「よっ、ほっ、もう少し...」
もう少し、もう少しで....
「ぷっ、だっせーの。そんなとこ届かねーのかよ。さすがチビだな」
後ろを振り返ると教室はいつの間にかオレンジ色に染まっていた。ドアにはいつものアイツがムカつく顔して寄りかかってる。
手から重力がすり抜ける。
「ったく、しゃーねーな。俺がやってや」
「バーカ、チビじゃないからやってもらわなくて結構ですぅ~」
取られた黒板消しを奪い返して黒板に向き直る。あとちょっとで一番上の文字が消せそうなのだ。
「はあ!?そこは素直に頼るとこだろ?可愛くねーな」
「こんな可愛い子目の前にしてよくそんなこと言えるね」
「...ひくわー」
ガチで引くアイツ。
「そんなガチで引かなくても言いじゃん!冗談でしょ!そもそもそういうことはかっこよくなってから言いなよ」
「こんなカッコイイ奴目の前にしてよくそんなこと言えるな」
「...現実逃避もほどほどにしなよ」
ガチで引く私。
「うるっせえな逃避じゃねえよ現実だろ!?大体なあ...」
相変わらずどーでもいいことで言い合いをする私たち。ギャーギャー言いながら掃除するから全然進まない。
「そもそもなんで掃除なんかしてんだよ、お前この1週間毎日じゃねーか。当番じゃないんだろ」
「まあ、そうだけど...その...」
言葉に詰まるとアイツ顔がグッと近づいてきた。
「まさか、お前また...!」
さっきまで笑ってた顔に急に真剣味が増す。
「...うん。課題2週間遅れで出した罰。」
「ブッ、アハハハハ、だっせーの。俺なんか1週間しか遅れなかったぞ」
私を指さしながら腹をかかえて笑うアイツ。
「たいしてかわんないじゃん!!」
「いーや、かわるね。俺の罰は音楽室の掃除3日間だったぜ」
「ほんとにかわんねーよ!」
私のツッコミ。
そんなこんなでやっと掃除も終わって、下校。帰りながらもやっぱり言い合い。
「お前、チビなうえに運動神経悪いよな」
「あんただって運動神経悪いでしょ」
「いーや俺は少なくともお前よりはマシだ」
「いやいやないでしょ」
「じゃあお前ん家まで先についたほうがいいってことで。よーいスタート!」
「はあ!?まて!!」
全力で走るも当然負ける。男子に勝てるわけがない。
「はぁ、はぁ、そもそも...女子と張り合うとか...はぁ、はぁ、どうかと思うけどね」
「はっ...はぁ、はぁ、負け犬の遠吠えだな。...じゃーな、提出期限守は守れよー!」
「アンタに言われたくないけどねー!」
背中を向けて手だけヒラヒラさせるアイツに叫んだ。まあ、次は提出期限守ってやってもいいかな。来た道を逆戻りするアイツの背中にそう思った。
また間違えた。鍵盤からゆっくりと手を離して大きくため息をついた。何回弾いても同じところを間違えてしまう。初めての合唱コンクールの伴奏者ということもあるのだろう。いつも焦って同じところでズレてしまう。
「はぁ...」
疲れとともにまた大きなため息がこぼれる。でも、落ち込んでいる暇はない。残された期限はあと1週間だ。重い手を持ち上げて鍵盤に落とす。
この滅多に人の来ない視聴覚室の滅多に使われないピアノは調律もなにもされていないので弾きにくい。最初のAメロはいい、ここはちょっと気をつけてこの後から...
「どこかへー....いったんだー」
いつもズレてしまうあたりで、ふいに伴奏にのった楽しそうな声が聞こえてきた。主旋ではない、低めのバスパートだ。
「昨日とーおとといとーその前の失敗がつくるのは明日の楽しみー」
廊下の奥から段々近づくその声は視聴覚室のドアの前あたりで移動をやめ、そして
「本当にー掴みたいもの目指してー」
ガラッ
曲が終わると同時に入ってきた。
「よう!どう練習は、順調?」
気さくに声をかけてくれたその男子はクラスメイトの1人。よくみせる笑顔が印象的ででフレンドリーで、男女問わず人気のあるクラスのムードメーカーだ。よくみせるいつもクラスの中心にいて、どちらかというと派手ではない私とは別世界の人みたいな感覚だった。
「うーん、あんまりかな。今もズレちゃったし」
君はピアノの横の大きな窓の枠にもたれるように座った。
「そっかー。でもめっちゃキレイだし、すごいよな」
うんうん、と腕を組んで君が頷く。
「ううん、私何日たっても全然上達しないし、みんなに迷惑かけちゃってるから全然そんなことないよ」
そう言ったら君は少し意外そうにこちらを向いた。
「そんなことないと思うけど」
「だって、いっつも私の伴奏のせいで歌が止まっちゃうから練習もなかなか進まないでしょ?」
そう言うと意外そうな顔をされた。
「あーそういう見方もあんのか」
「そういう見方?」
そして私の質問に秘密をこっそり打ち明けるようにして言った。
「あそこさ、実は合唱の方もちょっと間違ってるんだよ。確信もどこかへいったんだってとこ。本当は確信もどこかへいったんだーなのにみんな確信もどこかへいったんだぁーってなってんの!」
「えーっと....なにが違うの??」
「だから、確信もどこかへいったんだーが確信もどこかへいったんだぁーになってんの」
「うーん、全然わかんない」
「だからぁー!」
怒った振りをされたあと、2人で目を合わせてプッと吹き出した。なんだかおかしくて笑いが止まらなかった。
「ははっなんでわかんないんだよ」
「いやーわかんないよ」
「まあとにかくさ、そんなんだからズレるの当たり前なんだろ?みんなも頑張りすぎて疲れてるから、自分たちも間違えてるのわかっててもつい誰かに八つ当たりしちゃうんだよ。みんなが楽しむことが1番なんだから、楽しめなきゃいつまでたっても成功したって言わねーからな!」
そう言って君はお手本を見せるように笑った。楽しめなきゃ、なんて漫画やドラマじゃなきゃ聴けないようなくさいせりふだと思った。でも、ストンと自分の中に落ちて焦っていた気持ちがふっと和らいだような気がした。
「な、もう一回弾いてよ。俺も練習したいし、お前のピアノ聴きたい」
キラキラした目でまたニッコリ笑われると自然とピアノに手がのびた。
さっきより軽くなった手は弾きにくかったおんぼろピアノも弾きやすく感じさせた。
そこに心地よい歌がのる。
「決意も確信もーどこかへいったんだー」
私も夢中になって鍵盤を指で駆けるように弾いた。
「恐れないでー怖がらないでー私がいつでもあなたの隣、手を握ってーいるから」
君の歌は明るくどこか弾むようで、楽しんでいるのがよく分かった。きっと私のピアノのより、ずっとずっとすごい。
「ぎゅっと強く、あーなたがー孤独感じないようにー」
あまりにも楽しそうな声についチラッと横目で見た君は楽しそうに目をつぶって歌っていた。その姿が夕陽に照らされて床に影を落としていて。
「キレイ...」
思わず呟いてしまうほどに、その姿は綺麗だった。まるで別世界を見ているような、不思議な景色。
私の呟きが聴こえたのか君が顔をあげたので、慌てて目線を鍵盤に戻した。見とれてた、なんて言ったら君はまた楽しそうに笑ったりするんだろうか、なんて。
歌が終わりゆっくりとピアノから手を離した。パチパチパチ、と君が拍手をする。
「やったじゃん!!」
「なにが?」
「気づいてなかったの?いつものとこ、ズレてなかったぞ!!」
「ほんとに!?」
見とれてたせいで手元はあまり集中してなかったのに、知らず知らずのうちに弾けていたようだ。
「今楽しんでたんじゃない?」
君がまた笑った。その顔にさっきとは何か違う、夕陽に染まるような感情をおぼえた気がした。
「うん、楽しかった!」
私も自然と笑った。
君の顔がまた夕陽に照らされて赤く染まった。
短めの軽快な音楽が流れる。期間限定で今はどこかのテーマパークの歌になっている。
「まもなく、1番線、ドアが閉まります。閉まる扉にご注意下さい。」
いつものアナウンスが機械的に流れて車のドアが閉まろうとする、とガコンという音とともにドアがまた開いた。
誰かがギリギリで乗ったんだろう。
「セ~フ、ラッキー」
そこから1人の男子が入ってきた。よく見知ったあいつの顔。バッグについているリンゴのキーホルダーが電気にあたってキラリと光った。あいつは少しキョロキョロした後、反対側のドアに寄りかかっていた私を見て片手をあげた。
「よう、ぐーぜんだな」
「まさか、今駆け込み乗車したのあんた?」
「ち、ちげーよ。天が俺を乗らそうとしてくれたおかげだし」
思わず吹き出した。
「いや意味わかんないし!」
「ようは俺は女神様に愛されてるってことだよ」
「もう、ダメだよ。危ないでしょ!」
「へいへいうるせーなー」
私が怒ってもあいつは気の抜けた返事しかしない。それどころか挑発してくるありさまだ。
「当たり前でしょ!なんかあったらどーすんの?」
「別になんもねーよ。先生みたいなこと言うなってかたっくるしーなー」
「あのねえ...」
あいつはいつも私の注意なんかきいたりしない。
「で、どーよテスト勉強は」
話を逸らされた。
「んー微妙かな。今回はいつもよりちょっと遅めに始めたから」
部活が忙しくてついつい先延ばしにしていたのだ。でももう1週間前になってしまってそんなことも言っていられない。
「へー、ま、俺は余裕だけどな」
「あんあたいっつも赤点ギリギリじゃん」
「ギリギリじゃねえよ。がっつり赤点だ!」
腰に手を当てて自慢げにあいつが言う。
「いや堂々と言うことじゃないから!もーほんとに...」
怒られてもしらないよ、そう続けようとしたとき突然電車がブレーキをかけた。
「おわっ、わっ」
「へ、わあっ」
電車内にいる人たちはチラリと上やら横やらを見て何が起きたのかと情報を探す。スマホを落としてしまって慌てて拾っている人もいた。だが得るものは特にはなくスマホやら手元の赤シートと単語帳に視線を戻していく。
そしてあいつはよろけた拍子に私を挟んでドアに手をつく体勢になっていた。よく漫画とかにでてくるあれだ。
すかさずアナウンスが線路に物が落ちたので急停車したがすぐ発車する、という旨をを伝えた。
「ビックリしたーもう、ちゃんとつり革捕まってないと」
そう言ってあいつの方を見ると一瞬ビクッとしてすぐにどいてなぜかそっぽを向いた。
「お、おー...」
なぜか全く目が合わない。
「ねえ?」
「な、なんだよ」
返事は返ってくるけどずっと無表情で別の方を向いている。よくわからないやつだ。
電車がすぐに発進し、ドアが開いた。
「あ、私ここで降りるね。バイバイ」
手を降ってみたけどあいつは手で口のあたりを隠し目はやっぱり合わなかった。
「...おー」
短めの軽快な音楽が流れてドアが閉まり、あいつはドアに
背を向けた。
その日、私は読むはずだった本を忘れて少し落ち込んでいた。ただでさえ朝は妻と些細なことで言い合いをして家を出てきたのに。ただの読書でもこんな定年前の爺さんには1日の疲れを癒す大事な時間なのだが。
仕方なく妻と選んだスマートフォンを使ってみたりしていた。
「おわっ、わっ」
「へ、わあっ」
ふいに電車が急停止した。持っていたスマートフォンは手のひらからスルリと滑り床に落ちた。ゴン、という鈍い音がして慌てて拾ったが少し傷がついてしまった。なんということだ。今日は運が悪い。
電車は線路内に物が落下しただけらしくすぐに発車した。
「バイバイ」
スマートフォンの傷を気にしているとふいに声がした。何気なくそちらを見ると高校生らしき女の子が同級生の男子に手を降っていた。しかし男子の方はどこか違う方向を向いて返事もなぜか曖昧だ。少し疑問に思ったが私は男子の方の表情を見て思わず口元が緩んでしまった。
そうだ。せっかくだから妻にメールでもしてみよう。
「...おー」
そう言って女の子に背を向けた男子の顔は手で覆っても隠せないほどほっぺたまで林檎みたいに真っ赤だったのだ。
そんなことあり得ないって分かってる。でもいつも期待してしまう。少女漫画みたいにいつか素敵な出会いをしてキラキラした恋が始まるんだって。
朝、寝坊して慌ててパンをくわえて学校までダッシュ!!
「遅刻するー!!!」
八百屋さんの前を通ると店のおじさんが声をかけてくれる。
「おはよう。朝からマラソンなんて元気だね~いってらっしゃい」
「もう、おじさんからかわないでよー!いってきます!」
このまま走ればギリギリ間に合う時間だ。
大丈夫、いける!
そう思って曲がり角を曲がろうとすると...
「キャッ」
誰かとぶつかっちゃった。
「いたた...あっごめんなさい!大丈夫ですか?」
こけてしまった私にすっと手が伸びてくる。
「ああ、はい、大丈夫です。こちらこそすいませ...!」
言いかけて見上げるとそこにはテレビに出てそうな美少年。思わず見とれてしまった。
「あの...大丈夫ですか?」
「あっはい!大丈夫です!ホントにごめんなさい!」
時計を見るともう少しで始まる時間。遅刻しちゃう!!慌ててバッグをギュッともってまた走りだした。