十二時十分前。
体育館を覗くと、ちょうど出入り口の横にバレー部副主将の小野田くんがいた。
午前の練習の最後に、順番にレシーブ練習をしている真っ最中らしい。
「昨日は大丈夫だった?」優しい笑顔で小野田くんが言う。
「あ、うん、ご迷惑をおかけしました。これお詫び」
「なに?」
抱えていた重箱弁当を差し出すと、小野田くんは「作ったの?」とぎょっとした顔。
「今朝早起きしちゃって。食べ盛りの高校生全員を満足させるほどの量は入ってないから、おつまみ程度にどうぞ」
「ありがとう。いただきます」
「ああ、最初に言っておくけど、口に合わなかったら残してね。あとは外に出しててもらえれば夕方に取りに来るし。ヒメに預けてもいいし」
「ん、分かった」
「じゃあ、またね。練習頑張って」
帰り際、光平くんのほうを見た。
汗だくでひたすらレシーブをする光平くんは、わたしに気付く様子もない。
重箱弁当を完成させたらすっきりしたし、きっともう大丈夫。また明日から、今まで通り幼馴染みをやれる。片想いを続けられる。
晴れやかな気分でのんびり歩いて帰路について、横断歩道で信号待ちをしている、と。
「陽菜……!」
「へ?」
汗だくの物凄い形相で、光平くんがやって来た。
光平くんはわたしの肩をがっしり掴んで、下を向き、ぜえはあ言いながら切れた息を整える。
「ど、どうしたの? こわいんですけど……」
「おまえが、来たって、聞いて、っげほ……」
「そ、そう」
午前の練習を切り上げてすぐにここまでダッシュって。さすが運動部は体力がすごい。
ようやく呼吸を整えた光平くんは、滝のように汗が流れるびっちょびちょの顔を上げて「悪かった」と言った。
いつもお互い謝罪もなく過ごしていたから、喧嘩のあとでどちらかが謝ったのは初めてのことだった。
「泣かせるつもりはなかった」
「うあ、うん、わたしこそ……泣くつもりはなかった。ごめん」
初めての謝罪は、なんだか恥ずかしい。
「弁当、見た」
「あ、ああ、うん。よかったらみんなで食べて」
「卵焼きだけ食ってきた」
「食べたあとすぐ走るとお腹痛くなるよ」
「うまかった」
言われた途端、かあっと顔が熱くなる。
面と向かって、しかもすぐ目の前でそんなこと言われたら、誰だって恥ずかしくなる。だって初めて光平くんがデレた……!
「ほんとは、他のやつらに食わせたくないんだけどもよ……」
「どうして?」
「だって……」
言いかけて、光平くんは下を向き、口をつぐむ。
汗がぱたぱたと、アスファルトに落ちては、消えていく。
「だって、なに?」
続きを促すと、肩に置かれたままだった光平くんの手に、ぎゅうっと力がこめられた。
「だって……おまえの手料理食って見たくて、挑発したのは俺だから」
「へっ……?」
貴重な光平くんのデレが続いて、わたしは、返す言葉を失った。
じゃあ昨日やたらと絡んできた理由って……わたしの料理を食べてみたかっただけ?
ならはっきり言ってくれればいいのに。ほんっと分かりづらい。挑発なんてしないでストレートに言えば、わたしだって「面倒だけど作ってやるか」と可愛げもなく言っただろうに。
「……じゃあ、戻るぞ」
「う、うん」
肩から離れた光平くんの手が、こちらに差し出され、わたしは素直にその手を取った。
手すらも汗でびっちょびちょだったけれど、可愛げのないことは言わないでおいた。
「あぁっ!? おまえら何全部食ってんだ!」
「急に飛び出して行くからいらないんだと思って」
「あ、陽菜先輩! うまかったっす!」
「ほんと、すごくおいしかったよ」
「陽菜料理うまいんだな!」
「陽菜はなんでも上手だよ。前に食べたオムライスとか肉じゃがもおいしかったし」
「ヒメ! おまえ陽菜の料理食ったことあんのかよ! なんで言わねえんだ!」
「聞かれなかったし、陽菜んち行くって誘ったのに、来なかったの光平くんだよ」
体育館。入り口の近くで重箱弁当を広げて、それを取り囲むようにみんながわいわいやっていた。
お弁当の中身は見事に空で、それでも足りずに食べ盛りの高校生たちは、持参したお弁当を食べている。
光平くんはヒメや小野田くんに掴みかかって抗議していたけれど、講義しても中身が復活するわけではない。
「いいじゃん、いつでも食べられるようになったんでしょ?」
矢本くんの言葉に、少し考え込んだ光平くんは、腹が立つくらいのドヤ顔で「まぁね!」と答えた。
答えてすぐにわたしのほうを向いて「作れよな」とストレートに言うから、わたしも「なんでも作るよ」と返事をした。
たまには素直になる日があってもいいと思った。
挑発癖のある男と、可愛げのない女の場合は、特に。ね。
(了)
【残り数センチの痛み】
「隼人! ちょっ、ちゃんとしてよ!」
「もういいだろうが」
「駄目! みんなに才色兼備って言われてるわたしが、恋愛初心者なんて絶対駄目!」
「岡本に教えてもらえばいいだろ」
「無理だよ! だって絶対岡本くんのほうがわたしより恋愛経験豊富だもん。笑われちゃうよ!」
「じゃあなんで俺なんだよ。他の奴でもいいだろうが」
「幼馴染みでしょ、協力しなさい!」
一ヶ月前、幼馴染みの知花が岡本に告白された。
岡本はこの一ヶ月、手も握らないし、それ以上のことも勿論してこないらしい。
それが逆に、十八年間彼氏を作ったことがなかった知花を焦らせた。
もしかして自分に魅力がないのかもしれない、何か問題があるのかもしれない、自分が積極的になった方が良いのかもしれない、とあれこれ考えた結果、俺に「練習台になってほしい!」と最低なことを頼んできた。
タダじゃ引き受けねえよ、とやんわり断ったのに、真面目な知花は、パンを十個に高いアイスを五個、カップ麺十個に栄養ドリンクを五本持って、もう一度頼みに来た。
なんで食い物ばっかなんだよ、エロ本でも買って来いよ、と遠回しに断ったつもりだったのに、やっぱり真面目な知花はエロ本を買って、また頼みに来る。
こうなればもう、引き受けるしかなかった。
それから一週間、夕方六時からの一時間、知花と俺は、キスの練習をしている。
「はい、もう一回」
「しょうがねぇなあ……」
知花は不器用に目を閉じて、唇を押しつけてくる。
何度やっても、全然上達しない。才色兼備が聞いて呆れる。容姿はわりと良いし、勉強もできるくせに、こういうことに関しては何もできないなんて。
しばらく押しつけてそれを離すと「どうだった?」と自信ありげに質問してくる。
「どうも何も……」
「ちょっと! 岡本くんとわたしが上手くいくかは、隼人にかかってるんだからね!」
そんなの知ったこっちゃねえ。
「ほら、隼人、もう一回しよう!」
知ってるか、知花。
俺はおまえと岡本が、駄目になっちまえばいいって思ってるんだぞ。
昔から、勉強も家事も難なくこなしていたけれど、肝心な所はちょっと抜けている。そんな知花を放っておけなくて。まるで陶器でも扱うみたいに大事にしてきた。
それを急に現れた岡本にあっけなくかっさらわれて、腹が立たないわけがない。噂では岡本は、高校に入ってから途切れることなく彼女がいるらしい。それが噂止まりなのは、彼女が全員他校生だからだという。
そんなやつが、本当に知花を大事にしてやれるのか。することだけして、飽きたら捨てるかもしれない。
大事な知花が壊されてしまうなら、俺が壊してしまえばいい。
岡本が何かを仕出かす前に、知花の心を動かしてしまえばいい。
押しつけられた唇を噛み、少しだけ開いた唇に舌を差し込みながら押し倒すと、知花は驚いた顔をした。
このまま先に進んでしまえば、次はどんな顔をするだろうか。岡本とは終わるだろうか。俺のものになるだろうか……。
(了)
【ご一緒に恋はいかがでしょう】
「いらっしゃいませご注文をお伺いしま、……」
「来ちゃった!」
「ごめん、結衣ちゃん」
「……」
バレー部に所属する七峰くんと付き合い始めて数ヶ月。
学校近くのファストフード店でアルバイトを始めて一ヶ月。
仕事にも慣れて来た頃、知ってる顔がやって来た。
七峰くんと、同じクラスの戸神。
元気が取り柄のバレー部主将戸神はいつも通りへらへらにこにこしていて、七峰くんはいつも通り優しい表情だった。
「……なにやってんの、部活は?」
「今日体育館使えなくてさあ、結衣ちゃんここで働いてるって聞いて!」
ばらしたな七峰くん……という視線を送ると、ナチュラルに目を反らされた。
それにしても恥ずかしい。知り合いに、しかも恋人に働いている姿を見られるというのは、こんなに恥ずかしいものなのか。
くそう……これはしばらく戸神にからかわれるなあ。ていうか、わたしと七峰くんをからかうために来たのか……。戸神ほんとやだ!
「俺、フィッシュバーガーのセットね! 飲み物はコーラ! 七峰は?」
「烏龍茶。Mで」
「あとスマイルもくださーい!」
「それではご注文繰り返します、フィッシュバーガーセット、お飲み物のコーラがおひとつ、烏龍茶のMサイズがおひとつ」
ご所望のスマイルで注文を繰り返すと、さっき目を反らした七峰くんの視線が戻ってきた。なんだかすごく恥ずかしい。ああ、七峰くんかっこいい。
「……お客さま、フィッシュバーガーのフィッシュはグッピーでよろしいですか?」
「よろしくないです……!」
「それではエンゼルフィッシュバーガー、つゆだくでよろしいですか?」
「やめて!」
わたしの照れ隠しに気付いたのか、七峰くんはふっと笑って、今までよりもずっと優しい顔をした。
インハイ予選が近付き「今年こそは!」とバレー部は毎日朝から晩まで練習していて、一緒にいる時間がなくて、寂しかったから始めたアルバイトだった。
それが結果的に移動費や宿泊費になったら一石二鳥。
それを白状したら「マネージャーになればいいのに」と真顔で言われてしまったけれど。
でもマネージャーとしてすぐ横をちょろちょろしているのはちょっと照れくさいし。今でも七峰くんが好きすぎて困っているのに、マネージャーになっちゃったらますます惚れてしまうかもしれない。
トレイにフィッシュバーガーとポテト、ドリンクをふたつ乗せて差し出すと、手を伸ばした戸神を押しのけ、七峰くんが受け取る。
「頑張ってね」
「ありがとう」
「今日何時に終わる?」
「えと、八時かな」
「じゃあそれくらいに迎えに来るから、たまには一緒に帰ろう」
「ん、分かった」
目を細め、優しい顔で頷いた七峰くんが、席に移動するのをずっと見ていた。
戸神はその横で「いちゃいちゃすんなよー!」と抗議していたけれど。うるさい戸神! 高校生カップルの貴重な放課後、たまにはいちゃいちゃさせろ! ただでさえふたりは主将と副主将で仲が良いんだから!
清々しい気分で顔を上げ、店に入って来たお客さまに笑顔を向けた。
よし、頑張ろう。あと数時間後には、七峰くんと並んで歩けるのだから。
(了)
【明日が待ち遠しい】
時刻は夜十時を過ぎたところ。
もう一時間、携帯のアドレス帳を見ていたけれど、意を決して通話ボタンを押した。相手はわたしの恋人、ひとつ年下の広瀬くん。
去年同じクラスで隣の席になったバレー部の戸神に「暇なら放課後練習見に来いよ!」って言われて、暇だったから行ってみた。ら、広瀬くんに一目惚れした。
それから毎日のように練習を見に行った。戸神と広瀬くんの自主練まで見ていた。自在にボールを操る広瀬くんを見ていたら、ますます好きになった。
会釈から始まり、挨拶をするようになり、一言二言話すようになり、校内でばったり会ったら雑談するようになって、ついに先月告白した。
「好きです、付き合ってください」と言ったら「いいですよ」って。
バレーをしているときはセッターとして誰よりもコートの中の動きを把握し素早いボールさばきを見せるのに、バレーから離れた広瀬くんは誰よりもテンションが低い。
だからわたしの告白にも全く顔色を変えず、まるで物の貸し借りを了承するかのように頷いた。ん、だけど……。
わたしが通う宝命館学園高校のバレー部は、もう何年も県内ベスト4の座を譲らない強豪校で、広瀬くんはバレー部の正セッターで、特に今年は優勝も狙えるんじゃないかというくらいのメンバーが揃っているらしいから、優先するのは「恋人」より「部活」なわけで……。
ていうか広瀬くんは、色恋できゃぴきゃぴするタイプには見えないし……。
だから結果的に、付き合っていても関係はあまり変わらなかった。
強豪校の正セッター。素人のわたしにでもその重要さが分かるから、我が儘も言わずこれまで通りに過ごすことにしたんだけれど……。
でも。声が聞きたいってときもある。大好きな「恋人」の声が。
だから悩みに悩んだ結果、通話ボタンを押したのだった。
長いコールのあと「はい」と広瀬くんの声。ああ、広瀬くんの声だ。かっこいい。相変わらずテンションが低い。
「あ、こ、こんばんは」
「こんばんは」
「ひ、広瀬くん、何してた?」
「週末課題を解いていました」
「……もう火曜だよ?」
「ついうっかり」
「珍しい。広瀬くんしっかりしてそうなのに」
「そんなことないんですが……明音さん」
「はい?」
「用件は?」
「へ?」
声が聞けて、幸せな気分に浸っていたら、いきなり現実に引き戻された。
「あー……ええと、広瀬くん何やってるかなーって思って」
「はあ」
「声が……聞きたくなって」
「つまり、用件は特にないってことですよね」
「……はい、そうです」
不穏な空気。思わずベッドの上に正座した。
つい数秒前から一転。悲しい気分になった。
「用件がないなら、もういいですか?」
「……」
「明音さん?」
「……用がなきゃ」
「用がなきゃ……電話もしちゃだめなの?」
「え?」
切った。返事を聞かずに終話ボタンを押して、携帯を投げ捨てた。