そろそろ恋する準備を(短編集)




 次の日の朝。
 山ノ内のげた箱を開け、やつの上靴にゴキブリのおもちゃをいくつも仕込んでいるとき、ふと思った。

 しののめくん。捻挫の足で学校に来るのは困難なのではないだろうか。

 昨日はわたしがママチャリで送ったけれど、朝は……? 昨日怪我したあと、養護の先生が病院に連れて行こうとしたけれど「うち病院なんで大丈夫です」と言って断っていた。だからてっきり開業医で、自宅が病院なのだと思っていたけれど、普通のマンションだった。彼はちゃんとお父さんに診てもらったのだろうか。今日は車で送ってもらえるのだろうか。もし徒歩だとしたら、サポート無しであの坂を下るのはきついに違いない。

 大丈夫かどうか聞こうと思ったけれど、しまった。連絡先を何も知らない。わたしたちはなんて他人なんだ!


 迎えに行くべきか否か。
 うんうん考え込んでいたら、突然「おい」と話しかけられた。確か隣のクラスの……しののめくんとよく一緒にいるふたりだ。銀縁眼鏡と、ノーネクタイ。名前は全く知らない。

「あんた、慧樹くんに怪我させたやつだろ?」

 銀縁眼鏡が言う。
 ここでわたしはようやく、しののめくんの下の名前を知った。けいじゅ。慧樹って、けいじゅって読むんだ……! 「すいき」かと思った!

「怪我はさせたけど……あ、ねえ、しののめくんの連絡先知ってる?」

「知ってるけど」

 次はノーネクタイが答えた。

「じゃあ教えてくれない? 今ちょうど迎えに行くか悩んでて……」

「え、あんた部屋に泊まったんじゃねえの?」

「世話するって聞いたけど……」

 と、泊まる? なぜそうなる。怪我が治るまで世話をするってことだったけれど、それは学校内の話であって……。

 戸惑っていると、銀縁眼鏡とノーネクタイは顔を見合わせる。

「じゃあおれらで迎えに行くか」

「大変だろうしね」

「ちょ、ちょっと待って。どういうことか分かるように説明して」

 言うとふたりは困ったように笑って、こんなことを言ったのだった。

「慧樹くん、一人暮らしだよ」

「……は?」


 あの野郎! 一人暮らしなら最初から言えよ!
 それならわたしだって鬼じゃないし、怪我をさせてしまったわけだから、無理矢理にでも部屋に押しかけたのに! 今朝だっていつもより一時間早く起きて、しののめくんのためにお弁当を作ったというのに!

 やっぱりしののめくんって謎。よく分からん。
 呆れながら、校舎を飛び出した。






 どうしてしののめくんはこんなにきつい坂の上にあるマンションに住んでいるのか。このマンションを選んだ理由を小一時間問いただしたい。
 筋肉痛の身体に鞭打って、長い坂を上り切る。

 息を切らしながらマンションの前に着いて、息を整える間もなく、さっきのふたり組から聞いたしののめくんの携帯番号をディスプレイに表示する。
 通話ボタンを押して、長いコール音。

「……」

 ……出ない。携帯を諦め、今度は自宅に電話をかける、が、こちらも応答なし。留守電にもならない。なぜ。もしかして知らない番号からの着信だからか? そんなにナイーブ? そんなに神経質?

 でも焦ることなかれ。部屋が何号室なのかも聞いている。

 エレベーターで七階まで上がって、七〇二号室のチャイムを押した。

 しかしこちらも反応がない。
 試しにドアノブに手をかけてみれば、かちゃりと音を立て、ドアが開く。

 覗いた部屋の中に、人の気配はない。

 ……まさか。まさか、誘拐?

 いやいやいや、ないないない。あんな不愛想でニヒルな笑みを浮かべる男子高校生を誘拐なんて。ああ、でもしののめくんはお医者さんの息子。身代金目的の誘拐なら充分有り得る。特に今のしののめくんは手負い。足払いをして倒せば、動きなんて簡単に封じられる……!


「し、しののめ……!」

 慌てて部屋の中に突入すれば、

「ぎゃああああっ! し、死んでる……!」

 リビングの真ん中でうつ伏せに倒れているしののめくん。床には服や食料が散乱し、転がるペットボトルからは液体が溢れている。

 誘拐ではなかったけれど、これは事件だ! 警察! 救急車! って何番だって? 一一七? 一〇四?


「……うるせぇ」

「うわっ、生きてる!」

「勝手に殺すな」

 もぞ、と動いたしののめくんは、片目だけを開いてわたしを睨み上げる。こんな状態なのに睨む元気はあるらしい。


「ごめんね、一人暮らしだとは思わなくて……。まさかこんな事件に巻き込まれているなんて……」

「はあ? 事件?」

「あれ、違うの?」

 どうやら違うらしい。
 しののめくんによれば、昨日帰ってから着替えようと思って挫折、服が散乱。お腹が空いて何か食べようと思って挫折、食料が散乱。せめて水でも飲もうと思って挫折、ペットボトルの中身が床に溢れる。そこで力尽き、リビングの真ん中に倒れたまま寝てしまい、今に至るという。

 でももうちょっと倒れ方があったのではないだろうか。これじゃあ事件にしか見えない。恐い。






「とにかくごめんなさい。ちゃんと部屋までついて行って、お世話するべきだった」

 深々と頭を下げると、しののめくんは眠そうな目でわたしを見上げた。

「治るまで、一緒にいてもいいですか?」

「おまえ……」

 そう呟いたしののめくんは、ゆっくりとした動きでわたしの左手を掴んで、握る。
 どきりと心臓が鳴った。

 不思議な気分だった。山ノ内にはどれだけ触られても、何とも思わないのに。どうして今日に限って、しののめくんに限って、こんなに胸が疼くのだろう。
 何を考えているか分からない、いつも不機嫌そうですぐ睨む、かと思えば高校生らしくないニヒルな笑みを浮かべるような横暴男に、どうして……。


「し、しののめくん……?」

「おまえ、さっき東雲って呼び捨てにしたよな」

「……へ?」

 しののめくんがそう言った瞬間、握られた左手の指が、ぼきぼきぼき、と。不気味な音を立てた。

「ぎゃあああああっ! 指があああああ!」

「うるせぇ、呼び捨てにすんな」

 なにこのひと! 超こわい! わたしの指を急にデストロイした! こわい!

「ごごごごごめんなさいしののめさま……!」

「とりあえず部屋片付けろ」

「はいすいませんしののめさま、仰せの通りに……!」


 慌ててしののめくんをソファーに運んで、惨状となったリビングの片付けを始める。
 さっき不気味な音を立てた左手の指が痛くて、泣きそうになった。

 全部山ノ内のせいだ。明日、やつのげた箱やロッカーや机の中に、ありとあらゆるジョークグッズを仕込んでやる。
 ああ、もう絶対指いかれた。超いたい……。

 めそめそしながら片付けていたら「有紗」と。しののめくんが突然わたしの名を呼んだ。名前を呼ばれたのは初めてで驚いた。でもそれ以上に、わたしの名前を知っていたことのほうが驚きだった。

「その指が使い物にならなくなったら、今度は俺が面倒見てやるよ」

「……」

 指が使い物にならなくなったら、というのが気になるけれど、しののめくんの捻挫が治るまで一緒にいると約束した。指も尋常じゃないくらい痛くなってきた。わたしの指が良くなるまで、彼も一緒にいてくれるらしい。だから当分一緒にいることになりそうだ。

 それならその間に、恋する準備でもしてみようか。まずはちゃんと「東雲くん」と呼んでみることから始めよう。






(了)
【さくらゆ】




 今日でお別れだから、確かに一緒の時間を過ごしていたという証だけは、欲しいなって。第二ボタンだけは貰っておきたいなって。毎日毎日考えて、日に日に緊張が増して、ついにその日がやって来た。やって来てしまった。


「いい? 卒業式が終わったらダッシュだよ? じゃないとすぐに持っていかれるから」

 友だちの菜々ちゃんに、本日三度目となる台詞を言われ、こくこくと何度も頷いて見せた。菜々ちゃんが何度も同じことを言ってしまうくらい、わたしは朝からぼうっとしていたらしい。
 わたしもそれは感じていた。なんだか足が地面についていないような。まるで三ミリくらい浮いているような。そんな感覚だった。


 大好きな健一先輩は、今日この高校を卒業する。
 軽音部所属で、バンドを組んでいる健一先輩は、とにかくモテる。文化祭で演奏する度、ライブハウスで対バンをする度、着々とファンを増やしている。
 だから早く行かないと他の女の子たちに、ボタンはおろか、校章や学年章や鞄まで持って行かれるかもしれない。

 だったら前もって予約なり告白なりをしていれば良かったのに、とも思うけれど。そんな勇気はなかったのだから仕方ない。
 勇気を出すのは一日が限界。だから今日一日に賭けて、絶対にボタンを貰いに行こうと思っていた、のに……。


 早速問題が発生した。
 自分のクラスのホームルームを終えて、ダッシュで三年生の教室に向かったのに、健一先輩の姿がない。他の子たちも、健一先輩のクラスの人たちですら、いつからいないのか、どこに行ったのか分からないようだった。
 健一先輩とバンドを組んでいる梅原先輩と金子先輩なら行き先を知っているかも、と探したけれど、ふたりの姿もなかった。


 健一先輩のボタンを早々に諦めた子たちがぞろぞろと去って行き、諦めきれない子たちは校内を走り回っていた。もしかしてトイレかもしれない、と男子トイレの前で待ち伏せする子たちまでいた。

 わたしはというと、健一先輩が所属していた三年六組前の廊下に立ち尽くしていた。
 胸いっぱいに溜めていた勇気が、しおしおと萎んでいくのが分かった。







 諦めるしかない、でも諦めたくない。そんな葛藤をしていたら、いつの間にか、廊下に溢れていた人たちはほとんどいなくなっていた。
 携帯で時刻を確認すると、ここに来てからもう一時間以上経っている。

 ようやく移動しようという気分になって、一歩踏み出す、と。

「カコちゃん?」

 誰かがわたしの名前を呼んだ。振り返った先にいたのは健一先輩、ではなく、同じバンドの梅原先輩だった。

「どうした? 産卵前のウミガメみたいな顔してるよ」

「ひどい……」

 言うと梅原先輩は笑って、わたしの頭を優しく撫でた。

「もしかして、健一探してる?」

「え?」

「屋上にいるよ。今までみんなで一緒にいたから」

「でも……屋上って立ち入り禁止じゃ……。どうやって入ったんですか?」

「ふっふっふ。我が軽音部には、先輩方から伝わる秘密の鍵があるのだ」

「え、それ大丈夫なんですか?」

「さあ。でも良い避難場所にはなる。金子なんて今朝登校早々、知らない子にボタンむしり取られそうになったって怯えてるし。健一は上靴の靴紐すり替えられたし。俺は俺で、ロッカーに入れっぱなしだった漢和辞典がなくなってた」

「梅原先輩のは普通に盗難事件ですよね……」

「まあでもこれから使う機会もないだろうし、使うときはまた買えばいいし。何より重くて持ち帰りたくなかったし、いいよ。良かったらカコちゃん、部室に置いてある国語と日本史の資料集あげるよ」

「自分のがあるのでいりません」

「だよなあ」

 梅原先輩がふっと笑って、わたしもつられて笑う。萎んでいた気持ちが、ぎりぎりで持ち直した気がした。
 そうしたら梅原先輩はわたしの背後に回り、「行ってみなウミガメちゃん」と失礼なことを言いながら、背中を強く押した。

 その勢いのまま、梅原先輩の励ましに応えるよう、わたしは誰もいなくなった廊下を走り出したのだった。







 屋上の重い扉を開けると、眩しい太陽の光がまぶたに突き刺さる。
 その光に慣らすよう、ゆっくりと目を開けると、落下防止の柵に寄りかかっていた三人が、同時に振り返ってこちらを見た。

 健一先輩と金子先輩、それに先輩方と一緒にバンドを組んでいる同じクラスの近江くんだ。

「お。可愛い後輩が来たな」

 そう言って金子先輩は、思いっきり健一先輩の背中を叩き「邪魔者は帰るぞ」と近江くんを促した。

 屋上を後にするふたりを扉の横で見送ってから、改めて健一先輩を見る。先輩は優しい笑顔で手招きした。それに従って一歩二歩と近付き、すぐそばまで行ってから頭を下げる。

「卒業、おめでとうござます」

「ありがとー」

 いつも通り明るい健一先輩の声を聞いたら途端に安心できた。でもここでようやく、渡そうと思っていたプレゼントを教室に忘れて来たことに気付いた。それから、健一先輩の学ランのボタンが、ほとんどないことも。
 ほとんど、ということは、少しは残っているということで。あるのは校章と学年章、そして第二ボタンだけだ。

「……ボタン、どうしたんですか?」

「んー、友だちとか後輩とかに持って行かれた。梅原は予約済みだからって全部断ってたし、金ちゃんは女子に襲われた恐怖で逃げ回ってたから、代わりにおれが根こそぎ」

「……第二ボタンは、あるんですね」

「これは、予約済みだからって断ったんだ」

 弾けたように顔を上げると、その先に、いつも通り優しそうなたれ目で笑う健一先輩の顔があった。

「……予約、ですか?」

「うん。予約はされてないけど、たぶん泣きながらもらいに来るだろうなーって」





 健一先輩の腕が伸びてくる。その大きな手がわたしの頬に触れた。走って来たせいで火照った顔に、冷たい手が気持ち良い。


「なのに残念。泣いてないね」

「え?」

「ライブで感動してしょっちゅう泣いちゃうカコちゃんが、まさかおれらの卒業式で泣いてくれないなんてなあ」

 その言い方で、誰が健一先輩の第二ボタンを予約したのか分かった。それは……。

「わたし、ですか?」

「うん、そう、“わたし”」

 第二ボタンがもらえる。健一先輩はわたしにくれるために、ボタンを取っておいてくれた。そう理解したら緊張の糸がぷっつり切れて、途端にどばっと涙が溢れた。

 健一先輩は「泣かないでー」と言ってわたしを抱き寄せ、宥めるように背中をぽんぽん叩く。

「まあ、泣き顔もそそられるけどねえ」

「さっき梅原先輩に、産卵前のウミガメって言われましたけど……」

「あははー、梅原のやつ、後でしめてやる」


 その状態のまま、しばらく春の風に打たれ、ようやく身体を離すと、健一先輩は思い出したように第二ボタンに手をやる。

 そして格好良くボタンを……ボタンを……。

「あ、あれ?」

 余程頑丈に縫い付けてあるのか、ボタンが外れない。

「ちょ、ちょっと待ってね」

 前かがみになり、両手を使って、苦戦しながらようやく外したボタンを、コロンとわたしの手の平に転がす。
 それをそっと撫でたあとで、大事に大事に握り締めた。

 健一先輩の第二ボタン。きっとみんな欲しかったであろう第二ボタン。それが今、わたしの手の中にある。

 でもこれを貰うことができるのは、先輩にはもう必要がないものだからだ。明日からこの学校に、先輩はいない。

 ボタンを貰えて嬉しい。でも、明日からは簡単に会えなくなってしまうのが寂しい。もう廊下でばったり会って他愛ない雑談をすることも、軽音部の部室を訪ねることも、教室の窓から「おーいカコちゃーん」と声をかけられることもない。そんな日々がやってくる。

 そんなわたしの複雑な気持ちを察したのか、健一先輩はこんなことを言った。

「週末どこかに遊びに行こう。来週も、再来週も。花見も行こう。もうすぐ桜の季節だよ」

 そうして健一先輩は、胸の花飾りを取ってわたしの髪に付けながら、たれ目をいつもよりずっと下げて、えへへと笑ったのだった。








(了)

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