時空(とき)を越えて君に逢いにゆく~家具付き日記付きの寮~


 僕は二度寝する事なく、そのまま一限目の講義に間に合うよう寮を出た。

 朝方まで降っていた雨は上がり、梅雨の合間の晴れ間が広がっている。梅雨晴れ特有の湿気を帯びた重い空気の中、僕はハンカチで額を拭きなから大学の正門をくぐった。厚着してしまった事を少し後悔する。

 午前最後の講義が少し長引き、僕は諒太と京香が待っているであろう学食へと急いだ。
 僕は二人を見つけると「よっ」と軽く手を上げる。なんだか二人の様子がおかしい。周囲の人に声を聞かれないよう音量は落としているものの、強い調子で何やら言い合っているようだ。

「どうしたの? 二人とも」
 僕は二人の顔を順番に見ながら諒太の隣に座る。
「どうもこうもないわよ。諒太ったらいきなり……」
 京香は次に話すべき言葉を飲み込んだ。

「いきなり……どうしたの?」
「あ、俺……京香に告っちった」
 諒太は照れた様子でぺろりと舌を出しながら頭を掻いた。全然可愛くない。

「はあ? 学食で告ったの? ムードもへったくれもねえじゃねえか。お前、絶対一生彼女できねえな」

 わかっている。彼女ができた事のない僕がそんな事を言っても説得力はゼロである。
「あんたもね」
 案の定、京香からきつい一発を食らった。
「でも俺……京香の事、ほんとに好きなんだよ」
 性懲《しょうこ》りもなく食い下がる諒太。

「好きって、あんた高校の三年間も大学《ここ》に入ってからの二年間もそんな素振り一切なかったよね。何とち狂った事言ってんのよ。そりゃ、好きだって言われて嬉しくない訳ないけど……。そんなに好きなら私の好きな所を十個言ってみなさいよ! 三十秒以内にね! そしたら少しは検討してあげる」
「おい、京香。いくらなんでもそんな急に十個って言われても……」

 すると諒太がおもむろに立ち上がった。

 ――一、可愛い。
 ――二、色っぽい。
 ――三、綺麗。
 ――四、ウエストがキュッと絞まってる。
 ――五、足が細くてすらりと長い。
 ――六、気が強いように見えて実は優しい。
 ――七、気が強いように見えて実は寂しがりや。
 ――八、ユーフォの音が柔らかい。
 ――九、女性からも男性からも好かれる。
 ――十、指揮者《コンダクター》という大きな夢をしっかり持っている

 僕は呆気《あっけ》にとられ、京香と目を合わせた。京香の豊満な胸の谷間を見て、それだけで好きになったのだと思っていた。けれど、諒太は京香の事をちゃんと見ていたのだ。

 親友として諒太の事を、僕は誇りにおも……。

「十一……」
「十一?」
「おっぱいが大きい」

 ――あちゃ。それ言うか。

「武藤京香さん!」
「わっ! な、何よ」
 京香は諒太の大きな声に驚き椅子ごと後退りした。

「もう一度言います! 俺と付き合って下さい!」
 諒太は学食のテーブル越しに京香に頭を下げ右手を伸ばした。

 諒太の告白は周囲に聞こえている。外野のみなさんはゴリラが美女を射止める瞬間を期待しているのだろうか。
 期待感と緊張感が低い唸りのようなざわめきとなり学食全体をおし包む。

 ――ごくり。

 僕は唾を飲み込んだ。
「ちょっ、あんた。こんな場所で馬鹿じゃないの。け、検討してあげるから頭上げてよ。恥ずかしいでしょ」
 京香はトイレにたった。周囲から注目されている現状に耐えられなかったのだろう。

 僕は諒太に訊ねる。
「どうなんだよ。今度こそ上手くいきそうなのか?」
「まあ、脈有りってとこかな」
 そう言って諒太は胸を張る。小学六年生の頃からよく見てきた光景が目の前で繰り返された。
 大学生になった今、このマッチョな野郎に僕の薄い胸を貸すのはもうごめんである。

 僕はこの学食で一番人気のオムライスを、諒太は二番人気のハンバーグ定食をテーブルに運んだ。この二品の共通点はデミグラスソース。そのデミグラスソースが美味しいのだ。

 雑誌などでも取り上げられたこのデミグラスソースを目当てに一般の人たちも学食《ここ》を訪れる。
 そして京香は自分で作ってきたお弁当を開いた。
「お! 京香のお弁当うまそう」
 諒太は続けて「ちょっと味見していい?」と言いながら京香の了承が出るのも待たず弁当箱の中に割り箸を伸ばした。
「ちょっ、あんた!」
「うめえ。超うめえ」
「もう! 何、勝手に食べてんのよ!」
 京香は敵から大切な物を守るかのようにテーブルの上の弁当箱を両手で囲った。
 諒太は再び立ち上がり京香へ向かって叫んだ。

「十二! 料理が上手い!」
「うるさい! 検討やめるわよ」
 あっさりいなされ意気消沈する諒太。椅子に座るとハンバーグ定食のブロッコリーをぱくりと口の中へと放り込んだ。

 僕は二人に夢の事をきちんと話そうと思った。あまりにもおかしな体験である。ひょっとしたら精神科の先生に診てもらった方がいいのかもしれない。そう思わせるほどおかしな出来事なのだ。
「あのさあ、ちょっと話は変わるんだけどね」
「賛成! 早く話変えて」
 京香はそう言って玉子焼きを頬張った。

「僕の夢がなんだか変なんだよ」
「プロのサックス奏者になりたいってやつ? さては作曲の魅力にでもどっぷりハマっちゃっ……」
「あ、いや。そっちの夢じゃなくて」
 僕は京香の言葉を遮った。

「じゃあどっち?」
「寝てる時に見る夢の方。ほら、前に『最近おかしいんだよね』って話しかけてやめた話。覚えてる?」
「覚えてるわよ。で、どうしたの?」


「はあ? 朝起きたら髪の毛が濡れてたですって?」
 京香は目を大きく開き、閉めかけた弁当の箱を持つ手をぴたりと止めた。
「お前、おねしょでもしたんじゃねえのか?」
 諒太は意地悪そうに顔を歪めてそう訊ねた。まさに青森ねぶた祭りの山車《だし》そっくりである。
「僕もそう思ってさあ、生《なま》で触ったり握ったりしてみたんだけど濡れてなかったんだよ」
「キャッ! やめてよ。一応私も女子なんだから」

 京香は顔を真っ赤にしながら両目を両手でふさぐ。今この場で目をふさぐ意味が僕にはわからない。けれど、そんな彼女を見て諒太の感想は違っていた。
「そういう所も可愛いんだよな」
 にやにやしながら諒太が京香の顔を覗き込む。
「話を戻さないで!」
「あ、はい。あぅ……」
 あっさり撃沈してしまう。

「あとね、夢の中で紗綾が僕のほっぺにキスしたのね。それで……」
「はあ? キスされたですって?」
 なぜか京香はそこに突っ込んだ。その顔は少し怒っているようにも見える。

「う、うん。紗綾、ラメの入ったリップクリームしてたんだけど、起きたら僕のほっぺにもラメがついてたんだよ。あり得ないでしょ?」
「あり得ない。キスするなんてあり得ない」
「え? そこ?」

 その後、諒太の提案で誰かの家で宅飲みでもしながらこの話を整理してみようという事になった。
「僕の寮は男子寮だから女の子は入れないよ」
「俺のアパートは狭くて古くて散らかってて、それから……」
「はい、はい。私のマンションって事ね。諒太、変な所開けて見たりしないでよ。わかった?」
「はい」
 結局今週の土曜の夜、京香のマンションでお泊まりする事になったのだ。

 京香が「じゃあね」と言って僕たちに背を向けると、諒太が僕に向かってにやりと微笑んだ。

「わっ! 怖っ!」

 遠足に出かける前の学童のように、わくわくしながらゴリラが僕の隣で歩いている。今日は京香のマンションでのお泊まり会なのだ。

「お前、そんないっぱい荷物持って何泊するつもりなんだよ」

 諒太は何を訊いてもニコニコしている。すっかり京香に骨まで抜かれているようた。

「でもさあ、初めてお泊まりするのになんでヒロもいるんだよ」
「え? じゃあ僕帰ろうか?」
「いやいやいやいや! お願いだから帰らないで」
「だろ?」
「うん。二人きりなんて無理。お願い、ヒロちゃん。一緒にいて」

 骨抜きゴリラってのはこうもなよなよになるものなのだろうか。文化部最強のアスリートが聞いて呆れる。

 ――ところで……。「ヒロちゃん」てなんなんだ。

 地図アプリを開き京香のマンションを探す。
「え? このマンション? すっげ! 流石お嬢様」
 やっぱりお前に彼女は釣り合わないよ。と続けたかったけれどぐっと堪えた。諒太を応援しなきゃ。

 エントランスの自動ドアをくぐるともう一つ自動ドアがある。オートロック式のマンションのようだ。

 ――805『呼』

 四つボタンを押すと透き通った声がインターホンから流れてきた。

「はーい。どうぞー」
 するとさっきまではぴくりとも動かなかった二つ目の自動ドアが高級そうな静かな音をたて開いた。

 エレベーターに乗り八階で降りる。一番手前の部屋が801。どうやら京香の部屋は一番奥のようだ。802号室の前まで進むと、時間を見計らっていたかのように京香が玄関のドアを開けた。

 いつもの人懐っこい笑顔で「いらっしゃい。こっち、こっち」と手招きをしている。ポニーテールにエプロン姿。見た事のない京香の姿に僕ははっとした。

 僕以上に興奮しているやつが、僕の後ろにいる。決して後ろを振り向いて諒太の姿を見た訳ではない。けれど、諒太の興奮ははっきりと感じとれたのだ。

 鼻息が……荒い。

「お邪魔しまーす」

 部屋に入ると廊下の先に広そうなリビングがちらりと見える。一体家賃はいくらするんだろう。そんな疑問を持ちながらリビングに入る。

「広っ!」
 僕は思わず叫んだ。

「うわっ! このリビングだけで俺のアパートの部屋とトイレとキッチンとバスルームを合わせた面積より広い」
 諒太のアパートには何度も遊びに行った事がある。正に諒太の言うとおりの広さだった。

「家賃、いくら?」
 僕は恐る恐る訊ねた。

「ああ、そう言えば知らない。パパが払ってくれてるから」

 それもそのばず。京香の両親はあの「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の奏者だった。お母さんはバイオリニスト。お父さんはパーカッションの王様――ティンパニ――を叩いている。

 音楽家のサラブレッドとしてこの世に生を享《う》けたのだ。

 リビングのガラスケースの中には高二の時にソロコンテストで全国一位になった時のトロフィーなど、数々の栄光の品が並べられている。

 僕が吹いているアルトサックスは音楽を知らない人でも知っている人が多い。

 しかし京香の吹いているユーフォニアム。決して目立つ楽器ではない。一般人には認知度も低いだろう。

 ユーフォニアムの奏者は一度はこんな会話をした事があると思う。

『へー、吹部なんだあ。楽器はなに?』
『ユーフォ』
『ユーフォ? 聞いた事ある。でもどんな楽器だっけ?』
『うーん、チューバの小さいやつ』
『へー、チューバってどんな楽器だっけ?』

 一般人にはその程度の認知度である。
 
 ユーフォニアムとは、吹奏楽や金管バンドで主に用いられる金管楽器で、B♭管が主流。幾重かに巻かれた円錐管と、通常四つのバルブがあることが特徴なのだ。
 音域は「テナー」や「テナー・バス」のトロンボーンとほぼ同じだけれど、それよりも幾分か柔らかく丸みのある音色を奏でることができる。

 そう。彼女の音は柔らかく丸みをもっている。なかなか出せる音ではない。

 諒太と僕は、リビングの広さだけに目を取られていた。しかしテーブルを見て僕はぶったまげた。

 そこには色とりどりの料理が所狭しと並んでいた。
「うわっ! これ、京香が一人で作ったの?」
「どう? 私の女子力、見直した?」

 見直すも何もお前凄いんだな。僕がそう言おうとした瞬間、盛りのついたゴリラが叫んだ。

「京香、すげえ! 流石に俺の愛した女だ」
「あ、そういうの、いらないから」
「はい。ですよね」

 僕は落ち込む諒太の肩を叩いた後、リュックから赤ワインとシャンパンを取り出した。

「京香、赤ワインは冷やさなくても美味しいから、こっちのシャンパン冷やしといてくれる?」
「おっけ」

 高級そうなワイングラスに赤ワインを注ぎ、皆がグラスを持ち上げた。

「じゃあみんなの明るい未来の為に……」

 そしてまた諒太が余計な事を口ずさむ。

「それから、俺と京香の明るい……」

 すかさず京香がぎっと諒太を睨む。

「あ、ごめんなさい」

 京香はぷっと吹き出し「かんぱーい!」と音頭をとった。

「かんぱーい!」

 京香の料理はどれもこれも本当に美味しかった。諒太も「うまい」を連発しながらむさぼるように食べていた。僕たちが美味しそうに食べている顔を見て京香も嬉しそうな表情を浮かべている。

「いやー! うまかった。お世辞はゼロでうまかった」
「諒太、ありがとう。さあヒロ、本題に入りましょ。入寮してから毎日見てるのよね? その夢」
「そうだね。あ、でもゴールデンウィークに実家に帰ったんだけど、その間は見なかったんだ」
「て、事わよ、夢を見る条件は『ヒロの寮で寝る事』よね。今日はうちに泊まるんだから今日も夢を見てしまえばその条件は間違いって事になるけど。まあ、そこは明日の朝教えてね」

 すると諒太が口を挟んだ。
「それってさあ、『ヒロの寮でヒロが寝る事』なのかな。それとも『ヒロの寮で俺が寝ても』見れるのかなあ」

 京香ははっとして、きっと諒太を睨むように目を向けた。諒太はまた怒られてしまうとでも思ったのだろうか。大きな体をきゅっとすぼめた――母親に怒られるのを覚悟した、悪事がバレてしまった少年のように。

「諒太!」
「はいっ!」
「いい所に気づいたわね。その可能性もあるわよね。今度ヒロの寮に泊まってみてよ」
「はいっ! えっ? あ、うん。だね」

 悪事がバレずに済んだ少年はほっと胸を撫で下ろした。

「でも私も行きたいな。ヒロの寮。ほら、私って背が高いから髪の毛結んでギャップかぶってマスクすればバレないと思わない? ねえ、ヒロ。いいでしょ?」

 彼氏に何かをおねだりでもするかのように甘えた声を出しながらにこりと微笑んでいる。確かに可愛い。諒太が骨抜きにされるのもうなづける。

「まあ、そうだな。170cm以上あるから誰も女だとは思わないか」
「169cmだってば!」

 赤ワインの瓶はその役目を終えテーブルの上に立っている。シャンパンの瓶も間もなくその役目を終えようとしている。

 といっても僕と諒太はシャンパンを一杯ずつしか飲んでいない。「これ美味しい!」そう言って京香が瓶を抱え込んでしまって以来、僕たちは缶ビールを飲んでいるのだ。

 今日ここへ来る前、諒太は眠そうに何度もあくびをしていた。「どうした? 寝不足なのか?」そう訊ねると。子供のような答えが帰ってきた。今日の事が楽しみで朝方まで寝つけなかったらしい。

 そんな諒太は既に眠そうな目をしている。元々そんなにお酒が強い訳ではないらしい。京香も頬を赤らめている。

「はい、はい。169cmでしたね」

 京香は口を尖らせ頬を膨らませた。

「うほー! 京香ちゅあん、怒った顔もカワユイー」

 あれ? 諒太が酔っ払っている。

「うるさいなー」と言いながら諒太の肩をパンと叩こうとしたけれど、見事に空振りしてしまった。身体能力の高さを利用して京香の手をさっとかわした訳ではない。酔っ払っている諒太にそんな事ができる訳などない。

 ただ単に京香も酔っ払っている為、照準が合わなかっただけである。

「うふふっ。空振りしちゃった。あれ? シャンパンなくなっちゃった。諒太選手! あたしの事が好きなら冷蔵庫から冷酒持ってきてちょーらい。ね? お願いしましゅ」
 全くもってろれつが回ってない。

「はっ! 我が姫! なんなりと!」
 諒太はよたよたしながらどうにか冷蔵庫までたどりついた。
「あっ、諒太選手! つまようじもよろすく。ん? よろ……しく」
「はっ! 我が姫!」
 諒太は冷酒とつまようじを姫に手渡すと、ばたりとソファーに倒れ込んだ。

「京香、大丈夫か? もうその辺にしときなよ」
「なんれすって? 岡広海選手! 男れしょ。もうちょっと付き合いなさい」

 どうやら悪酔いするタイプらしい。大学に入ってから何度も一緒に飲み会に参加した事はあった。けれど、こんなに酔っ払った京香は見た事がない。

 おそらく、気の知れた三人だけである事と、電車などに乗って帰る必要のない場所である事が彼女をそうさせたのだろう。

「はいはい。じゃああと少しね」
 そう言うと京香はぱっと花が開いたように笑顔になった。ソファーからは諒太の寝息が聞こえている。
「あと、フルネームで呼ぶのやめてね」
「あら、諒太選手寝ちゃったね」

 ――聞いてねえのかよ。

 ん? 僕は京香の異変に対し今更のように気づいた。
「ねえ、京香。髪型……変えた? パーマ?」
「ふふっ、やっと気づいたのね。見てみたい? 結んでるゴム取ってほしい?」
「え、まあ……どっち……でも」
「もう! どっちれもって何よ! ほんとは見たいんれしょ? しょうがないわね」

 京香は頭の後ろに手を回しゴムを外した。頭を左右に振り、うなじの辺りからふわりと髪の毛をかき上げた。
「ふふっ、どう? 似合う?」

 似合う。本当に似合う。長い髪の毛が胸の辺りから綺麗なウェーブを描いている。名古屋巻き……だっけ?
「あ、ああ。似合ってる。綺麗だ」
 思わず本音をもらしてしまった。

「え? 聞こえない。もっかい言って」
「言わない」

 絶対に聞こえてたはずだ。もう言うもんか、そんな恥ずかしい言葉。

「えー、いいじゃん。聞こえなかったんらもん。お願い」
「き……」
「なに?」

 京香は身を乗り出してきた。はだけた胸元から豊満な胸が丸見えである。僕はこの目のやり場に困る状況から脱する為に口を開いた。

「綺麗だよ。ものすごく」
「れしょー? 今日の午前中に美容院に行ってきちゃった」

 綺麗と二度言われて満足したのだろうか。おもむろにつまようじをつまみ、歯と歯の間へ滑らせた。いい女が台無しである。

「長ネギがとれなーい!」 
「あ、そういえば諒太選手寝ちゃったんだったね」
 
 京香はふらふらな足どりでクローゼットから毛布を取り出した。

 僕は諒太の寝ているソファーの前――ふかふかなラグの上――に座っている。

 京香は毛布を諒太に掛けると、足元がふらつき僕に抱きつくように倒れ込んだ。京香の顔が……近くにある。

 ――え?

「あ、ごめんなさい。私……酔ってるみたいね」
「うん。明らかにね。そろそろベッドに行って休んだら?」
「うん」

 僕は京香の正面から両肩を持ちゆっくりと立たせた。

「大丈夫か?」
「でんでん《ぜんぜん》だいじょばない。ベッドまで連れてって」
「ああ、いいよ。ほら、僕につかまって」

 京香は僕の腕につかまり全体重を預けてきた。何度も倒れそうになった京香を支えながらようやくベッドの脇まで連れていく。

「ほら、ついたよ。横になって」

 京香はベッドに座ると仰向けに倒れ込んだ。けれど僕の腕を強く握ったまま放さなかった。僕は引っ張られるように京香の上に覆い被さる。

 京香は僕の目を真っ直ぐ見つめている。そして彼女の腕が僕の首を抱えた。次第に彼女の顔が近づく。

「京香……駄目だって」

 しかし彼女の唇を塞いでしまった。僕は慌てて京香から離れた。

「駄目だって、こんな事。諒太の気持ち考えろよ」
「諒太の気持ち? 私の気持ちは無視?」
「……」

 僕は何も言えなかった。

「好きなの」
「京香、今日は酔っ払ってるんだよ。じゃあ、リビングに行くね」
「やだ。ここにいて」
「わかったよ。京香が眠るまでここにいるから」
「うん。ありがとう」

 京香はそう言うと僕の手を握りしめた。

 どれくらいの間、京香の寝顔を見つめていたのだろう。時間の感覚が全くない。おそらく僕も酔っているのだろう。僕は繋いだままだった彼女の手をそっと毛布の中へくぐらせた

「おっはよう! 二人とも起っきろー!」
 目を開けると僕の目の前に笑顔があった。
 その笑顔から垂れ下がる長い髪の毛の先はくるりと綺麗にウェーブしている。そうだ、京香は髪型を変えたのだ。

「あ、おはよう」
「ねえ、ヒロ」

 昨夜触れてしまった唇につい目が行ってしまう。

「どうした?」
「夢、どうだった? 見た?」

 そういえば……見てない。

「見てないかな。最初の頃は起きてちょっとしてから思い出す事もあったけど、ブラックホールに入るようになってからは夢があまりにも鮮明だから起きてすぐ思い出すんだよね」
「てことは、やっぱりヒロの寮で寝なきゃ見る事ができないんだね。じゃあ、来週の土曜日にする? ヒロん家でのお泊まり会。ねっ? いいでしょ?」
「ねえ、京香。なんか、楽しんでない?」
「ふふっ、わかる? だってヒロの夢の中に私も入れるかもしれないんだよ。なんかわくわくする」

 他人事として考えればわくわくしそうな事例なのだろう。そういえば諒太がまだ起きていない。

「諒太、おい。諒太」
 体を揺らすとようやく目を開けた。

「諒太、おはよ」
 京香の呼び掛けに諒太も返す。

「おう、京香おはよう」
 そして僕の方をみて「おはよう」と言いかけたのだろう。けれど諒太は京香の異変に気づき二度見した。

「うわっ! 京香!」
 諒太もようやく気づいたようだ。と思ったその時、諒太の殺気に満ちた強い視線を感じた。

「ヒロ! てめえ!」
 そう言って諒太は僕の胸ぐらをつかんだ。明らかに怒っている。けれど諒太は寝ていたはずだ。起きていたのか? 諒太は何に気づいて怒っているのだ。

 ――キスした事なのか?
 ――京香が眠るまで添い寝していた事なのか?
 ――手を繋いでいた事なのか?

 それとも、その全て? 

 諒太。あれは違う。僕はお前を応援しているんだ。京香も酔っていて、僕も酔っていて……。それから……。

 僕はありとあらゆる言い訳を探した。

「諒太! やめて!」
 京香が叫ぶ。けれど諒太の興奮は治まらない。

「俺が寝ている間に……」
 終わった。終わってしまった。僕はこれで大切な親友を失ってしまったようだ。

「俺が寝ている間に……京香と仲良く……京香の髪の毛をくるくるしてたのかー! 俺がやりたかったよぉ」
「えっ?」
「えっ? じゃねえよ。こんなに可愛くなるなら俺がやってあけだかったのにぃ」

 そこかよ! つか、ごつい体して少女みたいに小さい「ぉ」とか「ぃ」を入れてしゃべんなっつうの。ああ、びっくりした。

「諒太、私ね、昨日の午前中に美容院に行ってパーマかけてきたのよ。思考の回路がどう繋がればそんな発想になるのよ」
「えっ? そうなの? 京香、ちょー可愛いよ」

 言いながら諒太は僕の胸ぐらから手を離した。

「そうなの。どう? 似合う?」
「うん。似合う。ちょー似合う」

 ――おい! 僕に対する謝罪はないのか?

 いや。謝罪しなければならないのは僕の方なのだ。京香が僕の顔を引き寄せた時、口では『京香、駄目だって』そう言った。けれど抵抗はしなかった。あの時僕は「このまま京香にキスしたい」確かにそう思った。

「あ、そういえばヒロ。お前、今日は例の夢みたのか?」
 何事もなかったかのように諒太が僕に問いかける。

「見てねえよ」
「なんで怒ってんの?」

 ――この野郎!

 まあ、良くも悪くもこれが諒太である。どうしても憎めない。

「怒ってねえよ」
「ほら! ヒロちゃん怒ってるじゃん」

 ――ヒロちゃん言うな!

「ねえ、二人とも。朝食できたわよ。早く食べよ」

 カウンターキッチンの向こうから「手のかかる二人の息子」を呼ぶ母親のような優しい声がする。

 僕たちは大好きな母親に誉めてもらえるよう、「おりこうさん」をアピールするかのようにすぐにテーブルに向かった。
 テーブルの上に並べられた朝食を見たとたん、僕たち「兄弟」は驚いて目を合わせた。

 諒太用と思われるサイドには、食パン・珈琲・ポタージュスープ・グリーンサラダ・ハムエッグ。

 僕用と思われるサイドには、白米・味噌汁・味海苔・焼き鮭・ポテトサラダ・ベーコンエッグ。

「これって……」

 高校時代の吹奏楽部の合宿。

 昼食こそ合宿所近くの仕出し屋さんにお弁当を頼んでいたけれど、朝食と夕食は自分たちで作って食べていた。

 朝食に関しては「パン派閥」と「米派閥」に分かれていた。
 僕は米派で諒太はパン派だった。そして目玉焼きのトッピングについても、サラダの種類についても人それぞれの好みがあった。

 今、目の前のダイニングテーブルに並んでいる朝食は、正に僕と諒太、双方を満足させる理想のメニューである。
  京香は僕たち両方の好みを覚えてくれていたのだ。

「諒太はこっち、ヒロはこっち」

 僕たちはそんな京香の指示を受ける事なく自然と左右に別れた。

「うめー!」「うんめっ!」

 僕たちの反応に京香は嬉しそうな表情を浮かべている。

「よかった。やっぱり美味しいって言われると嬉しいな。そういえば昨日、楽しかったね。あ、諒太、来週の土曜日はヒロの寮でお泊まり会だからね。予定開けといてね」

 どうやら京香の中では来週の土曜日という事で決定事項となっているようだ。まあ僕も特に予定はないのでいいのでけれど。

「京香の頼みなら天皇陛下との晩餐会でもドタキャンするから大丈夫」
 諒太は京香に向かって力こぶを見せた。

「はいはい、ありがとう。諒太、昨日早く寝ちゃったね。お酒、そんなに弱かったっけ?」
「うん。お酒は好きだけど強くはないかな。京香たちは何時まで飲んでたの?」
「ヒロ、何時までだっけ?」

 僕の返事を待つ事なく京香は続けた。

「あ、そうだ。ヒロ、あなた日本酒飲んだ? 朝起きたら空の冷酒の瓶がテーブルに置いてあったのよ」
「え? 日本酒飲んだのは京香だよ。覚えてないの?」
「ヒロ、お前 、俺たちが寝た後、冷蔵庫から冷酒取り出して一人でチビチビ飲んでたんじゃないのか? 淋しい男だねー」
「はあ? 冷蔵庫から冷酒持ってきたのお前だぞ。京香に持ってくるように頼まれてさあ。警官みたいに敬礼しながら『はっ! 我が姫! なんなりと!』とか言いながらお前が持ってきたんだぞ。覚えてねえのか?」
「俺? まじか……」
「そうなんだ。諒太ウケるんですけど。あ、でも私もシャンパン飲んでた所までは覚えてるけどその後の記憶がないかも。私が日本酒飲んでたんだ」

 今僕には気になる事がある。あの事も京香は覚えていないのだろうか。諒太がトイレにいった隙に思いきって訊いてみる。

「あの……さ。その後の事……まったく覚えてないの?」
「その後? 私なんかしちゃった?」
「あ、いや。なら、いあや」
「なんでわざわざそんな事確認してんの? ヒロ、ひょっとして私が酔ってるからって変な事してないでしょうね!」

 は? 変な事してきたのはお前だろうが。まあ、僕も悪いと思うけど……。

「な、何言ってんだよ。そんな訳ねえだろうが」

 京香は何も覚えていない。ちょっと寂しい気はしたけれど、このまま思い出さないほうがいいのかもしれない。

 ――僕だけの秘密。

 それでいい。この思い出は一生僕だけの秘密にしよう。僕はそう決めた。

 僕たち三人は夕方まで一緒に過ごした。ランチをしたりショッピングセンターに行ったり。楽しい土日を過ごす事ができた。

 僕は駅前の商店街をいつものように通る。ついこの前まで、この時間にこの商店街を通った時、陽は沈んでいた気がする。

 次第に陽は長くなってきているのだろう。
 
 けれど、僕が寮に着いた頃、既に辺りは闇に包まれていた。少しの街灯と民家の窓から漏れる灯りが灯っているだけである。

 昨日今日と続いた梅雨晴れは終わりを告げようとしているらしく、月は厚い雲に覆われている。

 寮に帰ると夕食の時間が既に始まっていた。僕は南棟へ向かう事なく食堂の席に座った。
「岡君、お帰りなさい」
 寮母さんの温かい笑顔が僕を迎えてくれる。
「あ、寮母さん。来週の土曜日なんですけど、男の友達が二人泊まりにきます。でもやつらの食事はコンビニかなんかで買ってこさせますので作らなくても大丈夫です」

 ここは男子寮である。わざわざ「男の友達が」と言わなくても「友達が」と言えば済む話である。おそらく少しの罪悪感が「男の友達」と言わせたのだろう。
「あら、いいのに。食堂で食べさせてあげれば?」

 そういう訳にはいかない。もしも誰かが京香に話しかけでもしたら返事をしない訳にはいかないのだ。あんなに澄んだ声の男などいない。
「あ、いや。大丈夫です。やつら今、コンビニのお弁当にハマってて」
 そんな奴いるのか? 我ながら下手な嘘に嫌気がさした。
「あらそうなの。ならしょうがないわね」
 寮母さんはあっさりと僕の下手な嘘を信じてしまった。おそらく亡くなったご主人が浮気をしてたとしても、ご主人の嘘を信じてしまい浮気に気づかないタイプなのだろう。

 僕は肉じゃがとご飯をおかわりしお腹を満足させた。そして食器を返却口へと運ぶ。
「寮母さん、ごちそうさまでした。肉じゃが、ちょーうまかったです」
「ありがとう。お粗末様でした」
 寮母さんのいつもの言葉と笑顔が返ってきた。

 部屋に戻りいつもと違う赤ワインを冷蔵庫に入れた。

 そして僕はベッドに寝転び瞼を閉じた。

 こんな時、脳裏に過るのはいつも夢の中の少女の姿である。けれど今日は違う。

 そこにいるのは京香だった。そして怒りに奮えたゴリラが顔をだす。
「わっ!」
 僕は思わず体を起こす。

 これから先京香の事を思い出すと、もれなく諒太の事も思い出すのだろうか。まあ、それでもいい。

 ――僕は諒太を応援しているのだから。

 昨日の夜の事は僕だけの秘密なのだ。
 そうだ、その思い出を日記にしたためよう。たった一ページで完結する日記として封印しよう。

 僕は学校用の鞄からルーズリーフを取り出した。けれどルーズリーフでは何か物足りなさを感じる。
 
 ――あっ、日記がある。

 僕は本棚から日記を取り出した。調度いい。これに書いてあとはしまっておけばいい。僕が七十歳くらいになり、押し入れの中からこの日記を見つける。その時、懐かしく思えればそれでいい。

 僕は日記を開く。そしてペンケースから2Bの鉛筆を取り出した。


 ▽ ▽ ▽

 六月二十日――晴れのち曇り。

 昨日僕は、産まれて初めてキスをした。

 二十一歳というかなり遅いファーストキスだった。

 檸檬の味?

 味など覚えていない。

 彼女の事が好きなのか。それさえもわからない。

 けれど彼女の唇から伝わってきた温もりは覚えている。

 この事は誰にも言えない。誰にも……。

 そう。これは……。

 僕だけの秘密なのだから。

              岡 広海

 △ △ △


 そして僕は日記を本棚に戻した。
 
 ベッドに横たわるといてもたってもいられなくなる。シャイニーケースからサックスを取り出し何かを忘れる為に吹き続けた。

 次第に額から汗が吹き出してくる。けれど、そんな事は気にならない。僕は吹いて吹いて吹き続けた。

 納得いくまで吹き続けた僕は、楽器の手入れさえもせずシャワーを浴びた。

 スッキリした僕は風呂上がりに冷蔵庫を開ける。

 そこにはいつもと違う赤ワインが。

 ――辛口。

 ほんの少し大人になったのだと勘違いした僕は、寮へ帰る途中にスーパーで買ったのだ。

 辛口、フルボディーの赤ワイン。

 ワイングラスに注ぎ口の中で転がしてみる。

 やっぱり甘口でライトボディーのワインにすればよかった。けれどもう少し大人になれば、辛口《こっち》の方が好きになるのかもしれない。理由ははっきりわからないけれど、何故か僕はそう思った。

 慣れない辛口ワインを飲んでいるうちに、僕は眠りに就いた。



 * * *

「あっ、いつもの夢だ」
 僕は迷わずブラックホールに飛び込んだ。

 いつものように体がぐるぐる回る。しかしもう慣れたものである。最初はびっくりしたこのぐるぐるも今では日常の一部になっている。

「よっこいしょっと」

 僕が降り立った場所はいつもの空音荘の南棟。そして目の前にはいつもニコニコしている少女の笑顔……。

 ではなかった。

「紗綾。どうしたの? 顔色が悪いけど」

「ヒロ君なんてもう嫌い!」

 紗綾はそう言って走り出した。

 僕は訳もわからず全力で追いかける。

 すると紗綾が転んでしまった。

「紗綾! 大丈夫か?」

「ほっといて! 誰かととキスしたんでしょ? 嫌い! ヒロ君なんて嫌い!」

「いや、それは……。事故っていうか、その……。あ、違う。事故なんかじゃない。確かに僕も彼女を求めた。あ、いや。そういう意味じゃなくて、その……」

 支離滅裂とはこの事だ。

 嘘の苦手な僕は紗綾に本当の事を話した。



「へー。そうなんだ。ヒロ君、きっとその京香さんて人の事好きなんだよ」
「うーん。好きっていうか、友達としてしか見た事なかったし。それに親友の諒太ってやつが彼女の事好きだからさ」
「へー。そっかあ」
「まあ、キスした事も彼女は覚えてないからね。これでいいんだよ。あっ、ところで紗綾っていくつなの? 歳の話ってした事なかったよね」

 紗綾は上目遣いで僕をみた。

「いくつに見える?」

 と、よくある質問返し。

「うーん。十八とか?」

「ピンポーン! まだ十七だけどね。来月で十八だよ」

「そうなんだ。僕は二十一歳。四月に二十一歳になったんだ」

 こんなたわいもない話をしているだけで僕は楽しかった。けれど紗綾と一緒にいる『限りあるこの時間』はいつも突然終わりを告げる。

 僕はふとある事が気になった。

「紗綾、なんで僕がキスした事を知ってたの?」

「だってヒロ君、日記書いたでしょ? だからだよ」

「え? 書いたけど……どういう事?」

「私も持ってるの。ヒロ君と同じ日記」

 どういう事なのかさっぱり意味がわからない。

「どういう事?」

 ――ピピピピッ。ピピピピッ。

 * * *

 ――ピピピピッ。ピピピピッ。

 夢の中の電子音と現実の電子音が繋がりをもって響いている。
 僕は目覚まし時計を上からバンと叩いた。

 どういう事なんだろう。彼女は言った。『同じ日記を持っている』と。
 僕はベッドを降り本棚へと向かっていく。そして日記を手にとった。

 昨日僕が書いたページを開いてみる。

「はあ?」

 防音でなければ食堂まで届きそうな大きな声で叫んでしまった。

 左のページに僕の日記が書いてある。そしてその右側のページにも文字か書いてあったのだ。


 ▽ ▽ ▽

 この浮気者ー! ヒロ君なんでだーい嫌い。べーだ(笑)

 △ △ △

 たったの一行ではあるけれど、確かにそう書いてある。鉛筆やボールペンなどで書かれたものではない。あぶり出しのような浮き出た文字。

 ――同じ日記を持っている。

 そうか。紗綾なんだ。紗綾が書いたんだ。

 僕はこの異常な経験を伝える為、大学へ急いだ。証拠の日記を鞄に入れ寮を出たのだ。けれど三分ほど歩いて僕ははっとした。

 この日記、諒太にも京香にも見せる訳にはいかない。

 ――僕と京香がキスをした事。

 諒太は知らないし京香は覚えていない。

「あちゃ」

 僕は一限目の講義を欠席する事にした。一旦寮に戻り日記を開く。

 見れば見るほど不思議な日記である。僕はペンケースから鉛筆を取り出した。

 ▽ ▽ ▽

 紗綾。今、何してる?

 △ △ △

 新しいページにそう書いてみた。けれど三十分待っても右のページは空白のままだった。

 僕は日記を本棚にしまい、再び寮を出た。
 僕は午前の講義が終わるといつものように学食へと向かって行った。
 諒太は窓際の席に座り既に何かを食べている。

「よっ、諒太」

 問いかけても返事がない。明らかに元気のない様子が伺えた。
 しかも諒太が食べているのは「すそば」であった。月見もおあげもかき揚げも入っていない、学食内で一番安いメニュー。
 およそアスリートと呼ばれた人間が好んで選ぶメニューではない。

「諒太、どうした?」

 諒太は口に運びかけた箸を止め、ゆっくり僕の方を向いた。

「俺……病気なんだ」
「は? どこが悪いの? 昨日まであんなに元気だったじゃん」

 すると右手で拳を作り筋肉質な胸を弱々しくトントンと叩いた。

「ここ」
「え? お前、心臓悪いのか? そば食ってる場合じゃねえだろ! 病院には行ったのか?」
「心臓? あ、心臓は大丈夫。多分日本人の中で三番目くらいに丈夫にできてると思う」

 と、ピンぼけな返事が返ってきた。

「じゃあなんだよ」
「恋の……病《やまい》」
「はあ? てめえ! 俺の心配返せ! ったく」

 諒太は降り始めた雨を学食の窓越しに眺め遠い目をしている。全然哀愁を感じない。

「あ、諒太。京香は?」
「京香ちゅあん? 京香ちゅあんは今日はお休みみたいだよ。病院だって」

 どうでもいいけどゴリゴリのマッチョが「ちゅあん」はやめようぜ。

「あ、いつもの病院ね」

 ――武藤京香。

 高校の時は皆から「むときょん」と呼ばれ男子からも女子からも好かれていた。

 高校に入学して間もないある日、いつもつるんでいた諒太と僕が学校の屋上でお弁当を食べていると突然「私も入れて」と入ってきたのだ。

 同じ高校の吹奏楽部ではあるけれど、楽器の種類ごとに行う「パート練習」に多くの時間を費やしていた為、ユーフォニアムの彼女とサックスの僕たちは同じ空間で時間を過ごす事は少なかった。

 背も高く誰が見ても健康そのものだった彼女。けれど高一の頃から入退院を繰り返していた。それでも留年する事なく僕たちと一緒に卒業する事はできたのだ。毎年出席日数ギリギリだったらしいけれど。

 運動部の同級生は夏の大会が終わると完全に「引退」する。けれど吹奏楽部は八月のコンクールが終わると「仮引退」となる。

 卒業式後に「定期演奏会」があるのだ。三年生も参加するその定期演奏会が最後の舞台となる。

 そんな最後の「勇姿」を楽しみにしていた彼女は演奏会の前日に急遽入院する事となった。

 それでも大学の入学式に合わせるように退院できたのだ。僕たち三人は正門の前でスリーショットの写真を撮った。

「そ、いつもの病院ちゅあん」

 千歩譲って京香に付ける「ちゅあん」は許すとしよう。けれど病院にちゅあんは無しだろ。

「しかしお前、そんなに京香の事好きなのか。頑張るんだぞ。応援すっから」
「童貞のヒロに応援されても元気出ない」
「あ、それな」

 親友を勇気づけたはずが、逆に僕が落ち込んでしまう結果となった。

 全ての講義を終え、寮へと帰っていった。京香の事が気になりLINEを送ってみる。

 ――病院行ってたんだって? 明日は大学に来られるのか?

 京香はスマホに依存しない「今時の若者」らしからぬ人間である。LINEを送ってもすぐには既読が付かない。

 京香からの返事を待つ間に充分お風呂に入る事ができるのだ。僕は「追い焚き」と書かれたボタンをおした。僅か十分後、

 ――お風呂が湧きました。

 感情を持たない音声が聞こえてくる。僕は掛け湯さえせずザブンと湯船に身を沈めた。

 湯船の中のお湯を両手ですくいバシャリと顔に掛ける。

「ふー! 気持ちいいー!」

 風呂から上がった僕は洗面所で左右反対になった自分の顔を見る。本当は顔など見ていない。見ていたのは毛の生え際だった。

「よし! 薄くはなってないな」

 お爺ちゃん、お願いします。僕の毛を守って下さい。
 岡家の祖先に懇願しながらベッドに座りスマホを開いた。

 ――うん。全然大丈夫。明日は大学に行くよ。

 京香からそんな返信がきていた。

 ――ならよかった。でも無理すんなよ。

 五分後、僕のスマホが音をたてた。珍しく早い返信がきたのだ。

 ――うん。ありがとう。

 京香の病気……。まだそんなに仲の良くなかった頃から入退院を繰り返していた。「なんの病気なの?」女の子に対しそんな質問などできない。

『痔のひどいやつ』『便秘の悪化したやつ』だったとして、年頃の女の子がそんな恥ずかしい病名を言える訳もない。

 なので病名を訊く事はしなかった。

 僕は甘口の赤ワインをグラスに注ぎ口の中で転がした。「うん、やっぱり甘口《これ》だね」と独り言。

 録り貯めた映画を観る為、僕は遮光《しゃこう》カーテンを閉めた。この寮に越してすぐに購入した、ちょっと高価なカーテンなのだ。

 大学三年生の僕がわざわざ高価な遮光カーテンを買ったのは三つの理由からである。

 一つ目の理由は真っ暗にしないと眠れない事。外灯の少ない住宅街である為、遮光カーテンじゃなくても部屋の電気を消せば真っ暗になる。しかし僕が住んでいる学生寮の近くには踏切があるのだ。電車が近づく度に赤いランプが踊り出す。

 二つ目の理由は自分で目覚まし時計をセットした時間までは寝ていたい。射し込む明かりによって僕の安眠を妨害されてしまうのはごめんである。

 そして三つ目の理由は趣味である映画鑑賞を堪能したいという事。「映画が趣味」といっても足しげく映画館に通う訳ではない。大画面のテレビにサラウンドスピーカー。そんな設備の中で映画を楽しむ。

 その大型テレビとサラウンドスピーカーも元々付いていたものである。

 ――家具付き、日記付きの寮。

 そんな言葉をふと思い出してしまった。そうだ、日記。
 僕はグラスをテーブルに置き、本棚から日記を取り出した。ページをめくるとそこには紗綾からの返事が書かれていた。

 ▽ ▽ ▽

 何してるって、私高校生なんだよ。

 その時間は授業受けてるに決まってるでしょ?
 
 △ △ △


 確かに日記に書き込んだのは午前中であり、普通の高校生なら一限目が始まった頃だろう。

 時間もリンクしているという事なのだろうか。

 僕は三杯目のワインを注ぐ。そのワインがなくなる頃、映画を観る事なく眠りに就いた。

 * * *

 どうやら今日も夢の中へ来たようだ。目の前にあるブラックホールにひょいと飛び込む。

「よっこいしょっと」

 鮮明な夢の中。今日の夢、辺りは真っ暗だった。その日によって辺りの明るさが全く異なっている。

 今日のように真っ暗な事もあれば、東の空が白みかけている時、そして陽が出ている時もある。

 今考えてみれば陽が出ている夢を見た翌日は講義が二限目以降から始まる日であったり、寝坊をしてしまった日だったような気がする。

 要するにこれも時間のリンクなのかもしれない。

 夢を見ている時間が夜中であれば辺りが暗い。朝方であれば朝日の出る前後。そして十時くらいまで寝ている日に、起きる直前に夢を見た時は周囲が明るい。

 そういう事なのだろうか。そんな事を考えていると僕の背後からいつもの柔らかな声が聞こえてきた。

「こんばんは」

 紗綾である。久しぶりに「カープ女子」ファッションだった。

「よっ! カープ女子」

 紗綾はキャップを斜めにかぶり直し、僕に向かってウインクをした。あまりの可愛さに僕はとろけそうになる。これでは諒太と同じ骨抜き野郎になってしまいそうだ。

「えーん。昨日の試合、サヨナラ負けしちゃったんだよ。黒田さんは頑張っていいピッチングしたんだよ。でもね、中継ぎ陣が崩壊しちゃってさあ」

 二〇一九年の大型ルーキー、黒田啓一。あの名投手、三年前に惜しまれながら引退した黒田博樹投手の再来とまで言われ、鳴り物入りで入団してきた黒田啓一である。

 開幕からローテーション投手として活躍している時の人なのだ。それもそのはず、フロントドアを代名詞とした黒田博樹投手に負けない程えぐいフロントドアの使い手である。

【フロントドアの解説】
 右利きの投手の場合、左打者に対してインコースに投げ込む『シュート』の事。左打席の打者は『体に当たる!(デッドボールになる!)』と思い、体を後ろにのけ反るが、シュート回転しているボールはストライクゾーンに入る。結果、見逃してしまい、『ストライク』と判定される。

「そっかあ。残念だったね。まあ今年も調子いいからこのまま優勝するんじゃない?」

「うん。今年こそ優勝してもらわなきゃね。しかし黒田さんまだまだ若いね。ナイスピッチングだったよ」

 まだまだ若い? ルーキーなので当たり前である。

 こんな野球の話ばかりしてるとまた突然夢が終わってしまう。ずっと一緒にいたいのに。あっ、そうだ。日記の事を訊かなければ。

「あっ、あのさ……」
「ヒロ君、どうしたの?」
「あの日記の事なんだけどさ。本当に紗綾が書いてるんだよね」
「そうだよ。それがどうかした?」

 どうかしたも何もない。不思議過ぎるだろ。僕は何をどう訊ねればいいのか迷ってしまった。

「不思議……だよね。だって今僕は夢を見てるんだよね? 夢の中の紗綾とこうして毎日逢っていられるだけでも不思議な話なのにさあ、朝起きたら現実の世界に紗綾の書いた文字があるんだよ。僕、何がなんだかわからなくてさあ」
「ふふっ。困った顔のヒロ君の顔、可愛い」
「可愛いってなんだよ。三つも年上に向かって」
「ふふっ。年上じゃなかったりしてね。あの日記はね、我が家に代々受け継がれてきた日記なの。そういうの、家宝っていうのかな」
「家宝……ね。でもどうして……」
「そういえばこの近くに川があるの知ってる? ヒロ君、行ってみようよ。こっち、こっち」

 僕の言葉を遮り彼女はそう言った。そして僕の手を引き駆け出す。

「紗綾、ちょっと」

 紗綾の暖かい手の温もりを感じながら必死に走った。

 * * *

 そこで僕は目を覚ましてしまった。少し体が汗ばんでいるのに気づく。走ったからなのだろうか。

 枕元のスマホに手を伸ばし時間を確認すると『3:23』の数字が並んでいた。

 やはり時間はリンクしているのだろうか。

 今こうして起きている時の方が夢の中よりぼやけているような気がする。こんな時間に目を覚ましてしまった「現実の眠気」がそうさせているのだろう。

 意識があるのはほんの数分間だった。その後目覚まし時計が鳴るまでの間、夢は見なかったようだ。

 寝ぼけ眼をこすりながら7時に食堂へ向かった。九時から始まる一限目に間に合わせる為、食堂が一番混む時間帯である。

 静かに黙々と食事をする者。同じ大学の仲間と「コントラバスのあの子が可愛い」だの「クラリネットのあの子の足首がたまんない」だのと男子トークをしながら食事をする者。はたまたサッカーのネイマールがどうの、巨人の坂本がどうのとスポーツの話をしながらコーヒーを啜《すす》る者など様々である。

 そんな中、僕は紗綾の事を考えながら、一人カウンター席でパンをかじっている。

 いつもの朝の風景の中、食堂に壁掛けしてある大型液晶テレビからいつもの朝の番組が写し出されていた。

『続いてはスポーツコーナーです。ここからは山田アナウンサーが担当します。山田さん、よろしくお願いします』

 メイン司会者のタレントがスポーツ担当のアナウンサーへマイクを渡した。

『はい。まずは昨日のプロ野球の結果からお伝えします。ここ数年、優勝、優勝、二位とカープの黄金時代と言ってもいいでしょう。今年も二位ジャイアンツに大きく差を開けているカープの試合です。五連勝となったのでしょうか?』

 僕は知っている。昨日のカープの試合結果を。カープ対スワローズの試合をテレビで見ていた訳ではないけれど、僕は知っているのだ。ルーキーの黒田投手が好投するも、中継ぎ陣が崩壊してしまいサヨナラ負けとなってしまう事を。

『しかし試合前、カープに心配なニュースが入ってきました。飛ぶ鳥を落とす勢いの大型ルーキー、黒田投手なんですが、昨日の試合前、肩に違和感を覚え急遽登板を回避しました。登板回避の理由に対し、新井貴浩監督は次のように述べています。VTR出ますでしょうか?』

 え? 昨日は黒田が好投したはずじゃ?

 僕は口に運びかけた残り一口のパンのかけらを食べる事なく、大型テレビに目をやった。

 黒田が登板回避? どういう事だろう。紗綾の話によると黒田が好投したはずである。

 初めて密室殺人のミステリー小説を読み始めた少年のように僕は混乱していた。



「へー。そりゃ大変だ。いいかヒロ、しっかり俺の目を見て俺の話を聞くんだぞ。お前の体験している事は確かに不可解極まりない。でもな、全て夢の中の話なんだぞ。そう! 言うなればおとぎ話の世界だ。あんまり悩み過ぎるのもなんだと思うけどな」

 今は金曜日の昼休みである。親友の諒太が僕を諭《さと》すようにそう言った。

「そうだな。確かに夢だもんな」
「まあ、心配するな。なにせお前にはこの名探偵『明智諒太』さまがついてるんだからな」

 諒太はそう言って厚い胸をピンと張ってみせた。

「ありがとう、諒太。でもお前、明智じゃなくて斎藤さんだよな」
「あ、うん。斎藤さん……だぞ」

 三・四年前は毎日のようにテレビに出ていたお笑い芸人の真似をした。そろそろ『あの人は今?』という特番に取り上げられてもいい頃である。僕は特に面白い芸人だとは思わなかったけれど、妹の結菜はお腹を抱えて笑っていた記憶がある。

「Hey, guys. そんな顔して What's up?」

 なんで混合言語なんだよ。英語とスペイン語を混ぜたスパングリッシュてのは聞いた事があるけれど、流石にジパングリッシュはねえだろ。

 もちろん、このジパングリッシュの使い手は京香である。

「どうしたもこうしたもねえよ。ヒロがさあ、黒田の値が高騰して掃除当番を会費制にしたとか、訳わかんねえ事言い始めてさあ」

 頭の回路をどう繋げばそれだけわざとらしい間違いができるのだろう。

 しかもどうやったら黒田が高騰すんだよ。黒田は円やドルじゃねえっつうの!

「お前は馬鹿か」と僕は呆れ顔をした。
「馬鹿ってなんだよ、馬鹿って!」
「馬鹿だから馬鹿って言ってんだよ!」

 諒太と僕の会話に業を煮やした京香はテーブルに両手をどんとつき、僕に向かって身を乗り出してきた。

「ちょっと! 最初から説明してよ。どういう事?」

 僕は目の前で大きく開いた胸の谷間にうっかり目をやってしまう。
 僕の視線に気づいた京香ははっとした表情をした。慌てて胸を右手でふさぐとすっと椅子に腰を下ろす。
 そして睨むように横目でちらりとこちらを見た。

「見たでしょ」
「見てない」
「見たね」
「見てない」
「……」
「……」

 ほんの数秒沈黙が流れた後、僕たちは同時に口を開いた。

「見たね!」「見てない!」

 また重い空気が流れる。諒太以外は。

「ん? お前ら、どうした? 見たとか見てないとか」
「ヒロの……エッチ」

 諒太の声など一切聞こえなかったかのように京香はぼそりと呟いた。

「ヒロがエッチ? どゆこと? まさか、ヒロ、お前。京香のおっぱい見えたのか? チキショー! 俺も見てー!」
「うるさい! 諒太のスケベ!」

 京香が諒太の頭をバシッと叩く。

 僕がエッチで諒太がスケベ。この差はなんなのだろう。そんなどうでもいい事を考えていると再び京香が本題へと戻す。

「で? 黒田がどうしたって?」

 僕は京香に事最初から実を伝えた。




「なるほどね。好投したはずの黒田啓一投手が好投どころか投げてさえいなかった訳ね。でもそれってさ、日にちが少しずれてるって事かもよ」

 日にちがずれてる。確かにそうとしか考えられない。そして僕はつい余計な事を口走ってしまう。

「そうそう。それにさ、紗綾の家に代々受け継がれてきたっていう日記が僕の部屋にあるんだけどさ、僕がその日記に何かを書くと紗綾が返事を書いてくるんだよ。あれがまた不思議なんだよね」
「そんな訳ねえだろ。まあ明日お前ん家に行った時にでも見せてくれよな」

 諒太の言葉に僕ははっとした。しまった。なんとか最初のページだけは見られないようにしなければ。




 その夜、僕は寮母さんの作ったハンバーグを食べた。あまりに美味しくて、急遽食事をキャンセルした寮生の分のハンバーグまで食べさせてもらえた。

「寮母さん、ご馳走さまでした。こんな美味しいハンバーグの時にキャンセルで余ったなんてラッキーです。お腹苦しいくらい食べちゃいました」
「岡君が食べてくれてよかったわ。お粗末様でした」

 部屋に戻り、 諒太と京香の前で余計な話をしてしまった事を後悔しながら赤ワインを揺らす。

 ――日にちがずれている。かあ。

 今日は二〇一九年七月五日の金曜日である。そうだ、野球の結果を確認しておかなければ。そう思い夜のニュースをみる為テレビのリモコンを押した。

 スポーツコーナーが始まり僕は食い入るように画面に注視した。けれど、一年後に控えた東京オリンピックでメダルを期待されている選手の特集が組まれており、野球の情報はまだ始まらない。

 僕は二杯目のワインを注ぎその時を待つ。

『続い……てはプロ野球のぞうほう……情報です』

 不馴れな新人女子アナウンサーががっつり噛みながらプロ野球コーナーへと移っていった。

 広島対阪神の試合は、広島のエース野村が好投し勝利したようだ。阪神の鳥谷監督は「今日の野村君には手も足もでなかった。また明日、今日の反省を活かして戦います」と言葉少なに報道陣の元から去っていった。

 僕は日記を取り出し紗綾へ向けて鉛筆を走らせる。


 ▽ ▽ ▽


 紗綾、今日って七月五日だよね? 

 カープ勝ったね。野村投手が好投したみたいだね。

 おめでとう!


 △ △ △


 そう日記に書いた直後、僕のお腹の異変に気づいた。食べ過ぎである。僕は鉛筆を耳に挟み、日記を抱えながら部屋を出た。各部屋にトイレはついていない。共同トイレなのだ。

 トイレに駆け込み個室に入る。普段個室にこもる時はスマホをいじって時間を潰している。けれどそのスマホは部屋に置き忘れ日記を持ってきてしまったのだ。

 僕はさっき書いたページを開く。するとすでに紗綾から返事がいていた。


 ▽ ▽ ▽


 変な質問するのね。七月五日だよ。

 今日は野村さんが頑張ってくれました。イェイ!

 最後はストッパーの中崎さんがしめて、中日相手に四対一で快勝!

 今年こそ優勝だー!

 また後で逢おうね。


 △ △ △


 確かに七月五日と書いてある。日にちがずれている訳ではなかったのだ。

 しかも中日? 阪神じゃなくて?

 僕は何がなんだかわからなく、ボーっとしながら部屋へと戻っていった。

 ベッドに横たわり紗綾の事を考えた。次第に眠気に襲われ眠ってしまったようた。

 翌朝、夢を見なかった事に、僕は気づいた。

 なぜだろう。この部屋に寝て夢を見なかった事など一度もなかったというのに。

 僕は日記を取ろうと本棚へ近づいた。

「あれ? ない。日記がない」

 僕は部屋中を探し回ったのだけれど、どこにも見当たらない。昨夜の行動を思い浮かべてみようと目を閉じた。
 ハンバーグを食べ過ぎて……。あっ、トイレだ。
 落ち着いて考えてみると案外あっさりと答えがでた事に少しおかしくなった。

 僕は部屋を飛び出しトイレへ向かう。昨日入った一番奥の個室の扉を開けると隅に設けられた小さな荷台の上に立て掛けてあった。

 誰かに見られてしまったかもしれない。けれど、見つける事ができた安堵の方がぼくの心の大半を占めている。

 部屋に戻る道すがら、廊下で日記を開いてみる。そこには紗綾からのメッセージが書き込まれていた。


 ▽ ▽ ▽


 浮気者! 昨日はどこにお泊まりしてきたの?

 逢えると思ってたのに……。

 ヒロ君なんて嫌いだよー。

 ベーだ!

 学校行ってきまーす。


 △ △ △


 また意味のわからない事が書かれていた。一人で寝たにも関わらず浮気者呼ばわりされてしまった。どういう事なんだろう。

 浮気したなら責められてもしょうがない。けれど、何もしていないのに浮気者呼ばわりされると凄く損をした気分になる。

 部屋に戻り、不思議な日記を眺めていた。

 ん? なんだこれは。

 僕が気づいたのは裏表紙に書かれてある『三』という文字だった。印刷された文字ではなく、明らかに鉛筆で書かれてある。

 けれどそんなに気に留めることもしなかったのだ。何しろ紗綾の家に昔から受け継がれてきた日記である。長い年月が流れる間、紗綾の祖先の誰かが書いていてもおかしくない。

 日記を本棚へ戻し、僕は食堂に向かった。

 平日の朝食はパンである。けれど、土日はご飯なのだ。米派の僕はこの土日の朝食を楽しみにしている。鮭を焼いたりお味噌汁を作ったり目玉焼きを作ったりと手間がかかるのだろう。その為朝食の開始時間は平日より遅くなるものの、僕ら寮生も休みなのでゆっくり寝ることができる。非常にありがたい。

 僕より先に食べ終えた寮生が食器を返却口へ返す。

「ご馳走さまでした」
「お粗末様でした」

 いつもの会話がなんの違和感も持たず、BGMのように流れていく。

 そして僕も返却口へ食器を運んだ。

「ご馳走さまでした」
「はい、お粗末様でした」
「あ、寮母さん。この前も言いましたけど、今日友達が泊まりにきますので」
「はい。楽しんでね」

 皺いっぱいの笑顔が僕に微笑んだ。

「はい。ありがとうございます」

 僕は部屋に戻り、録り貯めた映画を立て続けに三本観賞し終え、気づくと夕方の五時になっていた。六時には諒太と京香が訪ねてくるのだ。

 僕は慌てて掃除を始めた。掃除といってもクイックルワイパーとコロコロだけである。

 一通りの掃除が終わったのを見計らっていたかのようにスマホが音を立てた。

 ――もうすぐ着くよ。

 京香からのLINEである。諒太と京香が待ち合わせをし、二人で寮に向かって歩いているようだ。

 ――門の前で待ってて。今行くから。

 数回LINEをやり取りをした後、僕は階段をかけ降りた。

 門の外に出ると既に二人は来ていた。ゴリラ顔の親友ともう一人。

 キャップを深々とかぶり、マスクで顔を覆っている。更に長い髪の毛は器用に束ね服の中に隠しているようだ。上着の襟を立て後ろ髪が見えないようにしている。かなりの不審者であるけれど、どうみても女には見えない。

「よっ、こっちこっち」
「きゃー、緊張するう」

 どう聞いても緊張している声色ではない。どちらかというと、かなりわくわくしている声である。

「しー! 京香はしゃべるな」

 部屋に行く為には食堂を通らざるを得ない。食堂に入ると五人の寮生が食事をしていた。幸い寮母さんはキッチンの奥の方で忙しそうに動いている。

 京香の背が高いとはいえ、185cmの諒太と僕の後ろに隠すのは以外と容易であった。僕たちは京香の楯になるようそろそろと歩く。

 今のうちに南棟の入口へ入っていかなければ。そう思った瞬間、一番厄介な寮生が僕に声をかけてきた。

「岡、友達連れてきたのか?」
「お……おう。西園寺《さいおんじ》君」

 僕たちと同じ音大に通う西園寺誠。南棟の二階、正に僕の部屋の隣の住人である。しかも同じソングライティングの講義を受けている為、諒太や京香とも面識がある。

「あ、うん。宅飲みアンドお泊まり会……的な。それじゃあ、また明日」

 僕は顔がひきつっているのが自分でもわかるほど動揺していた。

「あれ? 君、確か……斎藤諒太君……だよね?」

 僕はなんとかこの場から立ち去ろうとしたけれど、西園寺君が諒太に気づいてしまった。

「え? あ、うん。斎藤さんだぞ」

 諒太も顔をひきつらせながら古いギャグで必死に応えた。

「古っ」
「ははっ。だよね。高三の時はウケてたんだけどね」
「あ、そうそう。そんな事より君たちいつも背の高い女の子と一緒にいるよね? 俺、あの子好きなんだよね」

 すると諒太が慌てて口を開いた。

「ああ、京香の事ね。あ、でもあの子はやめといた方がいいよ。ちょー性格悪いから……イテッ!」

 どうやら京香が後ろから諒太の足を蹴ったようだ。

「そうなの? そんなふうには見えないけど。岡はどう思う? ちょーいい女だと思わない?」
「いい女? ま、まあ、しゃべらなければね……イテッ!」

 容赦のない蹴りが僕のくるぶしを襲った。

「後ろの友達も俺らと同じ音大生?」

 諒太と僕で隠していたつもりだったけれど、全く隠せていなかったようだ。

「あ、こいつ? こいつは高校の友達で遊びにきたんだよ。なあ、きょ……京介」
「へー。岡の高校って東京だろ? 遠いところわざわざ遊びにきてくれたんだ。はじめまして。岡の隣の部屋に住んでる西園寺です。後で俺も遊びに行こうかな」

 最悪の展開である。けれど諒太がなんとか乗りきってくれた。

「あ、こいつ、ちょー人見知りなんだ。高校時代の積もる話もあるし……。そうだ! 今度、俺とヒロと西園寺君とで飲み行こう。今度……」
「いいねえ。じゃあその時、背の高い彼女も連れてきてよ。な、お願い。紹介して」
「お、おう。任せとけ」

 どうにか乗り切った。僕たちは南棟へ繋がる扉を開け部屋へとたどり着いた。

「ふう!」

 僕は部屋に入った瞬間、大きく息を吐いた。

「どうでもいいけどあんたたち、さっきのは何? 性格悪いだとか、口が悪い的なな発言! まあ、でも許してあげる。二人とも私の事を他の男に取られるのが嫌だったって事ね」

「そうだよ」「な訳ねえだろ」

 あわただしく部屋へ入ってきたためか、ようやく京香は部屋の様子が見えたようで口を開いた。

「へー! 綺麗にしてるじゃん。結構広いね。テレビも大きいしサラウンドスピーカーも買ったの?」
「あ、ここ、家具付きの寮だから全部最初から付いてたやつなんだよ」

 諒太と京香が買ってきたお惣菜やおにぎりをテーブルに広げると、僕はシャンパンのコルクを天井に向けて勢いよく飛ばした。

 宅飲み宴会の始まりである。