、裕樹は八歳で、もう誰かと一緒に寝る年頃ではなかったのだから。
一緒に寝ないのは、ベッドが狭いからだ。それに私は寝相が悪い。そのことを言うと、裕樹は何かを思い出したのか冷蔵庫の近くにおとなしく布団を敷いて寝た。
***
寝室とキッチンに続く部屋を仕切る戸を引くと、裕樹は昨夜布団に入ったときと同じ格好でまだ眠っていた。相変わらずお行儀の良い寝姿。ひとたび眠ると拳法の達人が乗り移ったかのようになる私とは大違いだ。今朝も、得意の足技で盛大にタオルケットを仕留めたあとがあった。
「おはよう。……あれ、もしかしてもう昼だったりする?」
そっと横を通り過ぎたつもりだったのに、気配で起きたらしい。目をこすりながら裕樹は、むにゃむにゃと私を見る。
「ううん。まだ六時だから、朝ごはんまで寝てていいよ」
「休みなのに、規則正しく起きるんだね。さすが社会人」
「残念。私は今日も明日も仕事だよ。だからこの時間に起きてるの」
「え⁉︎ 土日休みじゃないんだ?」
裕樹は眠たげな糸目をバチっと見開いて驚いた。その驚きようを見て、私はこの子の行動が腑に落ちる。
なるほど、この子は今日私が休みだと思って昨日突然訪ねてきたのか。大学生にとっては、土日は休みだという感覚が染み付いていても仕方ない。
「私は水曜日が休みだよ。同業はみんな水曜日が休みなの。『契約が水に流れないように』っていう縁起担ぎみたいなものらしいけど」
「日本人って、そういうダジャレみたいなの好きだよね」
頭をかきながらつまらなそうに言って、裕樹はまた横になった。だから私は朝食の準備にとりかかった。
そうは言っても、大したものは作らない。溶き卵とミニトマトを入れたコンソメスープを作って、食パンを焼いて、オレンジを切って、インスタントコーヒーを淹れるだけだ。ただ、朝の目覚めきっていない体でそれらの作業を手早くやろうとすると怪我をするかもしれないから、慎重に三十分ほどかけて行う。
「裕樹、パンに塗るものはマーガリンとジャムと蜂蜜、どれがいい?」
「マーガリン、と砂糖が欲しいな」
「シュガートーストみたいにするのか。そっか、明日はマーガリンと砂糖を塗ってから焼いてあげるね」
「うん」
配膳を終えて裕樹を揺さぶりに行くと、まだいくらでも寝られそうな顔をしていた。こうして気の抜けた様子は、何だか小さな子供みたい。昨日駅で再会したときには随分と大人になってしまったように思えたけれど、どうやら子供の部分も多大に残っているらしい。
「今日、姉さんに遊びに連れて行ってもらうつもりだったから残念だなー」
トーストをかじりながら、少しうらめしそうに裕樹は言う。たしかに、大学生の男の子があまり知らない土地でノープランは退屈かもしれない。
「じゃあ、天神にでも行ってくれば? 地下街なら暑くないし、端から端まで歩くだけでも結構楽しいよ。初めてでも迷うことないし」
「あー、テレビで見たことある。確かに、地下鉄に乗ったらあとは地上に出る必要ないのはいいな」
天神は、地下鉄を降りるとすぐに全長約六百mの地下街が目に入る。そこ自体に店舗がたくさん入っているし、デパートやファッションビルとも繋がっていて、地上に一歩も出ることなくショッピングを満喫できる良い場所だ。東京や大阪などの、福岡よりはるかに都会から来た人が「福岡は買い物がしやすい」と言うのは、おそらく“てんちか”のおかげに違いない。
博多よりも天神贔屓の私が、オススメのお店や楽しみ方について熱弁すると、裕樹も興味を持ったみたいだ。賃貸マンションに続きこの話題にも食いついてもらえなければ、サービス業としてトーク術をどこかで修行すべきかと悩むところだった。
「じゃあ、これお小遣いね」
「わー俺、何だかヒモみたい」
出がけに一万円札を財布から出して渡すと、裕樹は何とも言えない顔をした。でも、拝むように高々と掲げてから、両手に挟んで私に合掌してみせた。
弟にお小遣いをあげて何が悪いのと思うけれど、このくらいの年頃になると男のプライドなんてものがあるのだろうか。
何となく、私の中で裕樹は小さい子のままなのだ。出会った頃の八歳の少年のままで、困ったり淋しかったりで泣いていないかと心配になってしまうのだ。
初めて裕樹にあったのは、私が十一歳で、裕樹が八歳のときだ。
私の母と裕樹のお父さんとの再婚が本決まりになってからの顔合わせだったから、その拒否権のなさに当時の私はひどく腹を立てていたのを覚えている。
お父さんも、弟もいらないーーそんなことを思っていたから、待ち合わせ場所に行くまでずっと膨れていた。でも、待ち合わせ場所であるファミレスで自分と同じように頬を膨らませている裕樹を見て、スッと怒りが覚めたのだ。
うちの場合、両親は離婚だったけれど、裕樹はお母さんと死別している。前もってそのことを聞かされていたのもあって、私は自分の弟になるその子の目があまりに淋しそうなことに気づいて胸が痛くなった。
頬を膨らませて、向かいに座った私を精一杯睨んでいたけれど、その目は今にも涙を零しそうだった。警戒心と反発心を全身から発していたけれど、目だけは淋しそうだった。
その目を見て、私は決めたのだ。この子のお姉ちゃんになろう、と。
これまで一人っ子で生きてきた者同士、突然姉弟になるというのはなかなか骨の折れることではあった。でも、私と裕樹はそう時間もかからずに仲良くなったのだ。
お父さんの仕事が忙しくてなかなか構ってもらえず、そのくせ甘やかされていたから、随分とスポイルされたお子様だったけれど、裕樹は根はとても良い子だった。
だから私は躾にはうるさくしたけれど、かなり甘やかしもしたのだ。お姉ちゃんお姉ちゃんと後ろをついてくる裕樹が可愛くて、たくさん構い倒した。
でも、私と裕樹のダブル進学という大きなイベントが無事済んだあと、両親は離婚してしまった。
だからといって、私が裕樹を可愛い弟だと思う気持ちはなくならなかったし、裕樹も変わらず姉と慕ってくれている。
夫婦の絆は脆くても、姉弟の絆は強いのだ。
***
仕事を終えて、帰り着いて、玄関のドアを開けると、すごく良い匂いがした。香ばしいその匂いに、私の胃は空腹を訴え、口の中に唾液が広がる。
「ただいま。良い匂いだね」
「おかえり。唐揚げ作ってるから、待ってて」
首だけで振り返って、裕樹が菜箸片手に言う。香ばしい匂いの正体は唐揚げだったのか。何か揚げ物なのだろうとは思っていたけれど、唐揚げと聞いて俄然テンションがあがる。
揚げ物全般が好きなのだけれど、昔から一等鶏が好きなのだ。だから、唐揚げも竜田揚げもとり天も大好き。
帰宅して良い匂いが部屋を満たしているなんて、すごく幸せだ。結婚して奥さんの待つ家に帰りたいと言っていた同僚を鼻で笑ったけれど、今なら気持ちがわかる。「おかえり」という言葉と夕飯の匂いコンボは、ちょっとヤバい。
それに、料理をする男の人の後ろ姿っていうのもなかなか良いものだ。
裕樹は唐揚げの世話をする合間にキャベツを刻み、お味噌汁を作り、副菜の冷奴を作っていた。無駄のない洗練された一連の動きは、彼の料理の腕がまだなまっていないことを証明している。炊きたてご飯を食べていないと聞いて、きっと一人暮らしを始めて自炊はしていないだろうと思ったのに。
母が私たちに料理を教えながら「ひろくんのほうが筋がいいね」と言っていたけれど、たぶんそうなのだろう。誰の手も借りずに料理をするようになって六年経つけれど、未だに私は慌てると手を切ったり揚げ物を焦がしたりするのだから。
裕樹の作った唐揚げは、びっくりするほど美味しかった。外はサクサク中は柔らかで、噛んだ瞬間、口の中に肉汁が広がった。秘密はニンニクとすりおろし生姜を入れた醤油ダレに肉を漬け込んでおくことと、衣は小麦粉と片栗粉を半々で使うことなのだという。
ジャガイモとワカメのお味噌汁も美味しかったし、冷奴も刻んだオクラが乗せてあって、その一手間が気に入った。
そして何より私を感動させたのは、千切りキャベツの細さだ。
「トンカツ屋さんのキャベツみたい」
「だろ? メッチャ練習したんだ」
「すごいねぇ。私なんて、練習したところでこうはできないよ」
私の特技は無意識の内にギリギリ繋がったキュウリの薄切りを作ることだ。つまり、千切りキャベツのレベルもお察しということ。
「食材、買い足してくれたんだね。ありがとう」
「うん。遊んで帰って、ただ待ってるのも申し訳ないと思ったからさ。あ、天神楽しかった。ブラブラするだけでも良いところだね」
冷蔵庫を確認すると、今日の夕食で使った分の残り以上の食材があった。これならあと三四日は豊かに暮らしていける。つまり、裕樹は私が渡したお小遣いで自分の買い物はあまりしなかったということなのだろう。それとも、お財布には自分で稼いだお金なんかがちゃんと入っているということなのだろうか。
「美味しいご飯を作って待っててもらうって、いいねぇ。……裕樹、いつまでこっちにいられるの?」
私は、何気ないふうを装って尋ねてみた。食後のまったりとした、満たされた空気の中でならうまく聞き出せるのではないかと思ったのだ。
私の問いかけに、くつろいでいた裕樹がピリッと緊張したのがわかった。でも、なるべく柔らかく見えるつもりの顔つきで見つめていると、観念したのか、ポツリと呟いた。
「バイトも何もかんも、辞めてきたんだ。だからさ、しばらく家においてよ」
昨日遅くまで裕樹と話をしていたから起きられるか心配だったのだけれど、誰かが家に泊まっているというのはいい緊張感があったらしい。
昨日は、たくさんのとりとめもない話で盛り上がった。私が大学に進学するのを機に離れて暮らすようになってそれきりだから、私たちには話すことがたくさんあるのだ。
両親の離婚のこと、私の大学時代の話、裕樹が高校時代に頑張ったこと、私の就活の苦労話などなど。
お酒の買い置きがなかったから代わりに炭酸飲料を飲みながら、日付が変わるまで話し続けた。
一時を回ったところで、慌てて順番にお風呂を済ませて、それから布団に入った。私の部屋は三十平米の2Kで、奥の部屋を私は寝室に使っている。だから、裕樹にはキッチンと続きになっているほうの部屋に布団を敷いて寝てもらった。
「昔は一緒に寝たのに……俺のこと、男だって意識してるの?」なんてことを裕樹は言ったが、それは記憶の捏造だ。私たちが姉弟になったとき、裕樹は八歳で、もう誰かと一緒に寝る年頃ではなかったのだから。
一緒に寝ないのは、ベッドが狭いからだ。それに私は寝相が悪い。そのことを言うと、裕樹は何かを思い出したのか冷蔵庫の近くにおとなしく布団を敷いて寝た。
***
寝室とキッチンに続く部屋を仕切る戸を引くと、裕樹は昨夜布団に入ったときと同じ格好でまだ眠っていた。相変わらずお行儀の良い寝姿。ひとたび眠ると拳法の達人が乗り移ったかのようになる私とは大違いだ。今朝も、得意の足技で盛大にタオルケットを仕留めたあとがあった。
「おはよう。……あれ、もしかしてもう昼だったりする?」
そっと横を通り過ぎたつもりだったのに、気配で起きたらしい。目をこすりながら裕樹は、むにゃむにゃと私を見る。
「ううん。まだ六時だから、朝ごはんまで寝てていいよ」
「休みなのに、規則正しく起きるんだね。さすが社会人」
「残念。私は今日も明日も仕事だよ。だからこの時間に起きてるの」
「え⁉︎ 土日休みじゃないんだ?」
裕樹は眠たげな糸目をバチっと見開いて驚いた。その驚きようを見て、私はこの子の行動が腑に落ちる。
なるほど、この子は今日私が休みだと思って昨日突然訪ねてきたのか。大学生にとっては、土日は休みだという感覚が染み付いていても仕方ない。
「私は水曜日が休みだよ。同業はみんな水曜日が休みなの。『契約が水に流れないように』っていう縁起担ぎみたいなものらしいけど」
「日本人って、そういうダジャレみたいなの好きだよね」
頭をかきながらつまらなそうに言って、裕樹はまた横になった。だから私は朝食の準備にとりかかった。
そうは言っても、大したものは作らない。溶き卵とミニトマトを入れたコンソメスープを作って、食パンを焼いて、オレンジを切って、インスタントコーヒーを淹れるだけだ。ただ、朝の目覚めきっていない体でそれらの作業を手早くやろうとすると怪我をするかもしれないから、慎重に三十分ほどかけて行う。
「裕樹、パンに塗るものはマーガリンとジャムと蜂蜜、どれがいい?」
「マーガリン、と砂糖が欲しいな」
「シュガートーストみたいにするのか。そっか、明日はマーガリンと砂糖を塗ってから焼いてあげるね」
「うん」
配膳を終えて裕樹を揺さぶりに行くと、まだいくらでも寝られそうな顔をしていた。こうして気の抜けた様子は、何だか小さな子供みたい。昨日駅で再会したときには随分と大人になってしまったように思えたけれど、どうやら子供の部分も多大に残っているらしい。
「今日、姉さんに遊びに連れて行ってもらうつもりだったから残念だなー」
トーストをかじりながら、少しうらめしそうに裕樹は言う。たしかに、大学生の男の子があまり知らない土地でノープランは退屈かもしれない。
「じゃあ、天神にでも行ってくれば? 地下街なら暑くないし、端から端まで歩くだけでも結構楽しいよ。初めてでも迷うことないし」
「あー、テレビで見たことある。確かに、地下鉄に乗ったらあとは地上に出る必要ないのはいいな」
天神は、地下鉄を降りるとすぐに全長約六百mの地下街が目に入る。そこ自体に店舗がたくさん入っているし、デパートやファッションビルとも繋がっていて、地上に一歩も出ることなくショッピングを満喫できる良い場所だ。東京や大阪などの、福岡よりはるかに都会から来た人が「福岡は買い物がしやすい」と言うのは、おそらく“てんちか”のおかげに違いない。
博多よりも天神贔屓の私が、オススメのお店や楽しみ方について熱弁すると、裕樹も興味を持ったみたいだ。賃貸マンションに続きこの話題にも食いついてもらえなければ、サービス業としてトーク術をどこかで修行すべきかと悩むところだった。
「じゃあ、これお小遣いね」
「わー俺、何だかヒモみたい」
出がけに一万円札を財布から出して渡すと、裕樹は何とも言えない顔をした。でも、拝むように高々と掲げてから、両手に挟んで私に合掌してみせた。
弟にお小遣いをあげて何が悪いのと思うけれど、このくらいの年頃になると男のプライドなんてものがあるのだろうか。
何となく、私の中で裕樹は小さい子のままなのだ。出会った頃の八歳の少年のままで、困ったり淋しかったりで泣いていないかと心配になってしまうのだ。
初めて裕樹にあったのは、私が十一歳で、裕樹が八歳のときだ。
私の母と裕樹のお父さんとの再婚が本決まりになってからの顔合わせだったから、その拒否権のなさに当時の私はひどく腹を立てていたのを覚えている。
お父さんも、弟もいらないーーそんなことを思っていたから、待ち合わせ場所に行くまでずっと膨れていた。でも、待ち合わせ場所であるファミレスで自分と同じように頬を膨らませている裕樹を見て、スッと怒りが覚めたのだ。
うちの場合、両親は離婚だったけれど、裕樹はお母さんと死別している。前もってそのことを聞かされていたのもあって、私は自分の弟になるその子の目があまりに淋しそうなことに気づいて胸が痛くなった。
頬を膨らませて、向かいに座った私を精一杯睨んでいたけれど、その目は今にも涙を零しそうだった。警戒心と反発心を全身から発していたけれど、目だけは淋しそうだった。
その目を見て、私は決めたのだ。この子のお姉ちゃんになろう、と。
これまで一人っ子で生きてきた者同士、突然姉弟になるというのはなかなか骨の折れることではあった。でも、私と裕樹はそう時間もかからずに仲良くなったのだ。
お父さんの仕事が忙しくてなかなか構ってもらえず、そのくせ甘やかされていたから、随分とスポイルされたお子様だったけれど、裕樹は根はとても良い子だった。
だから私は躾にはうるさくしたけれど、かなり甘やかしもしたのだ。お姉ちゃんお姉ちゃんと後ろをついてくる裕樹が可愛くて、たくさん構い倒した。
でも、私と裕樹のダブル進学という大きなイベントが無事済んだあと、両親は離婚してしまった。
だからといって、私が裕樹を可愛い弟だと思う気持ちはなくならなかったし、裕樹も変わらず姉と慕ってくれている。
夫婦の絆は脆くても、姉弟の絆は強いのだ。
***
仕事を終えて、帰り着いて、玄関のドアを開けると、すごく良い匂いがした。香ばしいその匂いに、私の胃は空腹を訴え、口の中に唾液が広がる。
「ただいま。良い匂いだね」
「おかえり。唐揚げ作ってるから、待ってて」
首だけで振り返って、裕樹が菜箸片手に言う。香ばしい匂いの正体は唐揚げだったのか。何か揚げ物なのだろうとは思っていたけれど、唐揚げと聞いて俄然テンションがあがる。
揚げ物全般が好きなのだけれど、昔から一等鶏が好きなのだ。だから、唐揚げも竜田揚げもとり天も大好き。
帰宅して良い匂いが部屋を満たしているなんて、すごく幸せだ。結婚して奥さんの待つ家に帰りたいと言っていた同僚を鼻で笑ったけれど、今なら気持ちがわかる。「おかえり」という言葉と夕飯の匂いコンボは、ちょっとヤバい。
それに、料理をする男の人の後ろ姿っていうのもなかなか良いものだ。
裕樹は唐揚げの世話をする合間にキャベツを刻み、お味噌汁を作り、副菜の冷奴を作っていた。無駄のない洗練された一連の動きは、彼の料理の腕がまだなまっていないことを証明している。炊きたてご飯を食べていないと聞いて、きっと一人暮らしを始めて自炊はしていないだろうと思ったのに。
母が私たちに料理を教えながら「ひろくんのほうが筋がいいね」と言っていたけれど、たぶんそうなのだろう。誰の手も借りずに料理をするようになって六年経つけれど、未だに私は慌てると手を切ったり揚げ物を焦がしたりするのだから。
裕樹の作った唐揚げは、びっくりするほど美味しかった。外はサクサク中は柔らかで、噛んだ瞬間、口の中に肉汁が広がった。秘密はニンニクとすりおろし生姜を入れた醤油ダレに肉を漬け込んでおくことと、衣は小麦粉と片栗粉を半々で使うことなのだという。
ジャガイモとワカメのお味噌汁も美味しかったし、冷奴も刻んだオクラが乗せてあって、その一手間が気に入った。
そして何より私を感動させたのは、千切りキャベツの細さだ。
「トンカツ屋さんのキャベツみたい」
「だろ? メッチャ練習したんだ」
「すごいねぇ。私なんて、練習したところでこうはできないよ」
私の特技は無意識の内にギリギリ繋がったキュウリの薄切りを作ることだ。つまり、千切りキャベツのレベルもお察しということ。
「食材、買い足してくれたんだね。ありがとう」
「うん。遊んで帰って、ただ待ってるのも申し訳ないと思ったからさ。あ、天神楽しかった。ブラブラするだけでも良いところだね」
冷蔵庫を確認すると、今日の夕食で使った分の残り以上の食材があった。これならあと三四日は豊かに暮らしていける。つまり、裕樹は私が渡したお小遣いで自分の買い物はあまりしなかったということなのだろう。それとも、お財布には自分で稼いだお金なんかがちゃんと入っているということなのだろうか。
「美味しいご飯を作って待っててもらうって、いいねぇ。……裕樹、いつまでこっちにいられるの?」
私は、何気ないふうを装って尋ねてみた。食後のまったりとした、満たされた空気の中でならうまく聞き出せるのではないかと思ったのだ。
私の問いかけに、くつろいでいた裕樹がピリッと緊張したのがわかった。でも、なるべく柔らかく見えるつもりの顔つきで見つめていると、観念したのか、ポツリと呟いた。
「バイトも何もかんも、辞めてきたんだ。だからさ、しばらく家においてよ」