梅雨が近いらしい。入学したての頃に比べて格段に湿度が上昇し、不快な事この上ないが学校へは行かなくてはならないので、相も変わらず田園風景の真ん中をトボトボと歩いている。学校へ続く道路に見える陽炎も今では恨めしい産物にしか思えないぜ。
 中間試験前と言うこともあって、授業はいつも以上に教師陣の気合が篭ったものになるも、今までだらけていた俺にとっては急に方向転換を強いることもできずに、いつも通りぼんやりと熱心に黒板を叩きながら熱弁を振るう数学教師の言葉を右から左へと受け流していた。除湿機能付きのクーラーなんて文明の利器が皆無なこんなど田舎の県立高校だもんな。授業へのテンションが低いのはその辺の憂慮さもぜひとも考慮してもらいたいね。
 さて、いつもの通り生徒会室へと再び歩を進めようとしていると、
「ちょっと、蘭」
 後ろからいきなり呼び止められた。この高圧的な物言いは一人しか思い浮かばないのだが。
「なんだ?」
「あんた今日暇でしょ。ちょっと付き合いなさいよ」
 俺の予定を勝手に暇と決めつけ、全力で理不尽さを発揮していた。
「ちょっと待て。この場所を歩いているってことは生徒会室へ向かっていると気付かないのか? 俺は今日も生徒会活動だ」
「そんなもの今日位休んでも大丈夫でしょ。さあ、行くわよ」
「ちょっと待っ……」
 俺の言葉を最後まで聞かず、ネクタイを引っ張りながら廊下を歩いて行く巫部。端から見たら強制連行さながらで、他の生徒から奇異の目で見られまくっているじゃないか。
「待て待て、わかったからネクタイ離せよ。歩きにくいだろ」
「いやよ。どうせすぐ逃げるでしょ」
 そのままの格好で強引に引っ張られる俺。やっと開放されたのは昇降口を抜けてからだった。
「で、どこに行くって?」
「本屋さんよ本屋。昨日も行ったんだけど参考書がなくてね。一人で探すよりも二人の方が見つけやすいでしょ。だからあんたを連れていってあげるのよ。ありがたく思いなさい」
 振り向き、右手の人差指をビシっとつきつけられるが、まったくもってありがたいとは思いません。しかし、ここで断固拒否と言う選択肢は俺にあるのだろうか。一瞬考えもしたが拒否権を発動させたところで逆切れされそうな雰囲気が漂っているし、ここは折れた方がいいのかねえ。溜息と共に俺は前を歩く巫部の後ろを肩を落としながら続いた。
 いつもは結構なお喋りで俺をからかいまくっている巫部だが、今日に限っては大した会話もなく俺たちは町で一番大きい書店に到着した。俺もよほど特殊な本を買う以外は立寄らない本屋で、参考書から専門書まで結構幅広く取り揃えている書店である。
「ええと、参考書は四階だな」
 入口付近にあるフロアマップを見ながら、参考書売り場である四階までエスカレータで上がると、フロア一面に漂う書店独特の匂いが鼻を突いた。
 しばらく、物理と書かれた札の周辺を探す巫部。手にとっては内容を確認し、棚に戻すといった繰り返しだった。
「なあ、店員さんとかに聞いた方がいいんじゃないか」
 何もすることがなく、巫部の横で適当な本を広げ、内容の小難しさに眩暈を覚え、棚に戻すことしかできない俺は、超合理的な提案をするも、
「ダメよ。店員さん忙しそうじゃない。こういうのは自分で探さないと」
 参考書から目を上げず呟くが、なら俺に探させるな。
 それからと言うもの、俺には苦痛以外の何者でもない時間だった。まったくもって興味の無い参考書選びに付き合わされているんだからな。ったく、何でこいつは俺をつき合わせたんだ。意味がわからん。
「よし、参考書はこれでいいかな」
 待ち望んでいた巫部の言葉で拷問のような時間が終了した。とんでもなく無駄な時間を過ごしたと思うのは俺だけか? 巫部はと言うとややご機嫌なご様子で書店から出た途端、袋を開け歩きながら分厚い本を読み始めやがったじゃないか。
「おいおい、帰ってから読めよ」
「いいじゃない。昨日も探してたのよ。やっと買えたんだからすぐに読んであげないと」
 意味不明な理由とともに、分厚い本を読みながら歩く巫部。しかもなぜか、対向してくる人や自転車を見向きもせず避けられるから不思議だ。
 駅に向かい暫く歩くも、
「ああ、もう手が疲れちゃった」
 そりゃ、そんな本を手の力だけで支えてれば疲れてくるわな。
「ちょっと休憩しましょう」
 そう言って巫部は公園のベンチを見つけ腰を下ろす。俺も横に何気なく座り、夕暮れになりつつある空を眺めていると、
「パパパアー」
 通りの方でけたたましいクラクションの音が響いた。咄嗟に顔を向けると道の真ん中で自転車と少年が倒れているじゃないか。
「おっ、事故か?」
 と言って巫部の方に振り返ると、そこには、大きく瞳を見開いた巫部がいた。呼吸することも忘れたかのように、ただただ自転車少年の方を見つめており、その手は震え、持っていた本が手を離れ少々の砂煙とともに砂の地面に落下した。
「おっ、おい、巫部! どうした!」
「あっ、ごめ……ん、ちょっと……」
 そう言って巫部は俯き、視線を地面に落としてしまった。落ちた本を拾いもせず、その手は未だに震えていた。事故に動揺したって言うのか? だが、良く見るとさっきの自転車少年は何事もなかったかのように自転車を起こし、ドライバーに頭を下げていた。こりゃあ、ぶつかったとかそういう風ではなく、ただ単に飛び出して転んだだけのようだ。何事もなくてよかったな。事故の目撃なんて気分のいいもんじゃないしな。それにしても、巫部の動揺ぶりは尋常じゃないぞ。