「信玄サン、ブチ切れてたでしょ?」

沙耶は悪戯な笑みを浮かべた。

“信玄さん” というのは武田さんのことだ。陰ではみんなそう呼んでいる。
武将「武田信玄」が由来なのは言うまでもない。
ひねりのないあだ名だけど、言い当て妙といえばそうかもしれない。

堅物の武田さんからそこはかとなく漂う『武士感』……武田信玄と呼びたくなる気持ちは分かる。とても分かる。

「キレてたっていうか、もう呆れてる」

「さっすが~」

沙耶はおもむろに鏡を取り出し、自分の顔面をチェックし始めた。(そろそろ休憩が終わるのだろう。フロント勤務の人たちは、休憩時間が不規則だ)

そして、入念にリップを塗りながら

「ねぇねぇ凪、知ってた? 信玄さんああ見えて20代らしいよ」

なんて衝撃発言をしたので、私は思わず耳を疑った。

「はい!?」

「29歳だって。ウケるでしょ?」

嘘でしょ。
ハンガーのこと『衣紋掛け』って言う、あの武田さんが??

信じられない。

「いやいや、アレはどうみても40代後半中間管理職くらいの貫禄あるでしょ……」

「分かるー! 私も実年齢知ってびっくりしたもん。でもさぁ、若くて、独身で、仕事も出来て……って、何気に狙い目じゃない? “黙ってたら” 渋〜いカンジのイケメンだし。凪、どう?」

“黙ってたら” 渋めのイケメン。
黙ってたら、ね。うん、それは超絶同意なんだけど……

「やめて、冗談じゃない」

身震いしながら答えると、沙耶はキャッキャッと笑って席を立った。

「じゃあ、そろそろ戻るね。レポート、ちゃんと提出しなよ!じゃあね~」

「へいへい」

私はやる気のない返事をしながら、颯爽と去ってゆく沙耶に手を振った。