「香埜子、また朝帰りかよ」
自転車に乗って自宅に戻ると、弟の久志(ひさし)の悪態に出迎えられた。
だいたい、七つも年下のくせにいつの間に姉を呼び捨てにするほど偉くなったんだと言ってやりたいのをグッと我慢して、自転車の鍵を弟めがけて放り投げた。
「遅刻するだろ?せめて、朝飯前には帰って来いよ」
「悪かったわね。ほら、早く行きな。バス乗り遅れるよ」
まだ文句を言い足りない様子の弟を、ホラホラと追い立てて送り出す。
私がさっきまで借りていたのは彼の通学用の自転車だ。久志は自転車とバスを乗り継いで片道1時間かけて隣の市にある県立高校に通う。その昔、私も通った道のりだ。
「香埜子~、早くこっち手伝って~」
弟とのやり取りが聞こえたのか、母が店の調理場から私を呼ぶ。私はその声に「はーい」と答えながら、荷物を置いて調理場へと急ぐ。
「今日は、森林組合の会合があるって言ったじゃない。11時に、幕の内15個。早くしないと、間に合わないんだから」
「ああ、ごめん。すっかり忘れてたわ」
娘の朝帰りについては華麗にスルーを決めた母が、せかせかとお総菜を煮込みながらブツブツ小言を言う。私はエプロンを着けてから、丁寧に手を洗う。
「今日のメインは鰆。幕の内は天ぷら、宅配は西京焼きな」
「…はい」
母とは違い、店先から顔を覗かせた父は、何か思うところがあるのか、仏頂面で本日のメニューを告げた。
言いたいことがあるのなら、はっきり言えばいいのに。どうやら私の周りの男というのは、言葉を省略したがる傾向にあるらしい。これで、よく客商売が務まるものだと思う。愛想の良い母が居なければ、創業80年のこの店もどうなっていたことか。
そんな考えが浮かんだけれど、父がいくら不機嫌顔で接客したとしても、この店は潰れることはないと思う。
祖父の代から続く「横山鮮魚店」は、名前の通り魚屋だ。毎朝、隣の市にある市場で仕入れた魚を売る以外にも、副業として料理の仕出しもやっている。
この町では他に鮮魚を扱う店はないし、この町に料理を宅配してくれる店はごく僅かだ。つまりは、競争相手不在ゆえに、目下のところ我が店が独占状態なのである。